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	長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所/ 壱岐・原の辻展示館  〒811-5322長崎県壱岐郡芦辺町深江鶴亀触1092-1
								TEL 09204-5-4080(代) FAX 09204-5-4082
 




	壱岐は古くから日本と大陸とを結ぶ交流の拠点として、対馬とともに重要な役割を果たしてきた。円形の島は周囲約40km。
	郷ノ浦、勝本、芦辺、石田の四町からなり、人口は約3万5千人。低い丘陵がうねる地形で、一番高い山の「岳の辻」でも
	230mである。
	「岳の辻」から眺めると、丘陵は島の殆どを覆っており、水田を営めそうな平たい耕地は僅かしかない。その僅かな平野の
	一つが原の辻である。「岳の辻」から見ると、山間(やまあい)の東の端に、小さな盆地が見える。ここが「深江田原(ふ
	かえたばる)」と呼ばれる盆地で、現在長崎県弐番目の米どころである。(壱番目は諫早平野。)この盆地の中心部に「原
	の辻」は位置している。
	遺跡の広さは約100ha、中心部は楕円(だえん)形の三重の環濠に囲まれ、東西約350m、南北約750m。平成12年
	11月に、国の史跡から特別史跡に格上げになった。




	ちなみに、「原の辻」は「はらのつじ」ではなく「はるのつじ」と呼ぶ。原を「はる」と呼ぶのは九州に多く、宮崎の西都
	原も「さいとばる」だし、福岡県の白木原(しらきばる)、春日原(かすがばる)、原田(はるだ)など、読み方の研究か
	ら地名の歴史を調べるのも面白いかもしれない。

	芦辺町と石田町にまたがる「原の辻遺跡」は、紀元前3世紀〜4世紀初頭に栄えた弥生時代の大環濠集落遺跡で、佐賀県の
	「吉野ヶ里」、福岡県の「平塚川添」遺跡とともに、北九州における3大環濠遺跡として、日本でも初めての「姉妹遺跡」
	という遺跡提携ネットワークを結んでいる。壱岐の島には、弥生時代遺跡は60カ所ほど発見されているが、一番規模が大
	きいのがこの原の辻である。
	「南一海を渡ること千余里。名づけて瀚海(かんかい)という。一大(支)国に至る……」。倭人伝には30余の国名が出
	て来るが、今のところ、実際の遺跡が証明されたのはここ以外にはない。 

 

		
	上右の写真、「船着き場」の模型が入り口左側に展示されている。訪問前この写真だけを見て、遺跡にこれが復元してある
	のかと思っていたが、遺跡は全て埋められていた。用地買収が済んで、遺跡に復元施設が出現するにはまだ数年はかかるの
	だろう。また訪れるチャンスがあるのだと思えば、さほどがっかりもしない。


	上の写真の左側、ガラスケースの中に、最新の発掘調査での出土品が展示されている。



 


	長崎県教育委員会は1999年1月20日、「原の辻遺跡」(芦辺、石田町)で、国内最古の弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の
	青銅製の矢じりが出土した、と発表した。青銅製矢じりは、これまで兵庫県・会下山(えげのやま)遺跡から見つかった弥
	生後期(紀元1世紀)のものが最古とされているが、それより約200年さかのぼることになる。
	同県教委の原の辻遺跡調査事務所によると、矢じりは「三翼鏃(さんよくぞく)」(三角錐(すい)状)と呼ばれる種類で、
	長さ2.9cm、最大幅1.2cm、重さは3.5g。木や竹などの矢柄に差し込めるよう下部が中空になっている。先端は鋭くとがって
	おり、武器として用いたとみている。矢じりは、昨年、中国前漢時代(紀元前202年〜紀元8年)鋳造の「五銖錢(ごしゅせ
	ん)」が出土した近くで見つかり、同じころに大陸で作られ、伝えられたと考えられる。原の辻遺跡では、これまでに船着
	き場跡なども見つかっており、矢じりは大陸との交流拠点だったことをさらに裏付けるもので、同県教委は同遺跡が中国の
	歴史書「魏志倭人伝」に記されている「一支国」の王都だったとの見方をますます強めている。【長崎新聞】


