2010年夏 フランス紀行 2010.7.9 ルーヴル美術館(Musee du Louvre)





	
	ルーヴル美術館	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	ルーヴル美術館(ルーヴルびじゅつかん、Musee du Louvre)は、パリにあるフランスの国立博物館である。メトロポリタン美術館
	(アメリカ合衆国ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の1つであるとともに、アシュモリアン美術館(1683年)や、ド
	レスデン美術館(1744年)、バチカン美術館(1784年)と並んで、ヨーロッパで最も古い美術館の1つに数えられる。世界遺産パリ
	のセーヌ河岸に包括登録されている。初代館長はナポレオンの外交官であったヴィヴァン・ドゥノン。
	世界的に有名な絵画・彫刻を多数所蔵している。

	
	2010.7.9(金)晴れ

	パリ中の博物館、美術館を格安で見て回れるチケットがあるので、それを買おうと窓口へ行くが、まだ開いていないという。美術
	館はオープンしているのにそれはないだろうとすったもんだしていると、作業服を着て我々のやりとりを聞いていたオジサンが、
	黒人の太ったオバサンに何か二言三言話し掛けた。
	それを聞いたオバサンは、我々を事務室の奥の方へ案内し、窓口の一つに座らせた。PCの前に座っていた禿頭のおっさんは、じろ
	りとこっちを見て、すぐにそのチケットをくれた。このやりとりは何だろう。フランスは官僚王国だとは聞いているが、ルーブル
	もそれに準じているのか。わからない。



日付を自分で書着込むだけなんて、いいのか悪いのかわからんようなチケットだ。



下がそのチケットである。これで見学可能な博物館の一覧が付いてきて、その背表紙にチケットの蛇腹のような開き方が書いてある。



これが美術館のチケットだと。何とまぁ。



	
	ルーヴル美術館	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	<概要>
	ルーヴル美術館は、パリの中心部、セーヌ川の右岸に位置し、ルーヴル宮殿の大部分を占めている。その起源は12世紀末に建造の始
	まったパリの街を守護するための要塞であり、時代の変遷とともにフランス王家の宮殿、そして美術館へと変貌を遂げてきた。
	ルーヴル (louvre) の語源については、サクソン語で「要塞」を意味するleovarとも、ラテン語で狼狩りを意味するluparaとも言う
	が、定かでない。
	セーヌ川の中洲であるシテ島は、中世においてもパリの中心地であった。都市の防衛という面で、街の中心を流れるセーヌ川自体が
	防御の弱点となっていた。そこで、カペー朝第7代の王・フィリップ2世(フィリップ・オーギュスト、在位1180 - 1223)は、シテ
	島のわずかに下流のセーヌ右岸に城砦を築くことを命じた。1190年のことである。円筒形で、径約15メートルのドンジョン(主塔、
	天守)の周囲に方形の城壁(約78×72メートル)を巡らした要塞は、20年余の歳月を要して完成した。この城壁は、現代のルーヴル
	のシュリー翼の位置にあたり、シュリー翼の中庭(クール・カレ)の南西側4分の1の面積に相当する。当時のルーヴルは宮殿ではな
	く、まさに要塞であり、建物の大部分が武器庫、兵士の宿舎及び牢獄にあてられていた。パリ市の防衛のために建造されたルーヴル
	城であったが、この城が英国など外国からの攻撃にさらされることは、結局なかった。

	当時のルーヴルの遺構は、後のナポレオン3世の時代、1866年にも発掘調査が行われているが、本格的・学術的な発掘調査が行われ
	たのは1984年から1986年のことである。この時に発掘されたドンジョンや城壁の一部は、そのままの形でシュリー翼の地下に保存さ
	れ、一般に公開されている。

