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松尾大社
2007.4.1(日)


	松尾大社

	<祭神>
	・大山咋神(おおやまぐいのかみ)
	 上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命の父神。山の上に鎮座し、山及び山麓一帯を支配している神であり、比叡山と松尾山を支配する神
	 だったといわれている。
	・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
	 福岡県の宗像大社に祀られている三女神の一神で、海上守護の神様といわれている。別名は中津島姫命(なかつしまひめのみこと)。 

	<由緒>
	松尾大社は賀茂神社と並び京都最古の神社といわれている。現在の松尾大社の後方にある松尾山中頂上近くにある巨岩を信仰の対象
	とし、一帯の住民の守護神としたのが神社の起源とされているようである。朝鮮半島から渡来した秦氏がこの地に移住し、農業や林
	業を興したが、大宝元年(701年)に現在の地に社殿を建立し、一族が社家をつとめたという。
	平安遷都以後は皇室鎮護の社となり、行幸も数十回行われたとされ、貞観8年(866年)には正一位の位が与えられたといわれている。 
	中世以降、醸造の神様として、全国の酒造家などから信仰を集めている。これは、天平5年(733年)に社殿背後より泉が湧き出たとき、
	『この水で酒を醸すとき福が招来し家業繁栄する』との松尾の神の御宣託があったことに由来しているという。




	月読神社から歩いてくるとすぐ松尾大社に着く。新撰田という小さな田んぼ(の跡地)のようなところを通って一の鳥居の方へ歩く。
	ここで時期が来れば田植え、稲刈りが神事として行われているのだろう。左手に駐車場へ行く道があり、ここに二の鳥居が建ってい
	る。






	酒の神様として有名な神社。松尾大社は京都最古の神社で、秦一族の氏神であった。秦一族は、四世紀から六世紀ごろ韓半島から大
	挙して渡来、瀬戸内海を東上、畿内、山城葛野郡に入植し、長岡京、平安京の造営に貢献した渡来系の集団である。飛鳥時代の大宝
	元年( 701)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)がこの地一帯に住んでいた民が神として崇めていた松尾山頂の磐座(いわくら)を
	麓へ勧請し、一族の氏神として社殿を建立、秦氏が神職を受け継いできたのが起りとされている。その後、奈良時代の天平2年(730)
	朝廷から大社の号が勅許され、平安時代には皇城鎮護の神として東の「賀茂の厳神」、西の「松尾の猛霊」と称された。中世(一般
	的に鎌倉・室町時代)以降は秦氏の技術に由来する醸造祖神として崇敬を集めた
	酒の神様を奉った神社というのは、全国にもいくつか存在するが、ここ京都では松尾大社や梅宮大社、北野天満宮といった神社が酒
	にかかわる神社として有名である。中でも松尾大社は、京都最古の神社でもあり、日本第一醸造之神として全国的にも非常に有名な
	神社となっている。




	朱塗りの鳥居をくぐって広い境内に入ると、楼門、拝殿、その奥に本殿が建っている。本殿は松尾造りと呼ばれるもので、中世の様
	式をよく伝え、社宝の三体の木造神像とともに重要文化財に指定されている。真正面にある楼門をくぐり抜けると、目の前に本殿。




	松尾山から流れた渓流が「霊亀の滝」となり、小さな渓流となって社殿群の間を流れているが、霊亀の滝の近くに「亀の井」と名付け
	られた霊泉がある。醸造の祖神として尊ばれ、境内の亀の井の水は酒造時に入れると酒が腐らないといわれ、延命長寿、よみがえりの
	水としても知られている。その伝えが広まり、全国の酒造・醸造業者が酒水に混ぜる風習が生まれた。また、この水は長寿の水として
	知られているようで、多くの人がこの水を汲みに訪れているようである。



楼門(上)と、拝殿(下)。





「本殿」(上)は重要文化財に指定されている。





松尾大社・お酒の資料館





	松尾大社の二の鳥居の横にあり、酒ができるまでの工程が、全国の酒造業者らから寄贈された古くから伝わる酒造道具などとともに
	展示されている。また、信楽焼、備前焼、有田焼など、名陶芸家によって作られたとっくりや杯などの酒器約100点も展示されて
	いる。季節に応じて様々な特別展なども開催されているようである。ここでは小さなスペースながらも日本酒の文化をいろいろと楽
	しむことができる。しかし日本酒の試飲がなかったのは残念だった。もっとも、隅っこにある売店で日本酒を売ってはいたが。試飲
	したら飲むだけ飲んで買わない我々のような輩がいるので、おそらく金を出して買えという事だろうな。












	「神代の昔、八百萬神々が分土山(松尾山)に集い給いて神議りをなされた。しかし、当時はまだお酒と言うものがなく、そこで松尾
	大神が付近一帯の山田の米を蒸し、御手洗の泉より涌き出る清らかな水を汲み、一夜にしてお酒をお造りになり、大杉谷の杉の木で
	こしらえた器で、諸神を饗応せられると・・・盡せしな甕の酒を汲上て豊の圓居をするそたのしき・・・と諸神等はうたわれ大いに
	喜ばれ給うた。」 (松尾大社ホームページより)。








	松尾大社は、室町時代末期から安土桃山時代あたりには既に酒奉行(醸造祖神)として多くの人に仰がれていたそうである。室町時代
	と言えば、今でいう麹と蒸米と水を2回に分けて加える段仕込みの方法や乳酸発酵の応用、木灰の使用などが行われ始めた時代であ
	り、安土桃山時代も麹米・掛米のどちらも精白した「諸白」の仕込みが完成した時代であり、ちょうどこの頃に今日の日本酒造りの
	原型が完成したと言われている。そしてこの日本酒造りの原型が完成した時期というのは、京都を中心に朝廷や寺院、寺社ではない
	造り酒屋が隆盛し始めた時期でもあり、「柳酒屋」「梅酒屋」などが大手の酒屋として当時の記録に残っている。
	もともと松尾大社は、松尾大社のある地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って生活守護神としたことを起源としており、
	当初は今のような酒の神様としてではなく、氏族の総氏神と仰がれていた。




	大山咋神は当社社殿建立の奈良時代の頃、はじめてここに祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでい
	た住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのがはじまりと云われ
	る。5、6世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされているが、)秦(はた)氏の大集団が朝
	廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開
	拓に従事したと伝えられる。伝説によると、
	「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となった。
	そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波
	の開発につとめられた神である。」と。秦氏がこの大山咋神の神威を仰ぎつつこの地方一帯の開拓に当たったことを示す。 
	また秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき)(大堰・大井という起源)を作
	り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられている。
	その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地を通っており、嵐山にはそれを顕彰した大きな石碑が建っている。 




	農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになった。酒造については秦一族の特技とされ、桂川に堤
	防を築き、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できる。時代と共に経済力と工業力
	を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると、長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘
	引したのも、秦氏の膨大な勢力によるものであったことはほぼ定説となっている。
	文武天皇の大宝元年( 701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊を
	この社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させた。この子孫が明治初年まで松尾大社の幹部神職を勤めた秦氏
	(松尾・東・南とも称した)である。



松尾大社を後にして、桂川沿いに渡月橋へ向かう。


井上ファミリー・ホームページ/INOUES/ outdoor