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日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

景福宮 2002.10.24(木)



 


		【光化門(クァンファムン)】
		ハングルの創始者、世宗(セジョン)大王にちなんだ世宗大路の突き当たりに建つ、1395年に建てられた純韓国様式の楼門である。
		景福宮の正門で、文禄・慶長の役で焼かれた後1867年景福宮の再建と共に再建された。旧朝鮮総督府が1926年に完成したのに伴い、
		取り壊されることに決定したが、林宗悦の訴えで難を免れ、東門の北側に移された。しかし木材でできていた光化門は朝鮮戦争の
		時再び焼失し、1969年に、元の場所にコンクリート造りで復原された。他の古宮の看板は漢字で書かれているが、光化門の看板だ
		けはハングルで書かれている。




		【景福宮(キョンボックン)】
		景福宮は、1392年に「李氏朝鮮王朝」を建国した李成桂(太祖)が造営した王宮址で、1394年に王都を漢城(ソウル)に定
		めた際王宮として建てられ、1935年に完成した。韓国全域のお寺の僧侶と1万5千余りの国民を動員し、10ヵ月かけて完成した
		という。かつては12万6000坪という広大な敷地内に200棟を越す建造物が存在した。
		1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵、壬辰倭乱(文禄の役)で消失し、現在の建物は1867年に再建されたものである。太祖の時、
		390部屋で完成され、その後、更に大きく増築したが、壬辰倭乱で殆どの施設が焼かれてしまったと言う。
		1867年、高宗の父親である興宣大院君により、高宗皇帝の王宮として再建されるまでは廃虚であった。朝鮮王朝500年のシン
		ボル的宮殿で、広大な敷地の中に、宮殿内部で最も大きくて印象的な国王執務室の勤政殿と、迎賓館の役割を持ち、王族が余暇と休
		息を楽しんだ慶会楼、王族たちが個人的な宴会を開いた香遠亭などが立ち並んでいる。
		勤政殿、慶会楼、香遠亭、峨嵋山の煙突などは、昔の姿がそのまま残っており、伝統文化の特性と美しさを味わうことができる。






		景福宮は、南山、仁王山、北岳山で囲まれた風水地理上の好地であるが、1895年(高宗32年)明成皇后が景福宮内乾清宮で日本人に
		よって惨殺され(乙未(ウルミ)事変:後段参照)、その翌年の2月、俄館播遷(アグァンパチョン:高宗と太子がロシア公使館に
		避難した事件)が起こり高宗が住まいを徳寿宮に移したことで、王宮としての機能を失ってしまった。

 




		1910年に日本が韓国を併合すると、日本軍は景福宮内に朝鮮総督府の庁舎を建造するという暴挙を行った。その時の写真を見たが、
		門と門の間に石積みのどでかい建物が建っていた。その際に多くの貴重な建造物が取り壊されたり移転させられたりしたが、第二次
		大戦後景福宮の再建が図られ、国立中央博物館となっていた旧朝鮮総督府の建物は、1995年にはすべて取り壊され、現在も景福宮の
		再建は続いている。
		錦織さんは現役の商社マン時代、韓国出張の際旧国立中央博物館に来たことがあるそうで、すっかり無くなってしまった場所に立っ
		て感慨深げだった。下の写真、橋が架かっているあたりに、庭全体の敷地を使って旧朝鮮総督府が建っていた。









 



 
康寧殿。ここは1895年、日本人による閔妃暗殺の舞台となったところ。いわゆる乙未(ウルミ)事変である。


		【乙未(ウルミ)事変:閔妃暗殺事件】
		閔妃は「ミンビ」と読む。19世紀末、李氏朝鮮国王の高宗の王妃明成皇后(ミョンソン・ファンフ:1851年生まれ)である。日清戦争
		後、朝鮮をめぐる日本とロシアの微妙なパワーバランスのなかで事件は発生した。この事件は、1895年(明治28)10月8日早朝の王宮
		で起こった。首謀者は日本の朝鮮駐在公使の三浦梧楼。長州生まれで奇兵隊出身の彼は、事件当時、朝鮮にいた日本の軍人や警察官、
		民間人を指揮、景福宮内乾清宮に乱入させ、ロシア寄りとみられていた44歳の閔妃を暗殺したのである。

		日本と清は朝鮮の支配権をめぐって対立するが、ついに1894年8月1日、日清戦争へ突入する。この戦争は「日清」と名がついて
		いるが、戦争直後、実際の戦場になったのは平壌などの朝鮮半島内である。この戦争は、当時の日本の民衆達へは「義戦」と教えられ
		たが、すでに日本は朝鮮王朝の内政に口を出し、朝鮮を独立国と認めているとは言い難い状態だった。日清戦争が終わったのは、18
		95年4月、講和条約に調印が行なわれた。講和条約の中で、日本は清に朝鮮の独立や、遼東半島および台湾などの割譲を求めている。
		しかし、遼東半島の割譲は、大陸の一部を日本が所有することになり、ロシア、ドイツ、フランスからその所有を放棄することを勧告
		される。これがいわゆる「三国干渉」である。結果として日本はこれを受け入れる。そして三国の干渉に屈したことによって、日本の
		威信は失墜し、それはそのまま朝鮮内における日本勢力の後退を意味していた。 
		そんな中、1895年9月1日、駐韓公使として三浦梧楼がソウルに到着する。明成皇后暗殺の40日ほど前である。彼は公使として
		ソウルに赴任が決まった時点で、すでにミョンソン皇后暗殺を決意していた、といわれる。三国干渉をきっかけに衰えてしまった日本
		の勢力を挽回するには、実質的な朝鮮王朝の最高権力者である明成皇后殺害しかないと、三浦は考えていたのである。 
		閔妃の夫で国王の高宗は日本政府の傀儡であり、高宗の父、大院君は既に引退させられ、宮廷では閔妃が実権を握って君臨していた。