	14世紀に入ると、ルーヴルの城塞としての意味合いは次第に薄れ、時の国王シャルル5世(在位1364 - 1380)は、レーモン・デュ・
	タンブルに命じてルーヴル城を改修し、「要塞」のイメージが強かったルーヴルを、規模は従来のままで、華やかな「城館」(シャ
	トー)へと造り替えた。
	その後もこの建物は歴代のフランス王によって拡大と改築が続けられていった。その中でルーヴルをルネサンス様式の壮麗な宮殿に
	改築しようとしたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンとしても知られるフランソワ1世(在位1515 - 1547)である。フラン
	ソワ1世は1528年、ルーヴル城のドンジョン(主塔)を取り壊した。1546年には建築家ピエール・レスコに命じて、旧城を取り壊し、
	新たな宮殿を建築する工事を開始したが、その翌年フランソワ1世が没したため、仕事は息子のアンリ2世(在位1547 - 1559)に引
	き継がれた。しかし、方形の城郭のうち、宮殿に改築されたのは西側と南側のみで、残りの部分にはいまだに中世の城壁が残されて
	いた。アンリ2世の死後、その妃カトリーヌ・ド・メディシスは、ルーヴルの西約500メートルのところに新たな宮殿の建築を始めさ
	せた。かつて瓦(テュイル)製造工房があったことから、テュイルリー宮殿と呼ばれるこの宮殿は、フィリベール・ドロルムの設計
	で、1563年から建築が開始され、完成には約1世紀を要した。

	ヴァロア王朝の終焉後、ブルボン王朝の初代の王であるアンリ4世(在位1589 - 1610)は、旧ルーヴル城の部分を4倍の面積に広げ
	(現代のシュリー翼に相当)、セーヌ河に沿ってルーヴルと西のテュイルリー宮殿を直接結ぶ、長大な回廊(今日「グランド・ギャ
	ルリ」として知られる)を建設させた。グランド・ギャルリの建設やクール・カレ(方形中庭)の拡張を含む「グラン・デッサン」
	(大計画)はアンリ4世の時代に開始されたが、造営は次のルイ13世(在位1610 - 1643年)の時代にも引き継がれた。

	太陽王ルイ14世(在位1643 - 1715年)もさらなる拡張計画を進め、1657年からは建築家ルイ・ル・ヴォーが中心となって、クール
	・カレ(方形中庭)の拡張、ならびにルーヴルとテュイルリー宮殿を結ぶ建物の工事が進められた。しかし、1678年にルイ14世が
	パリを離れ、ヴェルサイユ宮殿に滞在するようになってからルーヴルの工事は中断し、建物は王宮としての役割を果たさなくなった。

	ルーヴルは、すでにアンリ4世の時代から芸術家や職人の住居やアトリエとして利用されていたが、この時代になると、さまざまな
	人々が宮殿内に住み着き、宮殿は荒廃していた。こうした中、1789年から始まったフランス革命のさなかにルーヴルを美術館とする
	ことが決まり、1793年8月10日、「諸芸術の中央美術館」として正式に開館した。ただし、この時点での公開は限定的で、一般の人々
	への公開は1801年からとされている。

	1871年にはパリ・コミューンの暴徒らが押し寄せ、テュイルリー宮殿が炎上した。炎上後の宮殿はかろうじて外観をとどめていたが、
	結局取り壊された。テュイルリー宮殿は、現・ルーヴルの西端に南北方向に建っていたが、その後は再建されていない。

	1985年から1989年にかけて、ミッテラン政権下の「グラン・ルーヴル・プロジェ」(大ルーヴル計画)により大改築が行われた。主
	に地下部分に増築を行い、大蔵省等ルーヴル宮殿内にあった政府機関を移転して新たなギャラリーとするとともに、イオ・ミン・ペ
	イ設計による、ガラスのピラミッドを中庭においてメインエントランスとし、その直下にインフォメーション・カウンターと各ギャ
	ラリー・店舗・食堂へのアクセス可能な大ホール(ナポレオン・ホール)を有する、近代的な美術館の面も持ち合わせるようになっ
	た。なお、美術館に直結する地下街にはやはりイオ・ミン・ペイの設計になる逆ピラミッドが設置されている。
	2012年、フランス北部のランス (Lens) に分館が開館予定である。設計は日本人による設計事務所SANAA(妹島和世・西沢立衛)と
	アメリカのイムレー・カルバート (Imrey-Culbert) 社が手掛ける。また、アラブ首長国連邦のアブダビにも分館の建設計画があり、
	2012年開館予定である。