	壱岐・原の辻遺跡から青銅器多数出土 歴代首長の墓域  2002/7/25
	出土した青銅器。上から銅剣、銅鏃、銅鏡の一部
	中国の史書「魏志倭人伝」に登場する一支(いき)国の「都」とされる長崎県・壱岐の国特別史跡原(はる)の辻遺跡で、
	墓域から銅剣や鏡など多数の青銅器や管玉などが出土した。県教委と石田町教委が24日、発表した。権威の象徴とされる
	副葬品が多数出土したことから、歴代首長の墓域であることが初めて確認された。墓がつくられた時期は弥生前期末から後
	期前半までと見られ、一支国の支配者層に迫る重要な手がかりになりそうだ。 

	出土したのは環濠(かんごう)集落の東側で中心部に近い石田大原地区。甕棺墓(かめかんぼ)22基などが確認された。 
	甕棺内やその周辺などから、弥生前期末〜中期前半の細形銅剣9点(5本分以上)や朝鮮半島製の多鈕細文鏡(たちゅうさ
	いもんきょう)の破片、後期前半の中国製のキ竜文鏡(きりゅうもんきょう)とみられる鏡の破片、青銅の矢尻(銅鏃(ど
	うぞく))25本以上、ガラス小玉121点や管玉25点、勾玉(まがたま)2点などの装飾品が見つかった。いずれも権
	威の象徴とされる。ただ、同地区は過去の耕作などで表土が削られており、副葬状況ははっきりしない。 

	同地区では74年度の発掘で、中国系の戦国式銅剣やトンボ玉が中期の甕棺墓から見つかっており、それ以前には細形銅剣
	2本や細形銅矛も採集されるなど、有力な首長墓域とみられていた。今回の確認分を含めると見つかった甕棺の数は73基、
	石棺墓は21基にのぼり、溝状の遺構も五つ確認された。 
	銅鏃には赤い水銀朱が付いていたものもある。うち16本は意図的にまとめて埋められていた。同遺跡では国内最多の100本
	を超える銅鏃が出土しているが、朱が付いた例は初めて。両教委は葬送の祭祀(さいし)に使ったと見ている。 
	出土品は27日から原の辻展示館で公開する。 (07/25)【asahi.com】

 

 
	
	今回壱岐を案内してもらった山口さんと(上左)。うしろの復元船は、大阪の弥生遺跡から出土した埴輪を元にしてある。

 


	「壱岐・原の辻展示館」は、年間入館者が8万人。数 100万点にのぼる出土品は、大陸や日本国内各地との様々な交流を示
	す土器、石器、貨幣、銅鏡、銅剣、銅鏃、動植物骨格、建物部材、農耕具等々、実に多岐に渡っている。弥生時代の遺物の
	殆どが出土していると言ってもいい。倭人伝の記述の通り、南北に交易をしていた事実が読み取れる。一番多く出土してい
	るのは土器で、その次は石器である。青銅器、鉄器、骨格器、木器などの他に、弥生人の身を飾った装飾品として、ガラス
	製や、硬玉・碧玉製の勾玉・管玉・小玉が副葬品として出土している。新しいところでは、「ムンク」の「叫び」という絵
	画に似た人面石や、後漢時代の秤(はかり)の重りである「権」(けん)も出土している。遺跡は現在も、長崎県教育庁原
	の辻遺跡調査事務所が発掘を続けており、調査が終わったのはまだ全体の6%程度である。 




	【弥生式土器・土師器】

	土器は、弥生時代前期から古墳時代初頭のものを含めて、遺跡のあらゆる地区から出土するが、特に環濠・溝の中からは大
	量に出土する。これは、濠がその役目を終えた時、埋め戻すため大量の土器が溝の中に廃棄されたのではないかと考えられ
	ている。
	時期的には弥生時代後期の土器が最も多い。弥生式土器は北部九州系の土器で、遠賀川以東の土器や瀬戸内地方系統の土器
	も含まれている。古墳時代初頭の土師器(はじき)は、在来系土器の他に山陰地方系の土器や、朝鮮半島系の無文土器や瓦
	質土器・陶質土器、楽郎系統の土器なども含まれている。韓国南部地方からもたらされた朝鮮系無文土器とその影響を受け
	た擬無文(ぎむもん)土器、三韓系瓦質(さんかんけいがしつ)土器、陶質(とうしつ)土器と北朝鮮の平壌(ピョンヤン)
	市付近に存在したと推定されている楽浪郡からもたらされた楽浪系滑石混入(らくろうけいかっせきこんにゅう)土器、楽
	浪系瓦質土器などがある。



