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日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

国立扶余博物館 2002.10.25(金)








		1993年8月に新築された国立扶余博物館は、11,000点以上の貴重な遺物が先史室、歴史室、仏教美術室、企画展示室など4つの展示室
		に分けられ展示されている。 
		これらの遺物は、輝かしい百済文化の粋を物語っているが、特に1994年に陵山里古墳群近くの建物の跡地で発掘された「百済金銅大香り
		炉」が永久保存処理過程を経て展示され、国立扶余博物館を一層価値のある場所にしている。また、神仙境や桃園を理想とした百済の人
		々の心が表された山景紋摶などが展示されている。
 

		■場  所 : 扶余郡扶余邑東南里 
		■交  通 : 扶余市外バスターミナルから徒歩で15分 
		■入場料 : 400 ウォン 
		■時  間 : 9:00〜18:00(11〜2月までは16:00/5〜8月までは19:00) 

 

↑ 上左、石製蓮華台座 扶余 佳塔里 百済(7世紀) 直径100cm。

↓ 石槽 扶余 官北里 百済(7世紀) 宝物第194号 高さ:146.5cm。

 





松菊里(ソングンニ)遺跡出土品




		【松菊里(ソングンリ)遺跡】

		忠清南道(チュンチョンナムド)の扶餘(プヨ)で発見された、日本の時代区分で言えば縄文末期から弥生時代にかけての大規模集
		落遺跡で、その発生は紀元前5〜4世紀頃と推定される。朝鮮における水田稲作遺跡として、平壌市南京遺跡などとともに有名にな
		り、多くの住居址が発見され、米をはじめ多くの穀類や生産道具がみつかるとともに、青銅器には東北アジアとの繋がりが見られる
		ものがあるなど、穀物栽培の研究に重要な遺跡となった。

		周囲を濠と柵で廻らされた環濠集落はその後日本でも多くの類似遺跡が出土し、ここで出土した土器や発掘された住居跡などは、松
		菊里式土器、松菊里型住居と呼ばれ、その後の我が国の稲作の起源や考古学の研究の基礎ともなっている。
		また、埋葬施設である石棺墓なども、その後我が国の北九州地方をはじめとして多くの遺跡に類似のものが見られ、副葬品に納めら
		れている石鏃や石剣なども北九州から出土しているものと殆ど同じである。
		日本最古の稲作遺跡とされる佐賀県唐津市菜畑遺跡、福岡県板付遺跡等を中心とした、西北九州地域の遺構から出土する水稲耕作に
		ともなう石器は、松菊里遺跡から出土するものと形状等が酷似している。それ故、我が国ではこれらの石器を大陸系磨製石器と呼ぶ
		事もある。
		住居は竪穴住居で、住居の中央部に、両側に2本の柱穴が付随した楕円形の土壙があり、松菊里遺跡で同じ構造の竪穴住居が多数発
		掘されたことで「松菊里型住居」と呼ばれ、弥生前期〜中期にかけて北部九州を中心として西日本に散見される。岡山県の南溝手遺
		跡、愛知県・朝日遺跡、神奈川県の大塚・歳勝土遺跡などにも類似のものが見られる。
		松菊里遺跡では底部穿孔の甕棺が3基検出されているが、いずれも直立埋置されており,土器底部が棺底に当たるので,水抜き孔と
		考えられ、すべて焼成後に穿孔を施している。(姜仁求ほか1979:國立中央博物館1978)。しかし、直立埋置されているが底部穿孔
		のない甕棺墓もあり、必ずしも統一されているわけではなく、また松菊里遺跡に近い公州南山里遺跡・松鶴里遺跡でも同様の甕棺が
		みられる。(遺跡めぐりの項と同文)

 

 







 


