2017年春 ウズベキスタン紀行第四日目 ブハラの町


	2017.4.24.(月) ウズベキスタン4日目


	

	
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	ウズベキスタン南東部の都市ブハラの旧市街にある。1920年のソビエト軍により攻略される
	まで、ブハラ・ハン国の歴代ハンの居城として使われていた。現在の建物は18世紀に再建さ
	れたもので、内部は博物館になっている。4ヘクタールの城域内、高さ18m−20mにある広場
	には、アミール(為政者、王)の宮殿、モスク、財務局、政府行政局などがあり、刑務所ま
	であった。

	 

	アルク城は要塞(Ark Fortress)でもある。王の居城であると同時に、外敵に備えた大規模
	な要塞構造となっている。18−19世紀に、都市国家ブハラ・ハン国の中心となっていた。
	1920年にソ連軍によって陥落されるまでは、都市国家を守る要塞としての役割をもっていた。

	 
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	アルク城は当初の要塞計画では、西から東へ細長い矩形をしていた。アルク城の外壁の周囲
	は789.6メートル。また面積は3.96ヘクタールあり、外壁で囲まれている。外壁の高さは16.
	20メートルあるが、この高さは場所によって異なっている。

	
アルク城の築造年代は正確には分かっていまないが、6世紀初頭にはすでに地元の支配者の住居 であったと推察されている。現在、アルク城が建っている場所は、古代ブハラの発祥の地と言 われており、少なくとも紀元前から存在していたようである。 発掘調査によると、アルク城は紀元前4世紀から存在していたとされている。そのアルク城は アラブ、チンギスハーン(モンゴル)、ソビエト(ロシア)など何度も外敵により破壊されて は建て直されており、現存するアルク城は18世紀に構築された。
アルク城前の広大な広場は、サマルカンドと同じくレギスタン広場といい、かつては公開処刑場 として犯罪者のみならず、ブハラ・ハンの政治に異議を申し立て反抗した市民たちの首も切り落 としていた場所である。
アルク城は土の要塞である。レンガを積み重ねて堅固な外壁を構築している。現在の建物のアー チの下20mの深さの層に昔の遺跡があり、その上に要塞を構築していたと推定される。

アルクへの入り口は塔のある門で、その入り口から屋根のあるギャラリーが内部へ続いている。 現在はその内部に土産物屋や露店が軒を連ねている。かっては入り口の上に「むち」が飾られて いて、アミール(王)の無限の力の象徴だった。
通路の両側には、ガラスケースに入った展示品が飾られている。使用された土器や服装、武器な どが並んでいる。


























    





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壁の一部にはラクダなどの絵が、レンガを削り込んで描かれている。

上写真中央の白い建物が、ブハラ王が公開処刑を見届けるための監視台である。
城壁には、水抜きの穴とともに、足場用の木の棒がささっているのが見える。これはウズベキ スタンの多くの大型建物に見られる構造である。どうやら、城壁を建築、修復する際に足場と して使われたもののようである。
赤軍の攻撃によってアルク上の大部分が破壊され、かってはアルク上の7割が荒れ地となって いた。当時のもので残存しているのは、木製のアイウ"アンのあるジュマ・モスク、クシベギ (首相)の公邸、王位のホールなどである。城壁内には、王、及びその軍事指導者そして多数 の使用人が住んでいた。アルク城は石や泥ではなく木造の建築物が中心だった。
7世紀にはフタ・ハウタンという女王が、このアルク城の砦でアラブ軍と戦ったとされている。 モンゴル軍が襲来してきた時、多くの住民がアルク城に立てこもり抵抗したが、結局チンギス ・ハーンによって住民は虐殺され、同時に城も破壊されている。
上はクリックしていただけば、超拡大します。 その後も何度も外敵に襲われた。アルク城は破壊と修復を繰り返してきたが、ロシア革命後の 1920年、ソビエト赤軍による爆撃によりほぼ城全体が崩壊し、現在は石造りの部分のみが往事 の面影を残している。