2010年夏 フランス紀行 2010.7.2〜7.13



	
	2010.7.10(土)晴れ

	今日もいい天気だ。朝食を食べて、地下鉄でまずルーブル美術館へ行く。





地下鉄「ルーブル美術館駅」









 





	
	ルーブルを出てパリ市内を歩いていると、橋の上で路上ライブをやっているバンドがいた。なかなか軽快なフュージョン風の音楽
	で、しばし聴き入った。何曲かの演奏の後小休止に入り、自分たちのCDの販売を始めたので、一枚買った。だが帰国して聴いて
	みたがパッとしなかった。スタジオよりもやはり生で演奏する音楽の方が、ノビノビと自由で軽快に演奏できるのだろう。







これが彼等のCD。帰国して1回聴いただけ。

	

	橋の手前で、前を歩いていたおっさんが道に落ちていた指輪を拾った。周りの人に、「これ落としてないか、これ貴方のでは?」
	と言う調子で問い掛けている。二三人やり過ごした後で、私の側へ寄って来た。勿論私は、「いや、私のじゃない、知らない。」
	と言うゼスチャーをするのだが、おっさんはお構いなしで、私の指に強引にその指輪をはめ、「そら、ピッタリじゃないか、も
	らっとけ、もらっとけ。」と立ち去ろうとする。私は慌てて、「おい、ちょっと待て、要らないよこんなの。」と後を追う。
	すると、立ち止まって振り返ったおっさんは、「それはもうお前のもんだから、その代わり、タバコくれよ。」という。 私は
	あっけに取られたが、ま、タバコの一本くらい、と思って、タバコ箱から二三本差し出すと、おっさんはその二三人本を鷲掴み
	にすると、電光石火、目にも止まらぬ早業で私の指から指輪を抜き取った。そして、韋駄天の如き早さで橋を渡り対岸へ走り去
	ってしまったのだ。私は寸詐欺にひっかかったのである。しかしおっさんは、タバコ二三本をちょろまかすのに、何と手の込ん
	だ寸劇を演じた事だろう。あっけにとられたが、そのうち可笑しくなってしまった。パリの寸詐欺は二三年前の、西安の獣のよ
	うなおっさんに比べると、何と粋であることか。



	
	それから船でセーヌ川を下る。先ほど買った博物館のキップで船にも乗れる。エッフェル塔傍の船着き場で降りてエッフェル塔
	を見る。目の前で見るエッフェル塔はでかい。



ここが定期遊覧船の乗り場





以下エッフエル塔まで、ずっと船窓からみたセーヌ河畔の光景。





















こっちはやや高い遊覧船・屋上デッキで食事も出来るようになっている。







エッフエル塔前船着き場。見学を終わった連中が次の観光地へ行くため列をなして船の到着を待っている。











そこから歩いて海洋博物館へ行く。隣の人類博物館の方を見たかったのだが、改築中で開館は三年後だそうである。残念。







 





	
	凱旋門		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	凱旋門(がいせんもん)とは、軍事的勝利を讃え、その勝利をもたらした将軍や国家元首や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた
	門のこと。発祥の歴史は古代ローマ時代まで遡る。
	建築物としてはフランスのナポレオン・ボナパルトがパリに作らせたエトワール凱旋門(1836年)が有名であるが、これも古代ローマ
	の風習にならったものである。
	現存する古代ローマの凱旋門は多数あるが、壊されたり、別の建物の建材になったりしたため、完全な形で残っているものは少ない。
	その中ではコンスタンティヌスの凱旋門が史跡として貴重である。凱旋「門」となってはいるが、古代ローマでは都市城壁や城門とは
	独立して建てられた記念碑的建造物であった。

	<古代ローマの凱旋門>
	・コンスタンティヌスの凱旋門 昨年の「イタリア紀行」を参照されたし。
	当時、副帝だったコンスタンティヌス帝が、正帝のマクセンティウス帝に対し、312年にミルヴィオ橋の戦いで勝利したことを記念して、
	315年に作られた凱旋門だと言われている。
	ローマ・コロッセオのすぐ側に立てられており、高さは約25m。帝政ローマ時代の凱旋門の中では最も大きいと言われている。フランス
	のエトワール凱旋門のモデルにもなっている。ユネスコの世界文化遺産の一つ。また、装飾などは古い凱旋門などから剥ぎ取って使わ
	れたと言われている。