元々はパリの街を守護するための要塞であり、時代の変遷とともにフランス王家の宮殿、そして美術館へと変貌を遂げた。





上の写真をクリックして貰えば、360度展開のルーブルが見れます。





	
	こうやって見ると、要塞と言われて納得できそうな気もする。王家が宮殿としてのルーブルを見捨てたのは、ここがあまりにも不
	潔になりすぎたためだと、ものの本に書いてあった。当時これだけの建物にトイレは2つしかなかった。そもそも昔のパリの建物
	自体にトイレは無いのだ。みなオマルにいれて窓から捨てていたのである。庭は悪臭に充ち、通路は排泄物を踏まないように注意
	して歩く必要があり、ハイヒールはその為生まれたと書いてある。紳士が羽織るマントも、上から振ってくる汚物が身に掛からな
	いようにする為だそうだ。読んだとき俄には信じ難かったが、wifeに話すと「あら、有名な話よそれ」と既にご存知だった。
	知らなかった。なんとまぁ、恐ろしい。花の都パリもそういう時代を持っているのか。江戸の方がましじゃん。





このピラミッド型エントランスは、滋賀県信楽にある「ミホ・ミュージアム」を設計した建築屋さんである。









	
	ガラスのピラミッド下のナポレオンホールが入口である。我々が購入した切符(入場券)以外にも様々なキップがある。ホールか
	らは3つの翼館(リシュリュー Richelieu、ドノン Denon、シュリー Shully)のいずれへも直接行ける。この階では、近年のルー
	ブル大改修工事の際に発見された、中世のルーブル城(砦)の遺跡が必見である。



	
	壁のポスターに「ルーブル・アブダビ・オープン・・・・」とあったので、あれは何かと係員に尋ねると、ルーブルは収蔵品が
	あまりに多いので、幾つか分館を作っているのだと言う。しらなかった。それにしても、アブダビとは。リヨンにも建つらしい。
	リヨンならわかるがアブダビとはなぁ。アブダビて、アラブ首長国連邦やろ。油と交換するのかな。





	
	<展示室の構成>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	展示館は、東端のクール・カレ(方形中庭、Cour Carree)を囲むシュリー翼 (Aile Sully)、その南西からセーヌ川沿いに西へと伸
	びるドゥノン翼 (Aile Denon)、シュリー翼の北西からリヴォリ通りに沿って西へと伸びるリシュリュー翼 ( Aile Richelieu) に分
	けられる。各建物は半地下 ( entresol)、1階 (rez-de-chaussee)、2階 (1er etage)、3階 (2e etage) の4層に分かれる。なお、日
	本語とフランス語では階数の数え方が異なり、日本語の「1階」「2階」「3階」をフランス語ではそれぞれ 「地階」「1階」「2階」
	と表現する(以下の説明文中の「1階」「2階」等は日本語式の「1階」「2階」を指す)。
	美術館への入口は、セーヌ川沿いのライオン門入口 ( Entree Porte de Lions)、地下ショッピング街に直結したカルーゼル入口 
	(Entree Galerie du Carrousel) もあるが、メインの入口は、中庭のガラスのピラミッドの入口 (Pyramide entree principale) で
	ある。ガラスのピラミッド下のナポレオン広場には、各言語版の館内案内図が常備されたインフォメーション・カウンターや入場券
	売場があり、ここからシュリー、ドゥノン、リシュリューの各翼や、レストラン、カフェテリア、ミュージアム・ショップへと向か
	うことができる。
	シュリー翼の位置は、中世にルーヴル城が建設されたところで、地下には中世の要塞の遺構が保存され、1・2階にはエジプト、古代
	ギリシア、古代オリエントの美術、3階にはフランス絵画が展示されている。
	ドゥノン翼は、長大なグランド・ギャルリ(大ギャラリー)を含む建物で、半地下と1階にはギリシア、エトルリア、ローマ美術と
	中世ヨーロッパの彫刻を展示し、2階の大ギャラリーはイタリア絵画を中心とする絵画の展示場となっている。
	リシュリュー翼は、1981年以降の大ルーヴル計画によって拡充された部分で、フランス彫刻、工芸品、北方絵画(ドイツ、フランド
	ル、オランダなど)の展示場にあてられている。2階の工芸品展示室では、ナポレオン3世の居室の室内装飾も展示の一環となってい
	る。

	<以下、展示品の写真をフロア毎にまとめたツモリだが、実はもうどこにあったのか判らなくなった。なので相当いい加減です。>




 
 




