2010年夏 フランス紀行 2010.7.8 ガロ・ローマ文明博物館





	
	2010.7.8(木)晴れ
	
	■ガロ・ローマ文明博物館 (MUSEE DE LA CIVILISATION GALLO-ROMAINE)

	今ではリヨンの観光名所として知られるフルヴィエールの丘に、ガリア・ローマ時代の概要を窺える「ガロ=ロマン文明博物館
	( Musee de la civilisation Gallo-romaine)」がある。円形劇場のすぐ隣、むしろ同じ敷地内と言えるほどだ。ここに、古代
	ローマ時代のリヨンにまつわる遺物が展示されている。

	リヨンは、紀元前43年にローマ帝国が都市作りを開始した。フランスがガリアと呼ばれた時代の都、ルグドゥヌム(リヨンの呼
	称 “Lugdunum ”)の中心として栄えた。即ち、リヨンはガリアの首都で、この博物館では紀元前43年頃からの様子を、彫刻や
	モザイク、石棺や日用品、宝飾品など、リヨンで発見された遺物の展示を通して窺い知る事ができる。
	なかでも1528年に発見された「クラウディウスの青銅板(Table Claudienne)」は代表的なもので、48年にローマの元老院で行っ
	たクラウディウス皇帝の演説の原文が刻まれており、資料としては勿論、文化財としても超一級のものである。


	
	この博物館は、入り口のある5階から階下へと、下りながら鑑賞して行くようになっている。コンクリートむき出しの館内は、ま
	るで倉庫のような雰囲気ではあるが、中央に作られたなだらかなスロープに従って鑑賞してゆくように設計されているようだ。
	展示は、紀元前の歴史、リヨンの都市計画、行政、文化、宗教、工芸、流通、生活など、テーマ別に 17のスペースに分られ、
	ガリアとして繁栄した頃のリヨンの町の「ローマ帝国」を目にする事が出来、「ガリア・ローマ文明博物館」の名前の通り、思い
	切りガリア時代に浸ることが出来る。ローマの「考古学博物館」に帰って来たような気がした。







	
	外観は、遺跡の風景をそこなわないように配慮され、最上階と外光を取入れる窓以外は斜面に溶け込んだ5階建ての大胆な設計。
	館内は先史時代、原始時代の展示室に始まり、年代順に分かりやすく且つ、テーマ別に「陶磁器」、「ガラス」、「生活用具」、
	「家庭生活を示すオブジェ」、「死に対する信仰」、「軍隊」、「宗教」、「ガロ=ロマン戦闘馬車レース」などのエリアに分か
	れている。青銅、石碑、彫像、モザイク、石棺、陶磁器、ガラス、宝飾品など、豊富なコレクションは、保存状態のよいことで
	も知られ、県立の美術館ながら、サン=ジェルマン=アン=レ−城国立考古学博物館と並び称される美しさを誇る。

	他にも、古代ローマの二輪馬車、戦闘馬車レースを描いたモザイク画、宗教の営みを規定するゲール語の太陰・太陽暦カレンダ
	ー、3世紀頃の石棺など、ローマ帝国支配下のガリアの多様な側面を知ることができ、リヨンがガリアの政治、宗教、経済の中
	心地であった様子を伝えている。









先史時代からの石器の編年(のようだ)。



	
	ローマ帝国は、最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロ
	ードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。中世における「ローマ帝国」である東ローマ帝国や、ドイツの
	「神聖ローマ帝国」と区別するために、西ローマ帝国滅亡までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。

	古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも
	大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。
	紀元前27年よりローマ帝国は共和政から元首政(帝政)へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振
	る舞った。ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。

	4世紀のコンスタンティヌス1世のとき、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷し、同世紀末
	に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂した。
	その後帝国の東西は別々の道を辿った。476年に西ローマ帝国は滅亡、東ローマ帝国も7世紀以降は領土を大きく減らし、国家体制
	の変化が進行した。その東ローマも1453年には滅ぼされ、ローマ帝国は完全に滅亡した。



	
	「カエサル率いるローマ軍の前に敗れ去ったガリア(現在のフランス他)は、その後、ローマの支配下に入った。しかし、ガリ
	アは消滅しなかった。ローマはガリアを属州とし、ローマの生活様式をガリアにもたらしたが、ケルト人(ガリア人)のほうも
	古くからの伝統と新しい文化を融合させて、独創的な文明をつくりあげていったのである。」
	「ケルト文明とローマ帝国」 フランソワーズ・ベック&エレーヌ・シュー著 鶴岡真弓監修 遠藤ゆかり訳 創元社
	