		上右の図は、松菊里式土器が九州各地へ浸透していったルートを図示したもの。福岡県旧筑紫郡(現筑紫野市・太宰府市・二日市市・
		小郡市など)・甘木朝倉地方・佐賀県吉野ヶ里ばかりか、宮崎・鹿児島県へも拡散して行っているのがわかる。
		最近頂いたメイルのなかに、宮崎県西都原地方が邪馬台国ではないかと言う人がいて、ワードで長文の質問状を送ってこられた事が
		ある。新山さんという方だが、その方に私は以下のような返答メイルを出した。

		>
		> 1.古墳は確かに多くあるが、古墳は弥生時代の産物ではない。(邪馬台国は明らかに弥生時代後半のクニですし、古墳に卑弥呼
		>   が葬られているという可能性は低い。)
		> 2.西都原周辺に弥生時代の大集落跡を思わせる弥生遺跡はない。
		> 3.位置的に見て、南九州は魏にも朝鮮半島にも遠く、使者が頻繁に行き来できたとは考えにくい。
		> 4.西都原を邪馬台国とするのは皇国史観に基づくもので、科学的な学問結果とはいえない。
		>
		> このうち3,4は明らかに大和説信奉者達の身勝手な言い分で、それこそ科学的ではないでしょう。問題は1と2ですが、これは
		> 今のところそうですが、今後発見される可能性もある事を考えれば、南九州に大規模弥生集落が無かったと断言はできません。
		> 西都原古墳群のような大規模な古墳群は、その前の時代、すなわち弥生時代後半にも、大規模な集落があったはずだと考える
		> のが自然でしょう。ただ、残念なのは現在までの所それを思わせる遺跡が発見されていないという点です。
		> しかし、鹿児島の国分地方の「上野原遺跡」や指宿の「水迫遺跡」のように、旧石器・縄文の遺跡が南九州にもあった事を考えれば
		> 西都原周辺にも人々が生活していた可能性はきわめて大ですし、それがあの古墳群へつながっていく可能性は高いと考えます。
		> また、日本の記紀がどうして高天原や日向三代を記録しているのかを考えたとき、ただ机上の空論だけで南九州を設定したとは
		> とても思えず、何らかの歴史的な事績があったのではないかと考えるほうがまた自然でしょう。
		>
		> アマチュアはなかなか学問的な蓄積や結果を手に入れることが難しく、理論武装には時間がかかりますが、そのあたりをこつこつ
		> 積み上げていけば、りっぱな「邪馬台国=西都原」論になるのではないでしょうか。
		> 実際この問題は、卑弥呼の墓が発見されるまでは、決着はつかないと思います。ご健闘を祈ります。
		>

		この図を見ると、松菊里式土器が九州で一番分布しているのは北九州と西都原を中心とした地域である。「邪馬台国=西都原」論は再
		検討をしたほうがいいのかもしれない。新山さん、頑張ってください。

		それにしても、もし人々が移り住んでこれらの土器を伝えたのだとしたら、人間というやつはとてつもないエネルギーを持った動物
		だという事がわかる。「ゲルマン民族の大移動」と前後して、古代、数次にわたる「モンゴロイド大移動」があったのかもしれない。


<大阪府立弥生文化博物館>のパネル







 

このあたりも、北九州の遺跡・博物館でお目に掛かるものと同じである。吉野ヶ里資料館・福岡市博物館などには全く同じものが並んでいる。



 





 


		上右の「丹塗磨研土器」は、北九州の遺跡からも同じものが出土し、他地域にはない。吉野ヶ里から甘木朝倉地方にかけて分布してい
		る。東京上野の国立博物館に行くと、甘木市の「栗田遺跡」から出土した見事な「丹塗磨研土器」の壷や瓶が展示してあるし、吉野ヶ
		里資料館にもこぶりだが同様のものがある。朝鮮半島南部から筑後川流域は、一つの大きな文化圏のなかにあった事を想起させる。

 





この石剣や石製品の並んでいる様や、以下に続く青銅器製作の為の鋳型の陳列などは、「奴国の丘資料館」に行った時を思い出させる。

 

 

 