 
 



	
	教科書に載っている有名な絵をざっと見た後、エジプト、ギリシャ美術のコーナーへ行く。ルーブルの収蔵品の多さには、驚き
	を通り越して唖然としてしまう。大英博物館もすごかったがここも負けてはいない。フランス語の解説は皆目分からないが、イ
	ギリス同様、相当な遺物をエジプト、ギリシャあたりから持って来ているのがわかる。一通り写真を撮りまくる。



	
	<カルーゼル凱旋門>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	1806年から1808年にテュイルリー宮殿の門として建設されたカルーゼル凱旋門 (Arc de Triomphe du Carrousel) は、宮殿撤去後の
	カルーゼル広場で最も目立つ建物となった。これはナポレオンのそれまでの戦勝を記念して1806年に建設が始まった凱旋門である。
	これより有名なエトワール凱旋門も同じ年に設計されたが、建設には13年かかり、大きさもほぼ倍である。

	高さ19メートル、幅23メートル、奥行き7.3メートルである。中央アーチの高さは6.4メートルで、両側に小さいアーチがあり、それ
	ぞれ4.3mの高さがある。花崗岩製のコリント式円柱が8本あり、それぞれの上に帝国の8人の兵士の像がある。兵士像同士の間にある
	ペディメントには次のようなレリーフが描かれている。

	イタリア王国の紋章および歴史と芸術を表した人物像 
	フランス帝国の紋章および勝利、名声、歴史、豊かさを表した人物像 
	イタリア王国の紋章および叡智、強さ、思慮深さ、勝利を表した人物像

	ナポレオンの外交及び軍事による勝利はそれらの下の大理石のレリーフに描かれている。描かれている場面は、プレスブルクの和約、
	ナポレオンのミュンヘン入り、ナポレオンのウィーン入り、アウステルリッツの戦い、ティルジットの和約、ウルムの降伏である。
	この門はもちろんローマ帝国の凱旋門に倣ったもので、特にローマのセプティミウス・セウェルスの凱旋門をモデルにしている。レ
	リーフの主題はナポレオン美術館(現ルーヴル美術館)の理事ドミニク・ヴィヴァンが選定し、シャルル・メニエがデザインした。
	上に載っているクアドリガは、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院にあるサン・マルコの馬を真似たものである。

	シャルル・ペルシェとピエール・フランソワ・レオナール・フォンテーヌが設計し、ナポレオン1世がローマのコンスタンティヌスの
	凱旋門(312年)をモデルとして1806年から1808年に建設させた。
	もともとはナポレオンが1798年にヴェネツィアのサン・マルコ寺院から持ち去ったサン・マルコの馬が載せられていた。1815年、ワ
	ーテルローの戦いに敗れたナポレオンが失脚するとブルボン第二復古王政時代となり、フランス政府はウィーン会議でヴェネツィア
	を領有することになったオーストリア帝国にそのクアドリガを返還した。オーストリア側はすぐにそれを元の場所に戻した。新たな
	クアドリガ像は1828年、フランソワ・ジョゼフ・ボジオが制作したもので、平和を象徴する女神がチャリオットに乗っていて、両脇
	に金めっきされたウィクトーリアが馬を牽いて立っている。これはナポレオン失脚後のフランス復古王政を記念したものである。

	カルーゼル凱旋門は、いわゆる「パリの歴史軸」の東端にある。「パリの歴史軸」は約9kmの直線的な地域で、パリの北西寄りにある。
	カルーゼル凱旋門から西を見ると、ほぼ正面にコンコルド広場のオベリスクがある。そこからシャンゼリゼ通りが延びていて、シャル
	ル・ド・ゴール広場の中央にエトワール凱旋門がある。さらにその先に、カルーゼル凱旋門からは見えないが、グランダルシュがある。
	このように、パリの歴史軸はアーチで始まり、アーチで終わっている。しかし、カルーゼル凱旋門が建てられたとき、カルーゼル広場
	から西方は全く見えなかった。テュイルリー宮殿が視界を妨げていたためである。パリ・コミューンが宮殿に放火し、その廃墟が撤去
	されたことで、カルーゼル凱旋門とルーヴルの西方の視界が開け、今のようになった。