2017年春 ウズベキスタン紀行第七日目 ヒワからタシケントへ

	4月27日(木)ヒワからウズベキスタンの首都、タシケントへ向かう

明日は日本へ帰国する。今日はウズベキスタンの最終日だ。歴史深いヒワの街をでて、バスで ウルゲンチ空港へ向かう。そこから国内線に乗り、約2時間でウズベキスタンの首都タシケント に到着する。終日タシケントを見学し、夜ウズベキスタン航空で帰国の途につく。7時間で福岡 空港到着の予定だ。
朝食に向かう。今日でヒワの町ともおさらばだ。










ウルゲンチ空港へ我々を運んでくれるバスが待っていた。



ウズベキスタンの鳥たちとも別れを告げて、さぁ、空港へ出発だ。






路上で佇んでいる人達は、どうやらバスを待っているようだ。


このバスに乗るんだな。


















首都タシケントに到着。















こういうのを見るとソビエト時代が目に浮かぶ。


昼食























何かのモニュメント。上にコウノトリが。これがハサミの原型である。



ウズベキスタン国立歴史博物館
博物館を出たら雨が降っていた。本格的な雨はこの国に来て初めてだ。

ナヴォイ劇場 出典:ウィキペディア ナヴォイ劇場(ナヴォイげきじょう、ウズベク語: Navoiy teatri)は、タシュケントにあるオペラと バレエのための劇場である。 正式名称は、アリシェル・ナヴォイ記念国立アカデミー大劇場。アリシ ェル・ナヴォイ(ナヴォイー)は、ウズベキスタンの伝説的な英雄で、文学、伝承でも度々取り上げ られる人物。第二次世界大戦でソ連の捕虜となった日本人が建設に携わったことで知られる。 ナヴォイ劇場は、アレクセイ・シュチューセフが設計して1939〜1942、1944〜1947年に建設され、1947 年11月にアリシェル・ナヴォイ生誕500周年を記念して初公開されている。劇場の収容観客数は1400人 で、舞台の広さは540平方メートルである。 ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった1917年11月の革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇 場を建設することを決定して建築を進めていた。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部 の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていた。そのため大戦後、日本人捕虜を活用して革命30 周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣された。 ソ連の捕虜になったのは合計60万人とも言われ、満州で捕虜となった日本兵はシベリアなどで森林伐採、 道路・鉄道建設に従事しており、この劇場建設の任務は特殊業務であった。
劇場建設の仕事は班ごとに別れて行われた。仕事内容は、土木作業、床工事と床張り、測量、高所作業 (とび職)、レンガ積み(外壁作り)、電気工事、鉄筋と鉄骨組み立て、ウインチ、足場大工、大工に 左官工事、板金、建物が出来上がって来たら電気配線工事、溶接、指物、壁などの彫刻など20種類くら いの職種ごとの班に別れて、効率的に作業をすすめた。日本人で死亡したのは、劇場建設の高所作業に 従事していた者の転落事故と外出時に汽車に轢かれて死亡した2人。この2人はタシケント抑留日本人墓 地(公営ヤッカサライ墓地)に当時死亡した日本人と共に埋葬されている。 労働時間は規則正しく8時から12時、1時間の昼食をはさんで13時から17時までの8時間労働。休日は日曜、 元日、メーデー、革命記念日。食料は1日一人当たりの配給量が決まっていたが、馬鈴薯は腐っている所 が多いなど十分な量ではなかったが、3食規則正しく出された。1日1800から2200キロカロリー位の摂取 量だった。ノルマの達成度合いによってパンの量に差をつけよとソ連から命令されたが、隊長を務めた 永田行夫(当時25歳)の交渉により平等配分をソ連側に認めさせた。 また、収容所では自由時間に建築現場の床材から麻雀パイを作ったり、紙から将棋、囲碁、トランプ、花 札を作ったりした娯楽により捕虜たちの気分転換を奨励したり、地元のウズベク人を招いた演芸大会も行 なわれた。生活の悩みは住居であった収容所に多量にいた南京虫。ベッドの隙間に無数に生息し、当初か まれるとかゆくて寝られないこともあったが、徐々に免疫が出来てかゆくなくなってきた。殺虫剤はない ので、退治のために晴れた休日に庭にベッドを出して日光を当てて焼き、効果はあったが全滅させること はできなかった。 なお、サマルカンド国立外国語大学で教授を務めた胡口靖夫は、ナヴォイ劇場の建設に従事した日本人の 「私らが昭和20年11月上旬ころに着いたときにはもう建物はほとんどでけていました。これは間違いあり ません」という証言などから、「日本人捕虜が建設に参加した時には、基礎はもちろん建物本体はほとん どできていた。日本人捕虜が行った作業の中心は、左官・彫刻・寄せ木作りの床張り・大理石の床張り・ 電気工事などの内外装工事の『仕上げ』であった」と結論付けており、「勤勉に働いた日本人が基礎から レンガを積み上げて“建設”した」とされるのは「伝説」だとして、それが検証なしに広められているこ とを批判しているが、実際の建設に携わった抑留者や現地のウズベク人、ならびにウズベキスタン政府が 認識している話とは異なっている。 1966年4月26日のタシュケント地震では、78,000棟の建物が倒壊するもナヴォイ劇場は無傷であり、市民 達の避難場所としても機能した。
エピソード 建設時、懸命に作業する日本人に対して地元子どもから食べ物の差し入れが行われたが、彼らに対して木 のおもちゃをお返しするなど劣悪な環境でも礼儀を忘れなかった。 1996年、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフが、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に 設置した。その際の指示は「彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな」というものであった。プレートは、 ロシア語、日本語、英語、ウズベク語で書かれ、日本語は「1945年から1946年にかけて極東から強制移送 された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」 と書かれている。




時間があったからか、或いははじめからコースに入っているのか、スーパーマーケットに寄った。私は 昼食の後どうも調子が悪かったので、一人バス内でやすんだ。以下はwifeが写した写真である。




調子はいっこうによくならず、夕食も食べれそうになかったので、ウズベキスタン最後のDINNERを食べ 損なった。一人バスで寝ていた。




今日は半日調子が悪くて、ランチもディナーも食べれなかった。この後もバスでぐったりしていたもの と見えて全然写真がない。タシケント空港までどうやって行ったのか、空港の写真もない。ウズベキス タン最後の日の記憶が無いのは誠に残念であるが、仕方ない。ま、こういうこともあるだろう。プール で泳いだのが悪かったかな?