SOUND:Let it be







 昭和の邪馬台国研究 


	私見では、昭和という時代はおそらく、未来の日本人達から真に近代性を確立した時代であった、という評価を受けるに
	違いないと思う。チョンマゲ・着物・農耕漁獲時代を、明治の若いエネルギーがたった50年で近代化してしまったが、反面あま
	りの変革のスピードに、色々な問題を内包したまま国家が形成されていった。その矛盾は大正昭和初期に露呈し、とうとう
	日本は世界大戦に突入してしまう。しかしその廃墟の中からも再び立ち上がり、経済国家の礎を築く。オリンピックも万国博
	も開催し、世界に冠たる近代国家になってしまった。生活は向上し、蔓延した高学歴社会の体制の中で、個人の意識も広
	く高くなった。世界で何が起きているかを知り、我々が現在いかなる位置にいるのかもほぼ認識している。敗戦から45
	年で昭和天皇は崩御し、時代は平成となったが、昭和はまさしく近代化の土台を築いたのである。異論もあろうが、世界
	の中で日本はすこぶる自由な国である。英国のような身分制度も無いし、米国のような政治体制の限定もない。勿論DN
	Aに基づく能力の差はあるが、やろうと思えば何でもできる。勤労意欲があって健康なら少なくとも飢えて死ぬ事はない。
	この土台の上に立っていかなる社会を目指すのかは、平成の今に生きる我々全員に等しく課せられた命題である。





昭和時代の邪馬台国研究は実に多岐に渡っている。ここでは、戦争まで、戦後、現在の三部に分けて研究の足跡を見ていきたいと思う。


      


戦前の邪馬台国研究

	安藤正直は、昭和2年に今日伊都国起点説と呼ばれる解釈を発表した。魏志倭人伝にいう所の奴国以下邪馬台国までの行
	程・方角は伊都国を起点としている、というものである。
	これは以前にも豊田伊三美が唱えたが安藤が大系化した。即ち、不弥國へは伊都国から東百里、奴国へは伊都国から東南
	百里、投馬國へは伊都国から南水行二十日、そして邪馬台国へは伊都国から南へ水行十日陸行一月、という事になる。
	安藤はこれにより、邪馬台国を熊本県下益城郡佐俣(さまた)であるとし、その理由として邪馬台の音が[ざまた]か
	[さまた]でなければならない、とした。安藤が『邪馬台国は福岡県山門郡に非ず』を発表したその年に、志田不動麿は
	『邪馬台国方位考』を著し、白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼問題は如何に解決せらるべきか』を発表した。又太田亮(1884〜
	1956)は『邪馬台国の発生と其崩潰』を公表した。志田は安藤の方位解釈に異を唱え、邪馬台国大和説を主張した。
	白鳥は、倭人伝の記述に現れる勾玉等の産物に着目し、この記述は真珠であり昔から真珠は九州で多く採れるものである、
	と述べた。太田は邪馬台国を熊本県菊池郡山門郷に比定し、その理由を邪馬台は[やまと]であるからとし、神武東征に
	よりその呼び名が近畿の大和に残った、とした。太田は、神武東征などの神代の話を事実でないとする最近の説が、古事
	記日本書紀等のもつ資料的価値を破壊してしまった、と述べて、津田左右吉の記紀批判に対抗した。
	津田は、大正昭和にかけて日本書紀・古事記の研究に従事し、『神代史の新しい研究』(大正2年)・『古事記及び日本
	書紀の新研究』(大正8年)・『神代史の研究』(大正13年)・『古事記及日本書紀の研究』(大正13年)等々を著して、
	当時の学会に旋風を巻き起こしていた。学会の空気は殆ど、これらの記紀批判で蔓延していたといってもよい。太田の説
	はこの風潮を諫めようとするものであったが、当時としては、神話を否定する空気に対抗するだけの合理性は持ち合わせ
	ていなかった。