	ガリアはローマに征服される前まではケルト人たちによって支配されていた。彼らは鉄製の武器と馬に引かれた戦車を持ち、戦
	士階級が力を持つ社会を形成していた。ケルト人はガリアだけでなく、古くは中欧一帯からバルカン半島にまで勢力を拡大し、
	ブルターニュにも進出していた。
	しかし、「ケルト」はローマに敗北し、ローマ帝国崩壊後もゲルマン諸族に敗北し、今現在は大変な少数派となっている。現在
	ケルトの末裔たちが住んでいるのは、アイルランドやスコットランド、マン島、ウェールズ、コーンウォール、ブルターニュと
	いう国と地域に限られている。
	ケルトの文化を再認識しようという動きは近年活発化しているが、この本の舞台であるガリア、つまりフランスでは古くから古
	代ケルト文明の担い手だったことを自認し、大切にしてきた国だった。
	フランスのケルト文明とローマ文明が融合した文明のことを「ガロ・ローマ文明」と呼ぶ。これは古くからあったケルトの神々
	をローマの神の姿とし、元々あった集落や町をローマの都市に変え、あらゆる面でケルト文化を基礎としたものをローマ化した
	ものであり、ガリア文明でもローマ文明でもない、独自の文明となった。この「ガロ・ローマ文明」が今日のフランスの文化の
	原点となっていることは疑いない。この博物館も、そういう意味合いで「ガロ・ローマ文明博物館」と命名されているもののよ
	うだ。



	
	ガリアは南部の一部だけが紀元前121年からローマの支配下にあった。この地域を当時はガリア・トランサルピナ (Gallia 
	Transalpina アルプスのむこうのガリア)と読んでいた。その後、長いガリア戦を経て紀元前52年にカエサル率いるローマ軍
	とウェルキンゲトリクス率いるガリア軍とがアレシアで戦い、ローマが勝利したことでガリアのすべてがローマの支配下となる。

	ガリア・コマタGallia Comata(長髪のガリア)と長く呼ばれていたガリアは、アウグストゥス帝の属州再編によって、ルグドゥ
	ネンシスGallia Lugdunensis、アクィタニアAquitania、ベルギカGallia Belgica と三分割して統治することになった。元々ロ
	ーマの属州だったガリア・トランサルピナはナルボネンシスGallia Narbonensisと属州名を変更された。
	なぜガリアを4つに分けて統治することとなったかは、それぞれ住む人々が違うという事情からである。
	ルグドゥネンシスが長髪のガリアと呼ばれていた地域の中心で、ガリア人が住んでいた。ルグドゥヌム(現リヨン)を州都とし
	たため、その名がついた。
	アクィタニアはアクィタニア人が住む地域で今のフランス南西部にあたり今でもアキテーヌ地方という名がついている。ベルギ
	カはベルガエ人が住む地域で、今のベルギーを含む地域にあたる。
	この三州はアウグストゥス帝によって皇帝属州とされ皇帝直轄の属州として皇帝の代官(レガトゥス)によって統治された。
	ナルボネンシスはローマ化されて70年も経過していたので、軍事的な危険も少なかったので、元老院属州となり、属州総督(プ
	ロコンスル)によって統治された。



	
	この4つの属州はガリア人の部族組織を基礎とした「キウィタス」と呼ばれる行政単位によって再編された。アウグストゥス帝
	時代、キウィタスは約80個あったとされている。このキウィタスの中心都市では共通の統治制度で行政が行なわれ、毎年選ばれ
	るドゥォウィリ(2人委員)、クァトゥオルウィリ(4人委員)の政務官が行政、司法、治安維持にあたり、委員を補佐するため
	に、ローマでいう元老院にあたる都市参事会も作られた。
	キウィタスには序列がつけられ、ガリア戦においてガリア側についたかローマ側についたかで、日本の江戸時代でいう外様大名
	や譜代大名のように分けられ、持っている権利も違った。
	また他にもラテン植民市とローマ植民市というものもあった。ラテン植民市では政務官はローマ市民権を持ち、他の市民はラテ
	ン市民権を持ち、ローマの法によって保護された。ローマ植民市は最も恵まれていた都市ですべての人がローマ市民権を持ち、
	直接税を免除された。
	このように政治・行政的にローマ化したガリアは文化の面でも建造物から身のまわりの装飾品、食器にいたるまでの道具など、
	あらゆる面でケルトとローマが融合したものへと変貌していく。
	ローマ化されたガリアはその伝統を受け継いでいき、パリの凱旋門に代表されるように、後世にもローマ文明の影響を多く残し
	ている。































ローマ帝国がガリア(フランス)を支配していた頃の立体図。フェルベールの丘の前で2つの川が合流している。



ローマ時代のポンプ。





上のポンプを使って地下水をくみ上げていた井戸。











都市開発の際、使用された石材、石柱。









これが有名なクラウディウスの青銅板。









このあたりの石造物は、当然だがローマの博物館にも全く同じようなものがある。







これは石棺ですな。装飾が凄いね。







ローマのコロッセオで買ってきたロ−マ時代のコインと同じ。勿論買ってきたのはレプリカだが。







英語がぼけていてよく判らんが、フルヴィエールの丘にA.D.20年頃に建った寺院(の模型)。と書いてあるのかな?