 

 


	【丹塗台付注口壺】
	川原畑地区の土器溜めから出土。弥生中期と見られ特異な形態をしている。同様の壺が、佐賀県吉野ヶ里、福岡市の吉武遺
	跡などからも出土している。丹塗の弥生土器は、北部九州、特に福岡県内に広く分布しており、糸島地方、甘木・朝倉地方、
	浮羽地方、飯塚・筑豊地方などに出土例がある。酒そのものの確認はないが、丹塗脚台付注口壺は、酒器である可能性があ
	る(下左)。 

 

 


	【船とクジラを描いた捕鯨線刻絵画土器】
	紀元前1世紀頃と推定される船と、鯨を描いた線刻絵画土器で、近寄って見ないとそれとはわからないような薄い絵である。
	説明図と見比べて判読できる。壱岐には今も、昔鯨を捕っていたときの湾の堤防が残っている。山口さんに連れて行って貰
	った少弐公園の丘の上から見ることができる。

 



 


	【大泉五十・貨泉】
	平成13年8月に出土した中国の古代貨幣「大泉五十」は、「新」を建国した王莽(おうもう)(紀元前45〜紀元23年)
	の時代に初めて鋳造された青銅貨幣。大きさは現在の500円硬貨と同じくらいで中央は四角な穴があいている。国内では
	福岡市の鴻臚館跡でも見つかっているのでこれは2例目である。
	貨泉も「新」時代、紀元14年に王莽によって鋳造された貨幣で、昭和26年の調査でも出土している。最近では吉野ヶ里
	でも出土しており、発行期間が短いため弥生時代の暦年を特定する基準とされる。これらの貨幣の出土は、原の辻遺跡が大
	陸との交流地点であったことを証明している。学者によっては、弥生時代既に日本人も貨幣経済の意味を知っていたのでは
	ないか、という人もいる。





 

  


	【最新の出土:「人面石」】(上右)

	原の辻遺跡は「魏志倭人伝」に見える、「一支国(いきこく)」の王都と特定される遺跡である。邪馬台国と魏を往来した使
	者たちも確実に通ったと思われる所である。現在、大規模で計画的な調査が行われており、次々と常識を覆す新発見が相次
	いでいる。「弥生人の叫び」と呼ばれるこの石造物は、絵画「ムンクの叫び」に似た人面石である。弥生人の精神性が窺え
	る。

 


	【手斧未製品】
	石田高原地区の大溝から出土。弥生時代前期。石斧を装着するための溝が刻まれておらず、製作途中の手斧柄である。

 

 






	【石製漁労具】
	弥生時代。網や釣り糸の重り(石錘)である。ヒモを通してしばるために、石の表面に溝や孔が彫られている。
 
	【骨格器】
	シカの角やクジラの骨を用いて、釣り針、銛(もり)、ヤス、鮑起こしなどの漁労具や、小動物の骨を利用した骨鏃(こつ
	ぞく)、イノシシの大腿骨を利用した刀子(とうす)の柄などが出土している。




 









	【甕棺墓と箱式石棺墓】
	弥生時代の北部九州一帯では、2個の大きな土器の口を合わせたカプセルのような棺をつかって埋葬する「甕棺墓」と呼ば
	れる墓制がさかんに営まれる。原の辻遺跡でも、この甕棺墓がみつかっている。このほかにも、地面に穴を掘っただけの土
	壙墓や、平たい石を箱のように組み合わせた箱式石棺墓も見られる。    

 

	【祭儀建物跡復元模型 】
		
	遺跡中央の標高18mの最も高い部分から掘立柱建物の柱穴が確認された。ここには頂部全体を板塀で囲った祭儀場があり、
	北側には小型高床祭殿群,中央に高床主祭殿と平屋脇殿が棟を揃えて南北に直列する状況が考えられている。弥生〜古墳前期
	にはこの地点が中枢部分であったと考えられている。 







 




	【木製短甲】
	石田高原地区の環濠から出土。弥生中期から後期にかけての製造と推定される。1本の木を刳りぬいて造られており、まだ
	製作途中のものらしい。他にも短甲の破片と思われる木製品が出土しており、ヒモを通す孔が幾つかあいている。

 


	2002年 1月22日(火)  最新出土遺物情報   後漢の「権」秤(はかり)の錘(おもり)出土 (日本最古)出土! 
 