	<日本における凱旋門>
	日本の凱旋門は、各種祝賀行事の際に建てられていた「緑門(りょくもん)」が起源である。緑門とは、門の前面をスギの若葉で飾り付
	けられた簡素な門のことであるが、日清戦争の終結時に日比谷や三越百貨店の前などに大型の凱旋門が作られたことをきっかけにして、
	一気に大型化の方向に進んだ。
	日露戦争の終結時には最高潮を迎え、日本各地にフランスのエトワール凱旋門を意識した大型の門が無数に建設された。こうした動きは、
	建設ラッシュとも呼べる異様な盛り上がりを見せた。仮設ではあるものの浅草の雷門ですら凱旋門化したという。京橋に作られた凱旋門
	は高さが18mに達したと伝えられている。また凱旋門ではないものの、1903年建造の初代通天閣はエッフェル塔とエトワール凱旋門を模
	して建てられた。
	日本の凱旋門の出自が緑門であることから、市街地に作られた凱旋門の多くは一定期間後に取り壊される運命にあった。例えば、雷門の
	凱旋門も建築1年後に取り壊されている。だが、地方では、そのまま保存された門もあり、2006年現在、静岡県浜松市や鹿児島県姶良市
	などに、数基の凱旋門が現存している。
	姶良市の凱旋門は、2003年に登録有形文化財に登録されたことを契機に補修工事を受けており、これを記念して、地元の白金酒造が「凱
	旋門」という焼酎を限定で醸造している。

	<主な凱旋門>
	[古代]
	・コンスタンティヌスの凱旋門 
	・アウグストゥスの凱旋門 
	・セプティミウス・セウェルスの凱旋門 
	・ティトゥスの凱旋門 
	・パルティアの凱旋門 
	「近代の凱旋門」
	・カルーゼル凱旋門(フランス・パリ) 
	・エトワール凱旋門(フランス・パリ) 
	・ブランデンブルク門(ドイツ・ベルリン) 
	[現代の凱旋門]
	・アヌサーワリー・パトゥーサイ(ラオス・ヴィエンチャン) 
	・平壌凱旋門(朝鮮民主主義人民共和国・平壌)※エトワール凱旋門より10mほど大きく、世界で最も大きい凱旋門とされている。 
	・第二次世界大戦記念碑(アメリカ合衆国・ワシントンD.C.) 



	
	エトワール凱旋門	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	エトワール凱旋門(エトワールがいせんもん、仏: Arc de triomphe de l'Etoile)は、フランス・パリのシャンゼリゼ通りの西端、
	シャルル・ド・ゴール広場にある凱旋門である。

	<概説>
	パリの象徴的な建造物の一つで、単に凱旋門と言えばこのエトワール凱旋門を指すことも多く、世界有数の観光名所となっている。
	この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=etoile」のよ
	うに見えるので、この広場は「星の広場(エトワール広場) la place de l'Etoile」と呼ばれていた。そのため、「エトワール広
	場の凱旋門」の意味の「Arc de triomphe de l'Etoile」との正式名称がある。但し、現在この広場は「シャルル・ド・ゴール広場
	 la place de Charles de Gaulle」と名称が変更になっている。
	なお、「凱旋門 Arc de triomphe (アルク・ド・トリヨーンフ)」の直訳が「戦勝のアーチ」であることでも分かるように、「凱
	旋門」自体は戦勝記念碑である。そのため、凱旋門はパリだけでもカルーゼル門、サン・ドニ門、サン・マルタン門など多数存在す
	る。
	因みに、シャンゼリゼ通りとこのエトワール凱旋門の延長線上のラ・デファンスには「新凱旋門 グランダルシュ」 (la Grande 
	Arche、またはl'Arche de la Defense) があるが、これは戦勝記念碑ではないので、正式名称に "triomphe" が付いていない。
	すなわち「凱旋門」ではない。しかし、シャンゼリゼ通りの都市軸上にある、カルーゼル凱旋門・エトワール凱旋門に続く第3番目
	の「門(arc, arche)」であるとの認識があるため、フランスの国の標語である「Liberte, Egalite, Fraternite」(自由、平等、
	友愛)から、「La Grande Arche de la Fraternite」(直訳 - 友愛の大アーチ)との正式名称を持つ。
	なお、日本では、「凱旋門」が「エトワール凱旋門」を示す固有名詞と化してしまったため、実際は凱旋門ではないグランダルシュ
	にまで「新凱旋門」と名づけてしまった。なお、北朝鮮の首都平壌にも金日成の帰還を記念して造られた「凱旋門」があるが、これ
	はエトワール凱旋門を意識して造られたといわれ、それより高さが10m高く、世界一とされている。
	古代ギリシャ、ローマを模範とする新古典主義建築の代表作である。