		上右の韓国式銅剣は、ガラス製管玉とセットになって吉野ヶ里の甕棺からも出土している。現在の中国の東北地方である遼寧省一帯を
		中心として青銅器文化が発達し、刃の下部が膨らんだ遼寧式銅剣が多く用いられる。これを「遼寧式銅剣文化」と呼ぶが、紀元前10
		世紀の初めに成立し、数百年間持続した。
		この文化の最も特徴的な遺物である銅剣は、刃部がS字形に曲がっており、別々に造った剣と柄を結合して使う遼寧式銅剣(琵琶形銅
		剣、あるいは満州式銅剣とも呼ぶ)である。こうした遼寧地方の青銅器文化が西海岸を経由して韓半島中部地方に入ってきた後、韓半
		島では本格的な青銅器文化が発達する事になる。この文化段階の青銅器としては、銅剣・銅矛・洞鏃・刀子(とうす:小刀)・扇形銅
		斧・銅鑿などがあり、大部分は磨製石剣・石鏃などの土着的な磨製石器とともに発見されている。

		錦江流域では、扶余松菊里の石棺墓と住居址がこの時期に該当し、西南部地方では、遼寧式銅剣文化・松菊里型文化・南方式支石墓文
		化が結合した姿が見られる。


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写真は、松菊里遺跡で発見された石棺墓副葬品と考えられる石鏃と石剣など 
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		紀元前4世紀頃、遼寧地方のいわゆる「遼寧式銅剣文化」から枝分かれした新たな青銅器文化が韓半島に再び伝播して、韓国的な独特
		な韓国式銅剣文化が花開く事になる。韓国式銅剣文化は錦江流域を中心として生まれ、韓国式銅剣と粗文鏡、儀式に用いられた防牌・
		喇叭(ラッパ)・剣把形などの新たな青銅製儀品が現れる。
		韓国式銅剣は、遼寧式銅剣と形態が似ているが、剣の刃が直線的になり、刳方が造られるのが大きな特徴である。剣把は主に木で造ら
		れ、剣把頭飾は鉄鉱石製が多い。前時期に引き続いて、扇形銅斧・曲玉・管玉などが用いられ、新たに黒色磨研土器長頸壷と粘土帯土
		器が現れる。
		重要な遺跡は、扶余蓮花里遺跡、大田塊亭洞遺跡、禮山東西里遺跡、牙山南城里遺跡などで、全て錦江流域を中心とする忠南地方に密
		集しており、いずれも割石や板石で棺を造り、上にも石を積んだ石棺墓系統の墳墓である。



 








その他の展示品



↓ 下左、百済金堂大香爐 百済(6世紀)国宝第287号 高:62.5cm。 下右、昌王銘石造舎利龕 百済(567年)国宝第288号 高:74cm。

  



↓ 下、陶硯。右下 扶余 錦城山 直径:23.5cm。

 

↓ 下、七支刀。

 


		七支刀は、主身の左右に3本ずつ刃が互い違いに出ているので、六叉鉾(ろくさのほこ)とも呼ばれ、日本でも奈良県天理市の石上
		(いそのかみ)神社にある。これは、「日本書紀」神功紀52年条の「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたるものだろうと考えら
		れている。日本書紀にこの刀に関する記述があることは広く知られていたが、明治半ばに、石上神社の宮司をつとめていた菅政友が、
		「同神社に秘蔵されている刀こそ、日本書紀に書かれた七支刀に違いない」と学会に発表した。現物が存在しているとは考えてもい
		なかった学会は大騒ぎとなった。石上神社は、もともとは古代豪族・物部氏の氏神で、そのうち大和朝廷の武器庫の役割を担う。
		そのため七支刀がここに納められていたのだろうと考えられる。しかし、一応剣の形状をしてはいるが、突き出した枝は戦闘には勿
		論使えず、柄を固定するための目釘穴もない。戦に使用するためではなく、儀礼のために作られた剣であることは明白だ。