	出土地点:祭儀場跡とされる台地高台部の北側で,弥生時代後期〜古墳時代初頭の遺物包含層から出土した
	出土遺物:「権(けん)」重さをはかるためのおもり
	材   質:青銅製(銅98%・鉛1.7%) 
		  鉛同位体比法による鉛の原産地推定によれば,使われた鉛は中国華北地域産である。
	高   さ:4.3cm  
	幅    :3.49cm  
	厚   さ:2.85cm  
	重   さ:150g
	特   徴:釣鐘上で,頂部には半円形の紐を通す孔がわずかに残る。また,体部下半部に孔が貫通している。
	意   義:これまでの例を400年遡る日本最古の,例で「一支国」において組織的な市が存在した可能性を示唆する資
		料である。

 


	弥生時代の一支国の王都壱岐の原の辻遺跡で、秤に使う青銅製の錘(おもり)「権」(けん)が出土し、分析の結果、国内
	での発見例としては最も古く、中国で製造された可能性の高いことが分かった。秤に使う錘の「権」は、一昨年7月原の辻
	遺跡の祭儀場跡と見られる台地の北側の畑で出土し、成分分析や年代測定などが行われた。高さ4.3センチ、幅3.5セン
	チの釣り鐘型で、重さは150g。最上部に紐を通す為の穴鈕の跡がわずかに残り、胴体部には直径5ミリの穴が貫通して
	いる。県教育委員会によると、材質は中国華北産の鉛を 1.7%含む純銅に近い青銅で、中国で製造され、紀元1世紀から
	4世紀・弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて壱岐にもたらされた可能性が高い。日本の秤の制度は7世紀に中国の唐の
	制度がそのまま導入され、錘の出土品も福岡県で見つかった7世紀代の石製品が最も古いものだったが、原の辻遺跡の「権」
	はこれよりおよそ400年以上古い国内最古の出土品である。
	また魏志倭人伝に記された、専門の監督官を置く組織的な交易の場「市」の存在の可能性を示す貴重な資料となった。 



 

 

 




	【鉄器】
	弥生後期。鉄鎌は農具、鉄斧・釶は工具、鉄鏃・鉄鉾は武器である。弥生後期になると石器は姿を消し、鉄器が普及してく
	る。

 

 


	【銅鏃】
	弥生時代後期のものが多く、環濠その他から出土している。青銅製のやじりで、石製品のものに比べて貫通力が強く、当然
	殺傷力も強い。狩猟用ではなく、主に戦闘用の鏃として使用されたものと思われる。約50点出土しており、まとまって出
	土した例としては、我が国最多である。
















 

 


	壱岐では現在270程の古墳が知られているが、この数は長崎県にある古墳の約半数を占めている。県内の面積では3.3
	%にすぎない壱岐の島に、これだけの古墳が造られているというのは驚きである。「鬼の岩屋」と呼ばれる古墳に代表され
	る、巨大な岩を用いた横穴式古墳が多く、多くは古墳時代後期(6−7世紀)に造られている。しかもその規模たるや、畿
	内の古墳にも匹敵するものが多い。勝本町布気触(ふけふれ)にある「掛木(かけぎ)古墳」などは、まるで天皇陵と言っ
	てもいいほどの規模である。直径約15mの円墳の南側に、巨石を組み上げた横穴式石室の入り口がある。前室、中室と遺
	体を収める玄室の三室から構成されており、大きな岩を壁にして、はっきりそれとわかる部屋の構成を取っている。全長約
	14mで、これだけの規模の古墳は畿内にもほとんど無い。
	鬼の岩屋古墳も、同様に巨大な天井岩を用いており、蘇我馬子の墓とされる明日香村の石舞台古墳よりも大きい。横穴式石
	室は全長16.5m。長崎県下では1番の規模で、全国でも12位の大きさだ。 

	これらの古墳の存在は、一体どう考えたらいいのだろうか? どうしてこの島にこれほどの古墳が築造されているのか。
	「本土へ渡れなかった渡来人の一族が壱岐に留まった。」とか「筑紫の磐井の乱の結果、論功行賞として、大古墳の造営が
	大和から許可された」とか、様々な説があるが、はっきりした事はもちろんわからない。





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