2009年秋 南イタリア紀行(3) 9.19









	
	朝一番で、AVISの空港事務所へ車を持って行くつもりが、どうせなら明日の朝、ホテルを発つ前に取り替えようと話して、今日は一日朝
	からフィレンッエの街を散策する事にした。美術館、サンタマリア・ノベッラ教会とその広場あたりをウロウロ。



明けてゆくフィレンッエの街。



我々の泊まった部屋。3室あって、こういうのを見ると日本のホテルなどは、いかにチンケなのかがよく分かる。





食堂の天井画。宗教画だが、聖人像なのか何なのかよくわからん。





17世紀頃の水道の蛇口。今はさすがに使われていない。



ホテルの中庭。ここで食後コ−ヒーを呑む。このシャツは、イギリスにもシルクロードにも行った。お気に入りは捨てられない。

	
	フィレンツェ(Firenze)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆。

	 国  イタリア 
	 州  トスカーナ 
	 県  フィレンツェ 
	 人口 約36万6千人 2006年02月28日 

	フィレンツェ(Firenze)はイタリアのトスカーナ州フィレンツェ県に属する人口36万人の都市である。トスカーナ州の州都、フィレンツ
	ェ県の県庁所在地であり、近郊の人口は約20万人。1986年の欧州文化首都に選ばれた。
	古代ローマ時代、花の女神フローラの町としてフロレンティア(Florentia)と名付けた事が語源とされている。周辺国では、フィレンツ
	ェのことを Florence(フローレンス、英語。フロランス、フランス語)、Florenz(フロレンツ、ドイツ語)、Florencia(フロレンシ
	ア、スペイン語)と呼ぶことにもその名残が見られる。
	フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設され、ローマ殖民都市がおかれた。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配した
	が、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ
	川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。1300年、教皇派内部がネーリ(黒党)とビアンキ(白党)の2つにわかれ、内乱
	がはじまった。内乱はやがて終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属していたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放され
	る。このような内部抗争とは関係なく、都市自体は繁栄していった。

	その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトス
	カーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な
	同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定した。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の
	店舗を所有していた。 
	メディチ家は金融業などで有力になり、商人で銀行家でもある一族は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に
	着手した。
	14〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。1433年、労働者と富
	裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者
	を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。彼の死後は、その子ピエロに権力が
	継承され、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。

	ロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で、画家のサンドロ・ボッティチ
	ェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイ
	タリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。
	フィレンツェのフロリン金貨は、全ヨーロッパの貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけ
	るルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、サンドロ・ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラフ
	ァエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。

	ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年にイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に屈辱的な譲歩をした。これに憤慨した民
	衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ド
	ミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナ
	ローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁
	判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には
	復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的
	・経済的に次第に衰退した。

	1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。フ
	ェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍
	とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン
	時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のお
	さめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。

	第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は被害をまぬがれたが、ポンテ・ベッキオをのぞく橋のすべてが1944年に破壊され
	た。また1966年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術により、数年かけて復元された。



礼拝堂の壁に降臨し、私を祝福しようとしている大天使。(なんちゃって、堕天使かも。ホントは陽の光。)





	
	サン・ジョバンニ広場には、洗礼堂がある。ブルネッレスキ作の巨大なクーポラや、ショットの鐘楼など、写真に納まりきらないほど
	大きな聖堂だ。460段の階段でクーポラの上まで昇ればフィレンツェの大パノラマが一望できるそうだ。





驚くばかりの彫刻と装飾。よくやるよねぇ。









ただただ、唖然とする。ちまちまも、ここまで徹底されるとほんとに美しい。





上左がショットの鐘楼。上右が、ミケランジェロ広場から見えていた、赤いドゥオモの屋根。











	
	ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)

	かってのフィレンツェ共和国政庁舎で、現在市庁舎として使われている。14世紀初頭のゴシック建築の宮殿。16世紀、コジモ1世がメ
	ディチ宮殿からここへ居を移す際、ヴァザーリに内部装飾を依頼し、見事なルネッサンス様式に改装した。シニョリーア広場に建つ、
	94mの高さの塔を持つゴシック建築である。この右手にウフィツィ美術館がある。





	
	市庁舎なので、パトカーや公用車が詰めている。前は大広場である。共和国時代からの政治的・社会的中心地で、修道士サヴォナロー
	ラが教皇派と衝突し、1497年この広場で処刑が行われた。現在、処刑日の5月23日は町の祝日。広場には数多くの銅像が立っており、特
	にジャン・ボローニャ作「コジモ1世の騎馬隊」やバルトロメオ・アマナーティの「ネプチューンの噴水」は有名。





ヴェッキオ宮殿の正面(上)。



ここがウフィツィ美術館。





	
	フィレンツェの街中を流れるアルノ川。下流にヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)が見えている。ヴェッキオ橋は、今なお中世の形を残す
	フィレンツェ最古の橋である。洪水に流され1345年に再建された。中央にはフィレンツェ貴金属細工の父チェッリーニの胸像が立
	つ。かっては精肉店や青果店があったらしいが、ヴェッキオ宮殿とビッティ宮殿を結ぶヴァザーリ回廊が、川上側に並ぶ商店の上に通
	された際に撤廃させられたと言う。