	昭和3年から5年にかけて、今日「生口論争」と呼ばれる一大論争が巻き起こる。昭和3年9月に、中山平次郎は「考古
	学雑誌」に『魏志倭人伝の生口』を発表した。この中で中山は、生口を日本初の留学生であると解釈したが、明くる年の
	1月、橋本増吉は同じ雑誌に同じタイトルで論文を発表し中山を批判した。橋本の生口論は、捕虜ではないが女王から
	贈り物として献上された特殊技能の持ち主達、例えば潜水夫のようなものである、とした。
	この後、二人の間で毎月のように生口を巡る論争が行われた。途中、波多野承五郎(生没年不詳)が生口は捕虜であるとし、
	沼田頼輔(1867〜1934)がこれに賛同した。昭和5年3月に、市村讃次郎(1864〜1947)は生口論争に加わりこれを奴隷であ
	る、とした。直ちに橋本はこれを批判し、稲葉岩吉も市村説に反論した。しばらく論戦が続くが、しかしやがて橋本増吉
	は、生口は捕虜を意味しており奴隷の意味も併せ持っていると宣言する。これは日本史研究の中で、新しい研究方向を出
	現させる事になった。それは唯物史観史学である。
	昭和5年末松保和が発表した二つの論文、『太平御覧に引かれた倭国に関する魏志の文に就いて』と『魏志倭人伝解釈の
	変遷-投馬國を中心として-』は、まさしくその幕開けであった。
	末松は邪馬台国研究史に着目し論を展開したが、自身は「日本古典を全く離れ倭人伝だけを考えると、邪馬台国=大和説
	に加担する。」とした。末松は、生口問題は、奴隷・捕虜の問題、財産所有形態の問題、生産技術の問題に発展すべきで
	あると述べ、このような考察には畏友羽仁五郎から受けた刺激と暗示が大であったと述べている。
	唯物史観史学そのものの成立は、昭和2年野呂栄太郎(1900〜1934)の『日本資本主義発達史』に始まる。その後、古代史
	の分野でもこの史観に基づく論文が続々と発表される。早川次郎(1906〜1937)の『大化改新の研究』は邪馬台国問題をこ
	の立場から取り上げた最初の研究として知られる。禰津正志、渡部義通、伊豆公夫らが後に続き、これらの唯物史観史学
	者たちの邪馬台国位置論は大和説に大きく傾いていた。末松保和の後を受けた研究は、橋本増吉、伊藤徳男、田村専之助
	らが引き継いだ。こちらは、邪馬台国九州説が専らであった。しかしこれらの史観と関係なしに、邪馬台国大和説もどん
	どん発表された。稲葉岩吉、肥後和男、梅原末治、志田不動麿、大森志郎、笠井新也、藤田元治らが論文を著し、邪馬台
	国問題と大和朝廷の研究を行った。

	だが、時代は、もはやこれらの研究を大っぴらに行えないような環境に突入していた。
	昭和9年、10年ごろの日本史研究論文にはXXXXXXXXXXで伏せられた部分が実に多い。
	渡部義通は、自身の著書の検閲についてこう語っている。

	
	「それにしても、いま漸(ようや)くにして世の光に浴し得たものは、見る如く、惨然たる傷痍(しょうい)に損(そこ)
	なわれ、殊(こと)に後半は、校了の後(みぎり)に至り、文章の数行乃至(ないし)数十行を削除して片影を止めず、
	文脈の全く巡り難きところさへ数カ所に亘(わた)っている。本書の生みの親として、この不幸なカタワ児を見るの苦痛
	は然ることながら、かかるものを真摯(しんし)な研究者や読者に提供せねばならぬ苦痛には一層忍び難いものがある。
	・・・・・・・」



      



戦後の邪馬台国研究

	今日から見ても、戦前の史学研究には多くの障害が存在していた事は想像に難くない。ずいぶんと不自由な学問分野であ
	った事だろう。下手に論文を発表すると、検閲や不敬罪どころか非国民と呼ばれた時代である。あのまま、もし日本が太
	平洋戦争に勝っていたら、一体今ごろどんな世の中になっているのだろうか。
	戦前までの邪馬台国研究がどちらかと言えば、邪馬台国はどこか・卑弥呼は誰かという問題を中心に研究されてきたのに
	対し、戦後は様々な方法論による邪馬台国論が発表された。民族学、考古学、博物学、社会学等の自由な研究方法の進展
	と相まって、歴史学も又自由を取り戻したと言えよう。
	昭和25年藤間生大は『埋もれた金印』で、邪馬台国における王権構造、身分階級制度、社会生産力、共同体国家構造等
	の問題に触れ、邪馬台国研究をより深く掘り下げた。藤間の説は、邪馬台国は王達による卑弥呼の共立で成立した国家で
	あり、はっきりした国家間の隷属関係などはまだ無かったというものであった。
	この説に、上田正昭や井上光貞、北山茂雄、直木孝次郎らが加わり活発な論戦が行われた。この時期、邪馬台国問題は多
	角的に研究の光があたったと言ってよい。
	榎一雄、牧健二、橋本増吉、原島礼二、武田幸男といった研究者達による魏志倭人伝の研究も、又新たな解釈や方法論を
	生み出していたし、世界史、特に東洋史の中に日本古代を置いて考える方向も、戦前と比べると著しく自由になった。
	日本民族は大陸の騎馬民族の末裔であるとか、天皇家は韓国王朝の流れを汲むとか、戦前の皇国史観から見ると銃殺もの
	と思えるような説も自由に発表され世に出た。


