2009年秋 南イタリア紀行(8) 9.24



ローマ市内見物

	9月24日(水)

	今日はローマ最後の日である。昨日行けなかったバチカンへまず行って、それから国立博物館、コロッセオ、カラカラ浴場と廻る予定。











下が、上記地図の拡大です。




	スペイン広場駅から地下鉄A線に乗って2つ目の「Cipro  museume Vacticani」駅で下車。バチカン美術館へ行くことにする。有名な
	ダビンチの「最後の晩餐」などがある所だ。ガイドブックの地図に、「このあたりが行列の最後」と書いてある。まさかもう並んでい
	るわけはあるまいに、と思って歩いていくと、まさしく長蛇の列。しかもガイドブックに書いてあるあたりまで続いている。「こりゃ
	いつ入れるかわからんぞ」と言うので、先に他へ行く事にする。地下鉄へ引き返して、Tenmini 駅へ向かう。ここに、ローマ国立博物
	館がある。



メトロの三日間券と、上右がTermin駅の(普通の)TAXI乗り場の行列。



駅から歩いて数分で「ローマ国立博物館」(上右)に着く。




	上野の博物館に比べたら、広さも展示物も三分の一位しかないが、それでも3000年に渡るローマの遺物が並んでいるので、重厚さ
	は格別だ。展示品は石造物が多い。一通り見て回って、今度はコロッセオへ行く。地下鉄で2つ目。


	ここは凄い。卑弥呼が生まれる間に建った建物がそのまま残っている。ポンペイより感激した。キップを買うのに延々と行列で、約30
	分ほど並んだ。1階2階と見学し写真を撮りまくる。ここで昼食にする。コロッセオ筋向かいのカフェでピザを食べる。
	カラカラ浴場はもうパスして、再度バチカンへ行ってみることにした。ここからだと七つ先の駅である。地下鉄の3日券を買ったので、
	どこまでいってもいいのだ。


	バチカンに着いたのは午後2時頃だが、この時間ではもう行列は無かった。朝一番が込むのだ。入口はすんなり入れたし、内部もスム
	ースに見学出来た。天井画、壁画、大壁画の連続である。フィレンツエでは写真撮影NOだったが、ここはNON-flashでOK。そういえば、
	ローマ国立博物館も写真撮影OKだった。

	バチカン美術館は内部が幾つもの機関に分かれている。美術館、博物館、修道院、教会、文化財センター等々。ここのシステーナ修道
	院に有名な「最後の晩餐」もあるのだ。ここは撮影禁止で、さすがに多くの人でいっぱいだったが、少しも騒がしくない。みんな静か
	にただ黙って名画を見上げている。
	フィレンツェでも考えたが、どうしてこうまでヨーロッパ人は宗教画ばかり描くのか。マリアの受胎、キリストの受難、東方の三博士、
	母子像などなど、どこまで行っても聖書に題材を求めた絵ばかりである。日本人の花鳥風月と対比すると、何か面白い精神構造の比較
	研究ができそうだ。教科書に載っている絵がけっこうある。どれもこれも天井画や壁画だったのだ。彫刻や地図も多い。



	
	バチカン市国	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	Status Civitatis Vaticana (ラテン語)
	Stato della Citta del Vaticano (イタリア語) 
  
	首都 バチカン 
	教皇 ベネディクト16世 
	面積 総計 0.44km2(195位) 
	人口 総計(2004年) 821人(194位) 
	独立 - 日付=ラテラノ条約締結 イタリアより 1929年2月11日 
	通貨 ユーロ(?) 

	バチカン市国(バチカンしこく)は、イタリアのローマ市内にある世界最小の主権国家。日本語では、ヴァチカン市国、ヴァティカン
	市国とも表記。イタリア語が常用される。国際連合非加盟。
	バチカンはローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。バチカン
	の統治者はローマ教皇である。ローマ教皇庁の責任者は国務長官( Cardinal Secretary of State, 通常は枢機卿)、実際の統治はバ
	チカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長(Governor of Vatican City and President of the Pontifical Commission for 
	Vatican City State 通常は枢機卿)が務めている。2007年8月時点で教皇はドイツ出身のベネディクト16世、国務長官はイタリア人の
	タルチジオ・ベルトーネ枢機卿、行政庁長官兼市国委員長はイタリア出身のジョヴァンニ・ラヨロ大司教が務めている。
	バチカンという名称は、この地のもともとの名前であった「ヴァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会
	が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となったもともとの理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためであ
	る。公用語はラテン語であり、公式文書に用いられる。ただし通常の業務においてはイタリア語が話されている。また、外交用語とし
	てフランス語が用いられている。また警護に当たるスイス人衛兵達の共通語はドイツ語である。



バチカン美術館を一通り見て、135年にできたというサンタンジェロ城へ行く。円形の城で博物館になっている。





何だこれは! というようなトローリーバス。よくこれで曲がれるなぁと思うが、トローリーバスだから可能なんだろうね。











	サンタンジェロ城	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	サンタンジェロ城(サンタンジェロじょう、伊: Castel Sant'Angelo)は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。日本語訳によ
	っては、聖天使城、カステル・サンタンジェロとも呼ばれる。 正面にはサンタンジェロ橋(ponte Sant'Angelo)があり、わずかに離れ
	た場所にあるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の通路で繋がっているといわれている。

