2017年春 ウズベキスタン紀行 第二日目 アフラシャブ博物館



	アフラシャブ博物館

	アフラシヤブの丘にある博物館。ウルグベク天文台から歩いて15分くらいの所にある。入り口を
	入ってすぐ素晴らしい壁画を見ることができる。サマルカンドのイシヒド宮殿(7〜8世紀)を
	飾っていたフレスコ画である。宮殿は1965年に発掘調査された。このソグド人の壁画だけでも見
	る価値がある。

	

これで頭に白いターバン捲いたら、アラブの商人に見えるかねぇ。

サマルカンドは、アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、現在は機械・化学・綿 花・絹・皮革関係の工業が盛んで人口約38万人(2001年)を数える。ステップ気候から地中海性 気候とが重なり、抜けるような青空と、モスクやメドラサの色から「青の都」と呼ばれている。 ウズベキスタンの初代大統領はこの町の出身である。 今でこそウズベキスタンの首都はタシケントに移っているが、中世までは中央アジアの主要な都 市としての存在感を示している。紀元前10世紀頃からイラン系民族のオアシス都市として発展 し、紀元前4世紀にソグド人の都市「マラカンダ」は、アレクサンドロス三世率いるマケドニア 王国遠征軍に最後まで抵抗した。


アフラシヤブ (サマルカンド) アフラシヤブ (ラテン文字:Afrasiyab, Afrasiab、ウズベク語: Afrosiyob) はウズベキスタン・ サマルカンドの北部にある遺跡である。アフラシヤブは紀元前500年から紀元後1220年まで存在し ていた。現代ではビービー・ハーヌム・モスク付近の丘陵地に位置する。 「アフラシャブ」や 「アフラシアブ」と表記されることもある。 アフラシヤブは古代から中世にかけて都市として存在した、サマルカンド周辺地域における最古の 遺跡である。防衛上の理由からアフラシヤブは丘の上に建設されており、南は渓谷に、北は現在の サマルカンドの一部である肥沃な土地に囲まれていた。 アフラシヤブは紀元前7〜6世紀に人が住みだしたとされ、ソグディアナ文化の中心地となっていた。 アフラシヤブ地域は約220haに渡っており、アフラシヤブの遺構の深さは約8?12mである。アフラシ ヤブの考古学的な調査は19世紀の終わりに行われた。1920年代に、考古学者のミハイル・マッソン により引き続き調査が行われた。彼の考古学研究によりサーマーン朝の宮殿はかつてアフラシヤブ に存在したことが明らかになった。1960〜70年代には再び調査が行われた。










博物館ホールの南の壁に、イシヒド・ワフルマン(7世紀後半)への結婚行列のフレスコ画が飾 ってある。行列の先頭が、白い象に乗ったチャンガニアン知事の娘で花嫁である。彼女は、ラク ダに乗った友人と高官を従えている。








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こちらの壁には、中国人、チャガニアン、チャチ及び東トルキスタンの大使たちと王との謁見が 描かれている。
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東の壁に描かれているのは、海で泳ぐ若者、鳥、動物だ。





北の壁には、野獣と戦っている騎士と、男女が乗っているボートが描かれている。









イシヒド宮殿は数回再建され、8世紀には破壊された。クティバ支配者が指揮したアラブ軍によ って、サマルカンドが征服されたためである。博物館には、壁画の他に各時代毎のアフラシャブ の丘からの出土品が展示されている。

アフラシヤブ 『後漢書』などの漢文資料では康国として表れ、昭武九姓の一つに挙げられ、王族は月氏の子孫 とされている。玄奘三蔵や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によればソグディアナ、マー ・ワラー・アンナフルの中心と呼ばれている。都市国家の連合体であったソグディアナではサマ ルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマル カンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。 712 年にクタイバ・イブン・ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に征服され、イスラム 化が始まった。イスラーム時代を通じてブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市として発 展した。751年のタラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、759年にイスラーム世界で 最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられる。 1060年に成立した中国唐の歴史書新唐書西域伝には「康国は又の名を薩末、あるいは颯秣建とい う」という意味の記載がある。以後サーマーン朝の支配を受け、11世紀にカラハン朝に征服され てからはテュルク化も始まる。カラハン朝時代は有力王族の所領として、1210年頃にホラズム・ シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによって西カラハン朝が滅ぼされてからはその支配 下となり、ムハンマドは首都をウルゲンチからこのサマルカンドへ移した。 商才に長けたソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を 続けてきた。しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒 海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、 モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。その当時の旧サマルカンド は、ラフマト川に南面するアフラースィヤーブないしアフラシヤブ(の丘)と呼ばれ、現在の市 街地の北側にある。 後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラシアブの丘の東南 遇に位置する。その後モンゴル帝国の中央アジア総督府の管轄となり、カイドゥの乱が終結して からはドゥア家のチャガタイ・ウルスの所領として確定した。1333年、イブン・バットゥータは 北方のジョチ・ウルスからホラズム、ブハーラーを経由してタルマシリンが治めるチャガタイ・ ウルスを訪れている。イブン・バットゥータはタルマシリンとの謁見を終えるとサマルカンドに も滞在しているが、市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁、城門のたぐいは跡形も無く消滅して 大部分が廃墟になっており、かつての町の内部はいくつも農園がある、と述べている。郊外には アラブ征服時代の聖人廟があってサマルカンドの住民たちは頻繁に参詣に訪れているとも述べる。






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新市街地 14世紀末から15世紀にかけてはティムール朝の首都として繁栄。市街地の内部にはティムールの 墓廟であるグーリ・アミール廟やビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラシヤブにはシャーヒ・ズ ィンダ廟群が築かれ、郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や 牧場、宿営地などを設けられた。西域番国志によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳 誠が、陸路でこの地(「撒馬児罕」と記録されている)を訪れている。ティムールの孫ウルグ・ ベクの時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて文化交差点としてユネスコの世界遺産 (文化遺産)になっている。 ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、後のムガル朝の 始祖となったバーブルも故地のフェルガナから度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有 している。その後、1500年にジョチ・ウルス系のウズベク勢力であるシャイバーニー朝のムハン マド・シャイバーニー・ハンによって征服された。その後はジャーン朝などテュルク系のウズベ ク人の国家ブハラ・ハン国に属し、首都の地位はブハラに奪われたが17世紀にはウルグ・ベクの マドラサと対になるシールダール・マドラサが追加されて現在のレギスタン広場が形成されるな ど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能した。 しかし、18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランから アフシャール朝のナーデル・シャーの侵攻を受けるなどしたために荒廃が激しくなった。19世紀 にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラ からの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。 サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系であるペルシア語話者、すなわちタージーク(タ ジク人)の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都であった。 ここでの青字の解説は、主にウィキペディアからのものを転載しています。