      

現在の邪馬台国研究


	自由な空気の中で研究に励んだのは学問の府にいる学者達だけでは無かった。
	古代史、特に邪馬台国問題はそのロマン性と郷土身びいきとが重なって、昭和40年代は、多くのいわゆる古代史家や郷
	土史家達を生んだ。長崎県島原半島に住む、島原鉄道の重役宮崎康平が出版した『まぼろしの邪馬台国』は、著者個人が
	盲目であるという話題性もあって大ベストセラーとなった。それ以後はまるで邪馬台国祭りとでも言うような出版ブーム
	が続いた。書物のタイトルも実におもしろい。
	『邪馬台国は大和である』『 − は大和でない』『 − は沈んだ』『 − は沈まず』『 − は四国である』
	『 − は筑紫にあった』『 − は大村である』『 − の謎』『 − に謎はない』『隠された − 』『あばかれ
	た − 』『コンピュータで探る − 』『コンピュータではわからない − 』等々。

	在野の研究者達が発表した邪馬台国論は、学問の大衆化という点では大いに貢献したが、その多くの論旨は先人達の研究
	の域を出ていない。誰かの説を自説に都合よく取り入れ、学問としての基礎や常識を無視した我田引水もいい所の主張が
	多い。
	原田大六は在野の考古学者であったが、福岡県糸島郡に住み地元の前原古墳を発掘し考古学に大きな足跡を残した。『邪
	馬台国論争』を著し、邪馬台国大和説を展開している。他にも、重松明久の『邪馬台国の研究』や、山尾幸久、古田正隆、
	川野京輔、山田一雄といった面々が自説を発表したが特に目新しい解釈は生まれていない。
	そんな中にあって、高校教諭(元昭和薬科大学教授)であった古田武彦の著した『邪馬台国はなかった』は、これまで誰
	もが気づかなかった邪馬台国という呼び方についてのものであった為注目を集めた。それは、魏志倭人伝原文(実際の魏
	志倭人伝現物は存在しない。今日残っているのは全て後世の写本。)の一文字一文字を、中国に残る史書の文字の用法と
	照らし合わせ、邪馬台の台は台ではなく一であり、従って邪馬台国は存在せず邪馬一国が存在するのである、という説で
	あった。(台という文字だが、倭人伝に載っているのはこの現代文字ではない。古代中国文字の台と壱(一)はよく似て
	いる。)
	古田説の方法は、中国の文字の用法を厳密に調べ上げてゆくという、今まで誰も試みなかったものであった為、多くの賛
	同者を得た。古田説には、和歌森太郎や佐伯有清、森秀人、小田洋、原田大六らが賛同批判を行った。古田は、邪馬台国
	の位置そのものは博多湾周辺を比定している。だがその解釈を巡っては批判も多く、産業能率大学の安本美典は古田説を
	批判し、対抗して『邪馬一国はなかった』を発表した。この二人は、その後も雑誌の討論、TV討論等でバトルを続けて
	いたが、しかしその後、古田は東北王朝の存在証明に焦り、稚拙な偽作問題に関わって歴史家としての信用を失墜してし
	まった。

	安本は、早くからコンピュータを日本古代史の分野に持ち込み、地名の残存度や天皇の在位期間の割り出し、古代日本の
	日食と天照大神の岩戸こもりとの関係、などを解明しようと試みており、その論旨方法は、今日、又多くの賛同者を得て
	いる。安本は、現在も残っている地名は約1、000年の残存度を持っていると様々なデータを持ち出して説明し、奈良
	地方と福岡県甘木朝倉地方の地名の酷似に注目している。又、邪馬台国東遷説の立場に立ち、卑弥呼は天照大神であると
	する。PCの天文ソフトを使用して、卑弥呼の死の前後2回にわたり皆既日食があった事を推論し、これが天照大神の岩
	戸こもりの伝承となって残っているのではないかと述べている。


邪馬台国大研究・ホームページ / INOUES.NET / 研究史8