(陰の声: 英語ちゃんと見えててもわからんのちゃう?) ホッとけ!















これは墓誌のようです。ローマにも同じものがありました。





























海の神である「ネプチューン(Neptune)」のブロンズ像(2世紀)











この円いワッカは何に使うんだろうね。













石材は地中海周辺から来た。下の解説では、ギリシアが一番多く、後イタリー、トルコ、エジプト、チュニジアとなっている。





これは円形劇場(大と小:ちなみに小は今回見ていない)の模型。すぐ横に小劇場があった。







これは、現在こうやって劇場の下を支えているという、修復工事の模型。







なんとこれはサーカスの様子を現したモザイクである。紀元前後にもうサーカスがあったんだ。





これは何やろ? よぉわからん。 MOUTONて何かいな。フランス語はわからんけど、眺めてるとキリストに関係あるような。



















これも良く字が読めんが、どうやら土器を焼いた窯跡のようですな。





上は鍵だと思うけど、下も鍵の一種かね。





翼を持った女。勝利の女神。19世紀に La Reniere(city Givors,Rohne)で発見されたと、この位なら英語も読めます。







このあたりは墓誌・墓石とその副葬品(おそらく)。























流通用の陶器、ガラス、装飾品の数々
















1階部分は通常エキスポジションのスペースに当てられていて、「ガリア時代の葬送」に関する展示を行っていた。







	
	<ローマの支配から王政時代>
 
	現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を
	除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイド
	を軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的な統一は存在しなかった。紀元前219年に始まった第二次ポエニ
	戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバルが南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴール
	には大きな影響を及ぼさなかった。

	

	その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀
	元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍カエサルは紀元前58年にゴー
	ル北部に侵攻した。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴール
	を占領し、ローマの属州とした。ゴールは幾つかの属州に分割され、ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ロー
	マ文化が成立した。360年にゴール北部の都市ルテティアはパリと改名された。5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵
	入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。

	476年に西ローマ帝国が滅びるとゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国
	が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化
	を受け入れた。メロヴィング朝の後はピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進
	出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を
	頓挫させた。
	シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、イベリア半
	島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャ
	ルルマーニュの下でヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝
	国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。

	シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂し、ほぼ現在のフランス、イタリア、ドイツの基礎となった。また、この時
	期に現代に続くフランス語(古フランス語)の形成が始まった。987年に西フランク王国が断絶するとパリ伯ユーグ・カペーが
	フランス王に選出され、カペー朝の下でフランス王国が成立した。

	彼の子孫のカペー朝、その後のヴァロワ朝、ブルボン朝は戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。1209年にアル
	ビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現在の南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派ととも
	に独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた。黒死病の大流行が起こる直前の1337年からフランスはイングランドとの
	百年戦争を戦っている。フランスは幾度か大敗を喫して危機に陥ったが、ジャンヌ・ダルクの活躍などもあって最終的にはイング
	ランド勢力を大陸から駆逐でき、またこの戦争を通じて王権が強化された。16世紀には新教・旧教の対立から大規模な内戦ユグ
	ノー戦争が起こっている。

	王朝は17世紀のルイ14世の時期に最盛期を迎えている。この時期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政
	治、経済、文化に絶大な影響力を持っていた。フランス語は外交の舞台での共通語となっていた。18世紀にはフランスの知識人
	の中から多くの啓蒙思想が生まれ、科学的な大発見がなされている。加えてフランスはアメリカ、アフリカ、アジアに広大な海外
	領土を獲得していた。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷
	使したサトウキビやコーヒーのプランテーションが築かれ、1804年のハイチ革命によってハイチが独立するまで莫大な歳入を
	フランスにもたらした。











この博物館では、テーマ毎にいろんな小冊子を発行していて、全て無料で配布している。フランス語が読めたらなぁ、と残念無念。下はその一部。




	ケーブルカーでminimes theatres romains駅からリヨンの旧市街へ降りる。旧市街はルネッサンス建築の集合体の一つとされ、世
	界遺産に指定されている。