	135年、皇帝ハドリアヌスが自らの霊廟として建設を開始しアントニヌス・ピウス治世の139年に完成した。 霊廟はきれいな円形で、
	太陽を象徴したハドリアヌスが戦車を引く像が頂上に設置された。暫くすると軍事施設として使用されはじめ、403年にはアウレリ
	アヌスの城壁の一部に組み入れられ、14世紀からは教皇達により要塞として強化され、またその頃から牢獄や避難所として使用された。
	クレメンス7世はローマが恐ろしい略奪を受けている間、カール5世率いるドイツ人傭兵(Lanzichenecchi)の包囲に抵抗するためこの
	機能を使用した。
	サンタンジェロ城の名称は、590年にローマでペストが大流行した際、時の教皇グレゴリウス1世が城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミ
	カエルを見て、ペスト流行の終焉を意味するとしたことに由来する。
	その出来事を記念して、16世紀にラファエッロ・ダ・モンテルーポ(Raffaello da Montelupo)による大理石製の天使の像を城の頂上に
	設置した。1753年からはPierre van Verschaffeltによる青銅製の像が設置してある。



サンピエトロ大聖堂の夕陽(上)と、サンタンジェロ城(下)





サンタンジェロ橋には天使や偉人の彫像が並ぶ。橋のたもとはカップルで一杯。




	ローマの美術館・博物館は、夜7時頃まで開いている所が多い。仕事を終えた Businessman達に配慮したやりかただという。ここでは
	納税者がちゃんと権利者として認められている。文化一流国というのは、こういう施策をとれる国のことを言うのだろうね。日本人は
	アホな官僚共に「活かさず、殺さず」支配されている呑百姓の国だから、ま、仕方ないか。しかもそいつらを自分の税金で最高学府ま
	で行かせて、あまつさえ、官僚として、また天下り役人として、死ぬまで面倒見てるんだもんなぁ。しかもそれに気づいてない。
	ま、市民社会というものの歴史が違うね。たかだか300年と2000年だもんね。







サンタンジェロ城の正面







夕日を浴びて、バチカンのサンピエトロ大聖堂が美しい。しばしその美しさに見とれる。






	ここからが大変だった。ホテルまで近そうだと言うので歩きだした。テヴェレ川を越えて、川に沿ってホテルを目指すがなかなか着か
	ない。四五人に尋ね、ポリスにも聞いたがそんなホテルは知らないと言う。おそらく近くまで戻っているはずなのだが、同じような通
	り同じような建物ばかりなので、皆目わからない。仕方ないのでタクシーに乗る。

	ワンメーターでホテルに着いた。シャワーを浴びて、ローマでの最後の晩餐に出掛ける。歩き疲れたので、ホテルのすぐ側のレストラ
	ンへ入る。




	世界的に有名な「タマラ・レンピッカ」と言う画家の絵を店中に飾ったレストラン。店中にその画家の絵が飾ってある。シュリンプ、
	ロブスター、スモークドサーモンなどを食す。ワインまでラベルにタマラの絵が飾ってあったが、これはあまり旨くなかった。それで
	も、たちまち一本空いてしまった。「タマラ・レンピッカ」という画家はここで絵をみるまでしらなかったが、なんとも個性的な絵を
	描く画家である。陽気なウェイターのお兄ちゃんと英語でお喋りをする。タマラの事やイタリアや日本の事、タマラの本物は高くて買
	えないと言っていた。




	我々に続いて若いカップルが店内に入って来たが、イタリアに来て初めて、おとなしい女の子を見た。二人はイタリア人のように見え
	たが、女の子のほうは今までに見た女性の中でも一番イタリアンらしく無かった。おとなしくひかえめで、初めてレストランなんかに
	来た女子高生のようにも見えた。勿論高校生ではないのだろうが、それほど初々しい振る舞いだったのだ。




	概してイタリアの女は強い。男と対等だし、男勝りで客の文句に一歩も引かないウェイトレスも多い。大口をあけてガハハハ笑い、開
	けっ広げでゼスチャーばかりの女の子ばかり見ていたので、この子の存在は驚きだった。このお姉ちゃんは、見た目からしてナヨナヨ
	している。「ヘェー、こんな子もいるんだ」と思って見ていると、そのうちイタリア語での会話がはじまった。






	二人のイタリア語の会話をそれとなく聞いていると、この子がただおとなしいだけでないのもよく分かった。イタリア語なので話の内
	容はわからないが、「うん、うん、分かった太郎君、でもね、」という感じで、すべき所ではしっかり反論している。若いカップルに
	幸あれ。ローマ最後の夜も、実に心地よく更けていった。






2010年5月から兵庫県立美術館で「タマラ・レンピッカ展」が開催されていた。日曜日早速wifeと見学に行った。








	タマラ・ド・レンピッカ 	Tamara de Lempicka (1898-1980) 	アール・デコ 

	ポーランド、ワルシャワ生まれ。 1916年結婚。1918年、パリに移住。 1925年、アール・デコ展覧会に作品を出す。離婚後、1933年
	再婚。 1939年、アメリカに移住。 



オートポートレート 「緑色のブガッティに乗るタマラ」 1925, oil on wood, private collection



ソンミ侯爵の肖像   1925, oil on canvas, private collection



エリストフ殿下 1925, oil on canvas, private collection



バルコニーのキゼット (レンピッカの娘) 1927, oil on canvas, Musee National d'Art Moderne, Paris



若い女たち 1927, oil on wood, private collection.