ほんとに美しいフィレンツェのアルノ川。上部の黒いものはゴミではない。空を飛ぶトンビ(のようだった)である。







橋の上から見た川の中。カモが数羽エサを探していた。



昼食に、ガイドブックに載っている店に行きたいと言うので、「ビッティ宮殿」を越えてこの店を探して歩く。









	
	「ビッティ宮殿」(Palazzo pitti)の前を通って、ちいさな路地を3つ4つ行った先にそのレストランはあった。ビッティ宮殿はフィ
	レンツェ・ルネッサンスの典型的な宮殿である。フィレンツェ商人のピッティが建設した。ラファエロの作品があるパラティナ美術館、
	銀器博物館、衣装博物館、陶磁器博物館などが内部にある。





	
	店では、なんと日本人の青年がコックとして働いていた。修行して日本へ戻り、店でも開くのかと聞いたら、「いや、もう帰る時期を
	逃しましたので、このままイタリアに残ります。」と言う。何があったかはしらないが、頑張って。



世界各国から来た客の写真と通貨。日本の「円」もある。野口英世が2枚貼ってあった。









上右はイタリアの松茸と言われる、ポルチーニとかいうキノコ。うまかった(と思う)。







近世になって作られた家の呼び鈴。一つの建物の中に、多くの家族が住んでいるのだ。





上右が、フィレンツェ貴金属細工の父とされるチェッリーニの胸像。



	
	wifeは更に「有名なチョコレートの店があるから寄りたい」と言う。足が疲れたし、ホテルのすぐ近くだというので、私だけ先に
	ホテルへ戻る。
	するとフロントの女の子が、貴方の車には問題があるのですぐこのガレージへ行ってくれと言う。そりゃ問題があるだろう。事故
	ってるんだから。「問題があるのは知っている。明日車を交換する予定だ。」と言うが、どうしてもすぐ行ってくれと言う。「OK、
	OK。wifeがもうすぐ戻るから、それから一緒に行ってくる。」と言うとやっと解放してくれた。
	チョコレートの店も昼休みで閉まっていたと言って戻ってきたwifeと教えられたガレージへ行く。車はそこからまた下請けに出さ
	れたらしく近くのガレージへ移されていた。そこの兄ちゃんが、我々の車に乗りハンドルを回しながら「Very heavy」と言う。ハ
	ンドルが堅くて回らないと言うのだ。「イタリアでは、フェラリとランボールギーニ」はいい車だが、他はダメ」などとのたまう。
	「それで我々はどうすればいいのだ」と聞くと、「明日の朝、ホテルまでは何とかして届けるが、その後は勝手にしてくれ。」と
	言う。さぁ困った。
	そんな車を運転して、とても空港オフィスまで行く事など出来やしない。「こりゃヤバイな」と急ぎホテルへ戻り、ローマのAVIS、
	Emergency Number、空港のAVISと電話するが全く意味が通じない。「こりゃマジでやばいかもしれん」。

	ふと空港で貰った地図を見ると、フィレンツェにも幾つかのAVISのオフィスがあって、ホテル何とかの近くにも一つある。こりゃ
	もしかしたらこの近くじゃあるまいか、と思ってフロントの女の子に聞くと歩いて十分だという。しめた!書類一式を抱えてその
	事務所を探す。すぐに見つかった。応対してくれた女性は、「あぁ、簡単簡単、その車は我々が引き取るので、貴方は明朝八時半
	にここへ来てくれれば交換します。」と言ってくれた。やれやれ。



チョコレートの店に寄ると、驚いたことに日本語の雑誌で特集された記事まで店頭にあった。相当日本人も来ているとみえる。



	
	好きなチョコレートを一個づつ選んでパックに詰めてもらう(上左)のだ。wifeはこれを3包お土産に買って帰ったが、一包は熱
	で全部溶けて、巨大な塊のチョコレートになっていた。





夕方、戻ってきたヴェッキオ宮殿前の広場。観光客でごったがえす。上左が「コジモ1世の騎馬隊」像。





上左、サンタマリア・ノヴェッラ教会。右はその前の広場。このすぐ側が我々の泊まったホテルである。空が見事に青い。

	
	ホテルへ戻り、フロントの女の子に一切を説明し、ガレージとAVISにイタリア語で電話して貰い、全てを手配して貰った。助かっ
	た。この女の子は二十代だと思うが、実にてきぱきと手配してくれて、非常に助かる。安心したので、近くのパスタ屋へ行ってシ
	ーフードスパゲティとピザを注文する。陽気なウェイター達がいて、wifeは「ワッ!」と驚かされていた。フィレンツェの第二夜
	が終わった。




「フィレンツィエ案内」を見る方は、以下をクリックしてください。