		全長2尺5寸(約74p)で、現在は国宝となっているが、1500年以上昔、百済の肖古王から日本の使者に送られたものともいわれ、
		日本書紀によると、百済の王の使者が参内しこの刀を献上したという。これは、銘文にある泰和四年(369)から3年後の372
		年の出来事になる。
		4世紀後半、東アジアの政治情勢は激変していた。中国は小国乱立状態となり、その影響で高句麗が朝鮮半島を南下、新羅を百済を
		脅かす毎日だった。百済は倭国と結んで、高句麗に対抗しようとした。日本書紀によると、367〜371年にかけ、日本は軍隊を
		派遣し、任那七県を新羅から取り戻し、百済に与えたとある。「七支刀は、そのお礼として贈られてきたのではないか」というのが、
		一般的な見方のようである。
		刀身の異様な形だけでなく、七支刀は金象嵌の銘文でも知られている。象嵌された文字は表面に34字、裏面は29字。現代語訳に
		すると、大意以下のようになる。

		1案。
		〔表〕泰和(たいわ)四年五月一六日、丙午の日の日中、鍛えに鍛えた鉄でこの刀をつくった。この剣には、敵を撃ち破る霊力が備
		   わっている。これを献上する。
		〔裏〕百済王は、倭王のためにかつてないすばらしい刀をつくった。この剣の霊力を後生まで伝えられん事を。

		2案。
		[表]泰和四年五月十六日の純陽日中の時に、百練の銕(鉄)の七支(枝)刀を造る。百兵を辟除し、侯王の供用とするのに宜しい。
		   某(あるいは工房)これを作る〉。
		[裏]かつてなかったこのような刀(七支刀)を、百済王の世子である奇生が聖音の故に、倭王の旨のために造った。後世に伝示せよ。

		4世紀は”謎の4世紀”とも呼ばれ、その頃の日本の姿を伝える資料はほとんどなく、いわば歴史上の空白時代といえるが、そんな
		所へ、謎を解くかもしれない「七支刀」(しちしとう)が登場した事は、学会に大きな衝撃を与えた。しかし、銘文は判読が困難な
		部分が多く、多くの解釈が出されているし、裏面字数は研究者によっては27文字とする人もいる。

		しかも、日本では百済から献上された(貰った)と考えられているこの刀は、韓国においては倭の王へ与えたものという解釈になっ
		ている。[これを献上する。]という部分は[下賜する]と訳されているのである。これは多分に民族主義的な匂いがするが、こと
		程左様に、歴史の解釈というのは、あらゆる角度・立場に立っての多角的な検討が必要であると痛感する。

 

 

 

 

百済は日本に仏教を伝えただけあって、当然仏教遺跡も多い。百済時代の古代寺院址も、多くがまだ今からの発掘を待っている。







 

 

 

 

この釜址も探して行こうとしたが、どこにあるかがわかった時は時間が無くて、結局断念した。

 

 

専(せん:左に土へんが付いている。)とはレンガの事である。大陸・半島から日本へ伝わらなかったものも多数有るが、この専も日本へは来なかった。

 





↑ 武寧王陵に安置されていた木棺。ここにも、木棺の材質が「高野槇」であるとの説明がある(英文)。

その武寧王陵から出土した宝飾品のレプリカ。 ↓ 

 

 


		昨年の「加耶・新羅の旅」もそうだったが、今回も、韓半島の古代がいかに日本の弥生・古墳時代と様相が似通っているかを痛感
		した旅だった。とくに百済と日本は日本書紀等々を見ても結びつきが強く、日本の古墳から出土する遺物の殆どはここ百済にもあ
		った。我々(日本と韓国)が同根である事はもはや明々白々である。
		民族的な利害は捨てて、今こそ、徳川幕府が願って招いた朝鮮通信使を招き入れるように、韓国民との友好を確立し真の善隣関係
		を取り戻す契機である。「WORLD-CUPの共同開催」は、大きな歴史のうねりがもたらした両国民に対する「啓示」のような気がする。


邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部 −韓国の旅・百済の旅−/chikuzen@inoues.net