	<歴史>
	エトワール凱旋門は、前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まっ
	た。ルイ・フィリップの復古王政時代、1836年に完成した。ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、彼がこの門をく
	ぐったのは1840年にパリに改葬された時であった。古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。
	エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。第二次世界大戦ではナチス・ドイツのパリ占領に際してナチス
	・ドイツ国旗が掲げられ、ヒトラーが戦車で凱旋した。



	
	<ナポレオンの野望を象徴する建物が凱旋門>

	1806年にオステルリッツの戦いで勝利したフランス軍の栄光を称えるために建てられた。しかしながら着工7年目にして無念に
	もナポレオンは失脚し、その後生きて凱旋門をくぐることはなかった。凱旋門の壁面には、ナポレオンの戦いの彫刻が彫られている
	ので鑑賞できる。また凱旋門の屋上、吹きさらしの展望台へ上がることができるが、今日はもうルーブルで疲れて、登る気もしなか
	った。






妊婦みたいにバッグを背中ではなく前に垂らすこの担ぎ方は、さすが日本では見かけないね。



夜の凱旋門(ウィキペディア(Wikipedia)より)。



	
	凱旋門をみてシャンゼリゼ通りをブラブラとショッピング。
	凱旋門のあるエトワール広場とパリ中心部のコンコルド広場を結ぶ、パリで最も有名な目抜き通り。フランス一周自転車ロードレー
	ス「ツール・ド・フランス」はここが目的地となる。



パリの2階建てバスはロンドンと違って屋根がない。浅草を走っているのと同じだ。上右は、イブ・サンローランの本社。



シャンゼリゼ通りから見た凱旋門。







有名なセーヌ川河畔の骨董市。どっちかというと書籍を扱っている屋台が多い。







	
	しばらく歩いて、パリのど真ん中のレストランでステーキを食べる。ちょっとお茶でもというツモリで入ったのだが、ビールを
	呑んだら腹が減ってきて、もうここで晩飯食おうという事になった。

	店をでてしばらく歩いて、ショルダーバッグを店に忘れたのに気がついた。青くなっているWifeを待たせて、大急ぎで店に引き
	返す。似たような通りが多く、店を探すのに手間取る。カネはいいとしても、クレジットカードやパスポートが入っている。
	なくなったらエラい事になるなと思いながら走る。はぁはぁ息をつぎながら店に飛び込んで忘れ物だというと、地下のカウンタ
	ーへ案内されて、「はい、これやろ。」と笑いながら渡してくれた。隣のテーブルの人が、「東洋人が忘れていった。」と届け
	てくれたらしい。「メルシィメルシィ、サンキュー、サンキュー」と感謝して店を出る。焦ったー。

	夜のエッフェル塔に昇るつもりだったが、当分日が暮れそうにないので断念してホテルへ戻る。今夜は一時くらいまで起きてい
	たが、街は全く騒がしい。パリの真ん中だから、東京でいえば赤坂か六本木みたいな感じだろうか。



パリ市内遠景