2015年夏 フランス・ドイツ紀行 第十四日目 2015.6.20


	2015.6.20.(土曜日) 晴れ パリ
	
	8時に朝食を食べる。昨夜部屋に置いてある写真集を見て驚いた。何冊も同じカメラマンの名前があって、
	その内の一冊の扉に英語で、「この本を買いたい方は、25ユーロでJAQUESが喜んでお届けします」とある
	のだ。あれっと思って wifeに今夜の宿主の名前を聞くと「BRAVO」だという。JAQUES BRAVO! 正にこの写
	真集のカメラマンの名前だ。そうか、ここは彼の家だったのだ。

	主人はもう出掛けていたが、朝食時にその事を夫人に話すと、「そう、私の夫です」と言った。本を買うの
	でご主人にサインして貰ってくれと言うと喜んだ。また、WIFEが日本から持参した漆の弁当箱と日本酒をお
	土産だと言って渡すと、夫人は大層うれしがって、またまた大喜びだった。
	用意してくれた、パンとコーヒー、ヨーグルトだけのコンチネンタルの朝食を食べて、10時頃宿を出発。
	モンマルトルの坂道を大聖堂目指して上って行く。





コンシェルジェの扉を入った中に、郵便受けと呼び出しベルがある。来客はココまでは入れるのだ。



上が、コンシェルジェの入り口を中から見た写真。下はその扉を外から写したもの。









外から見ると4,5階建てのように見えるが、中には二階建ての部屋もあるので、最上階は9階だ。







	パリ北端にあるモンマルトル。白亜の聖堂サクレ・クールがそびえるこの丘を中心とした界隈には、今もユ
	トリロが描いた小さな路地がそのまま残る。石の階段、ブドウ畑、レトロなレストランや映画館。そして風
	車。地図など持たず、思い思いに路地へ入り込めば、パリを愛した画家達が好んだ風景に会うことが出来る。









	2つ目の交差点に来た時、左手に大きな赤い風車の飾りを持ったキャバレー「ムーランルージュ」があった。
	写真を撮って更に高い方へ上って行く。夜ムーランルージュへ行って見たかったが、WIFEtが嫌がるので強
	くは主張しなかった。キャバレーと言うだけで何かいかがわしいものというイメージを持っているのだ。










	モンマルトルでも特に目立つのがこのサクレ・クール大聖堂だ。ビザンチン様式の白亜の3つのドームは、
	モンマルトルのあちこちからよく見える。これが建造された第一の理由は、普仏戦争やパリ・コミューンの
	崩壊で意気消沈しているパリ市民の心を鼓舞するため、というのだから、丘のどこからでも、或いはパリ市
	街からもよく見えるように建てられているのである。40年の歳月と、パリ市民の寄付金4000万フランを費
	やして1919年に完成した。




















下はクリックで大きくなります。



	サクレクール大聖堂からの眺めは素晴らしかった。パリ市街がもろに一望できる。「モンマルトルの丘の影」
	と言う表現があるが、正しく絶景だ。「パリッ子」と呼べるのは、モンマルトルの丘の影になった部分に住
	んでいるパリ人だけなのだそうだ。もっと高いところから見たい人は、ドームの上へ上がれば更に雄大なパ
	リの光景を目に出来る。
	附近にはキャンバスを立ててスケッチしている画家達が大勢居る。観光客も大勢居て、またそれをカモにす
	るスリやひったくりも「秘かに」大勢いるらしい。



ここでも武装した軍人が巡回している。日本と違って、パリでは「テロ」は現実なのだ。







モンマルトルの有名な石の階段。いたる所にある。同じ石段でも、長崎と違ってパリはめちゃ綺麗である。















上の金網の中が、モンマルトル美術館のブドウ畑だ。

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	モンマルトルのブドウ畑の側にある「オ・ラパン・アジル」はかってピカソやユトリロ達、画家のたまり場
	だった。モンマルトルには、懐かしいシャンソンを聞かせてくれるシャンソニアが数軒ある。ココもその一
	つだ。「ラパン・アジル」とは「はねウサギ」の意味である。片手に酒ビンを持って鍋から飛び出すウサギ
	の絵を、画家アンドレ・ジルが描いたことから店の名前が付いたという。



	昼間は観光名所の一つだが、今でも営業していて「パリの空の下」などの名曲を、専属の歌手が歌っている
	そうだ。日本人観光客も多く,おなじみの曲をみんなで合唱したりしているというので、夜行って見たかっ
	たがwifeは乗り気ではなさそうだった。



	観光客でごった返すテルトル広場には、押し売りのような絵描きや似顔絵描き、それにスリ達がたむろして
	いる。ここから下へは、徒歩以外にケーブルカーでも降りれるようになっているので、ケーブルカーの乗り
	場へゆく。ここでとんだ目に遭った。と言っても被害は無いのだが、少女達のカツ上げに出くわしたのだ。
	見たところ14,5歳のジプシー風少女達が7,8人、ケーブルカーのキップ売り場の前にたむろしていて、
	客に「金をくれ」とせびっているのである。
	我々の前のおっさんはもう馴れているのか、少女達を相手にせず、自販機でキップを買うと、とっととケー
	ブルカーに乗り込んでしまった。一人の少女が私の前に来て、「金よこせ」みたいな事を言う。私も知らん
	顔してキップを買おうとすると、今度は背の高い少女がきて同じように手を差し出す。私は「言葉がわから
	ん」と日本語で返してキップを買うと、wifeを先に乗せて私もケーブルカーへ乗り込んだ。
	少女達は相変わらず他の客に向かっても同じ行為をしている。ま、カツ上げというには幼い行動かも知れな
	いが、要はタカリである。驚いてしまった。あれで、ナイフでも持ってたら完全に犯罪だ。あの子等はほん
	とにジプシーなのか、それともフランス人なのだろうか。道徳教育などの範疇では無いなと考えさせられた。