		犯人達の多くは熊本県出身者で、安達謙蔵(1864年)や済々黌を設立した佐々友房につながる者たちだった。安達は事件の年の1月、
		日本語新聞を発行する漢城新報社を京城(ソウル)に設立。三国干渉後朝鮮半島に権益拡大を図るロシアの驚異を主張していた。
		日本の穏和な外交では大国ロシアに対抗できないと叫び、日本のためには、李王朝内の親露・排日派を一掃しなければと考えていた三
		浦と安達に相通じるものがあったのであろう。そして10月7日深夜、暗殺部隊は行動を起こす。三浦自身は暗殺部隊に加わってはい
		ないが、その指示が日本公使館員たちに下された。三浦の命を受けた40数名の日本人たちは、景福宮へ侵入し、玉壷楼(康寧殿)で
		皇后を殺害した。遺体は鹿園と呼ばれる庭に運ばれ、高く積み上げた薪の上に乗せて石油をかけて焼かれたという。儒教の教えが強く
		火葬を忌み嫌う韓国人にとっては、二重三重の屈辱である。

		暗殺を指揮した三浦や実行者たちは事件後どうなったのか。事件にかかわった者たちは、「閔妃暗殺は日本の将来に大いに貢献する快
		挙である」と言ったとされる。彼らは事件後日本に召還され、軍人8人は第五師団広島軍事法廷で調べを受け、民間人48人は広島監獄
		に収監される。民間人は広島で裁判を受けたが、証拠不十分という理由で3カ月後に全員釈放された。それどころか、事件にかかわっ
		た者たちは無罪放免になって「箔をつけた」者が多いと言う。王宮乱入に参加した朝鮮人3人は「犯人」として処刑された。
		その後三浦梧楼は枢密顧問官になり、晩年まで政界に影響力を保った。安達は事件から7年後の1902年(明治35)代議士に当選し、逓
		信大臣や内務大臣を歴任。1932年(昭和7)、自ら結成した政党・国民同盟の総裁に就いた。

		景福宮内に居を構えていたロシアやアメリカの公使たちは、はっきりと事件を目撃したにもかかわらず、この事件が国際問題に発展す
		ることはなかった。諸外国も自国の権益のため沈黙したと言うことのようだ。
		日本と日本人が100年ほど前、隣国の韓国でいかに悪逆無道な事件を起こしたか。この暗殺事件を今日、どれほどの日本人が知っている
		事だろうか。日本人は重苦しい閔妃暗殺の事実と真剣に向き合わなければ、たぶん韓国・朝鮮の人たちと本当には分かり合えないので
		はないか。

		 <参考文献>・「閔妃暗殺」角田房子 新潮社文庫	・『韓国の歴史』アンドリュー・C・ナム ハンリム出版社


 


		* 慶会楼
		李王朝で酒宴が行われた場所である。周りを池で囲まれて、迎賓館の役割も果たしていた。現在も国慶節には政府主催のパーティー
		が行われている。水深が2m以上あるから注意!という表示があった。






		


復元中の宮殿の建物。何という名前だったかはもう忘れたが、上右が本来の姿らしい。説明板には「日帝主義により破壊された。」とあった。






		ほんとは裏側の国立民族博物館側からぐるっと廻って正面へ来たのだ。民族博物館もコースに入っていたのだが、中央博物館が1時間
		くらいしか見学できなかったので、民族博物館はカットして、全ての日程を消化し終わった後、空港へ行くまでの時間中央博物館に居
		た。合計3時間位見学できたが、私はもっと居たかった。全体の半分も見ていない。「もっと居たい」と言うと、ガイドの金さんは、
		呆れていた。「飛行機に乗り遅れますよぉ。」「この人たちは普通の観光じゃダメなんだわ。」「今頃わかったんかい!」

 

韓国のパトカーと白バイ。



		【青瓦台】
		バスは大統領府の「青瓦台」の前を通ってくれた。韓国人の車はここへは進入禁止らしいが、日本人の団体観光客に限って通り過ぎ
		ながら見学することが許されている。警戒厳重で、30mおき位に警官が立っている。日本みたいにだらんと立っているのではなく、
		キリッと直立不動である。「北」の脅威は相当なものだ。韓国民にとっては、観光で近づくなど考えられない場所なのだ。以前ここ
		へ進入しようとした北からのスパイと警備陣の間で撃ち合いがあり、門の前で巻き添えをくった女子高校生が死んだ事件以来、特に
		厳しい状況だという。勿論写真撮影は禁止なので映像はない。



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