少々疲れたので、部屋へ戻って少し休む事にする。ケーブルカーの駅から10分ほどで帰り着いた。



これは宿への途中にあったチョコレートの店。全てチョコレートで作ってある。











	パリで、サン・ジェルマン・デ・プレ教会、サン・マルタン・デ・シャン教会に次ぐ3番目に古い教会が、
	このサン・ピエール・ド・モンマルトル教会である。この教会の西側正面にあるのがテルトル広場である。
	もとはモンマルトル村の広場で、この3番地に村役場があった。広場では一日中、絵描き達の呼び込みや大
	道芸人たちのパフォーマンスが見られ、賑わいが絶えない。














	夕方、今度は大聖堂の反対側にある「モンマルトル墓地」へ行く。パリでは墓地も観光地なのだ。というの
	も、ここにはフランスで名だたる文豪や画家、ミュージシャンなど、多くの有名人達が眠っているのだ。
	WIFEがスタンダールの墓に参りたいと言うのでだいぶ探したが、とうとう発見出来なかった。かわりに、ニ
	ジンスキーの墓を見つけた。私はニジンスキーが好きなので嬉しかった。
	墓地は、クリシー大通りから北へ行くラッシェル大通りの突き当たりが、中央入り口である。メトロだとA
	号線Blancheか、L号線Place de Clichy駅が近い。ゾラ、ハイネ、ドガ、ベルリオーズ、スタンダール、映
	画監督のトリュフォー等が眠っている。























	荻須高徳 出典:ウィキペディア

	荻須 高徳(おぎす たかのり、1901年11月30日 - 1986年10月14日)は、大正・昭和期の洋画家。愛知県稲
	沢市生まれ。小磯良平は東京美術学校(現・東京藝術大学)の同期生。新制作協会会員。
	荻須は画家として活動期間の大半をフランスの首都パリで過ごした。初期の作品は佐伯祐三と同じく、ヴラ
	マンクやユトリロの影響が見受けられ、パリの街角、店先などを荒々しいタッチで描いたものが多かったが、
	その後穏やかなタッチで造形性に富んだ構成でパリの都市風景を描くようになる。
	荻須は1901年(明治34年)、愛知県中島郡(現・稲沢市)の地主の子として生まれる。愛知県立第三中(現
	・愛知県立津島高等学校)を経て、1921年(大正10年)に上京、小石川(現・文京区)にあった川端画学校
	に入り、藤島武二に師事する。1922年(大正11年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。
	1927年(昭和2年)に同校を卒業すると、9月に渡仏。1928年(昭和3年)、佐伯祐三らとモラン写生旅行を
	行い、佐伯の死にも立ちあう。
	荻須の画家としての最初の成功は1928年(昭和3年)のサロン・ドートンヌ入選であった。1934年(昭和9年)
	には最初の個展をジュネーヴで開催。この頃から、作風も佐伯と見分けのつかないようなものから、落ち着
	いた色調、静寂さを備えたものへと変化していく。サロン・ドートンヌ会員に推挙され、フランスでの地位
	を確立したかに見えたが、1940年(昭和15年)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされる。この時サロン
	・ドートンヌ出品作がパリ市買上げとなった。帰国後は新制作派協会の会員となる。
	終戦後の1948年(昭和23年)、日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可され再び渡仏。以後死去す
	るまでパリで制作活動を行うことになる。1982年(昭和57年)にはフランス国立造幣局が荻須高徳の肖像を
	浮彫にしたメダイユを発行。後に同国大統領となるシラク・パリ市長(当時)は「最もフランス的な日本人」
	と彼を評した。同年文化功労者に選定されたのをうけて10年ぶりに帰国したのが祖国の地を踏む最後となっ
	た
	1986年(昭和61年)10月14日、パリのアトリエで制作中に倒れ死去、84歳だった。死の一週間前ほどに同年
	の文化勲章受章が内定していたため、11月3日には死去日にさかのぼって同章が授与された。
	墓はパリのモンマルトル墓地にある。









	墓地を出て、近くにゴッホが2年間住んでいた「ウ”ァン・ゴッホの家」があるというので見に行く。通り
	を挟んでゴッホの家の向かいに小さな食料品店があり、wifeが入ったきり30分も出てこない。全く食い物
	となると目の色が変わる。食品を眺めて何が嬉しいと思うが、全く男とは違う生き物だと言う事を改めて認
	識させられる。近くには「洗濯船」と名付けられたゴッホのアトリエがあったが、今はもう取り壊されてし
	まったそうである。















	モンマルトルは自分の脚で歩き回ってこそその魅力を味わうことが出来る。しかし高齢者や、初老に差し掛
	かった足腰の弱い旅行者には、坂の上り下りは少々しんどいかもしれない。そう言う向きには「プチトラン」
	という電気機関車(自動車)がある。結構繋がっていて、よく角を曲がれるなと思う程なのだが、コレに乗
	れば約35分でモンマルトルの主要な観光地を一周してくれる。好きなところで降りて、また飛び乗ればい
	いのだ。



	我々の借りている部屋の並びの2,3軒隣は、レストランやビストロが並んでいる。昨夜は一番奥のビスト
	ロに入ったが、今夜は真ん中のレストランに入る。入る前、昨夜のビストロのギャルソンが路上で煙草を吸
	っていたので、隣のレストランを指さし、「ココの味はどう?」と聞いてみた。すると親指を立てて「GOOD!」
	と言う。そして、「but,BEST is」と言って自分の店を指さした。二人で笑いながらギャルソン君と別れ、
	我々は隣のレストランへ入った。