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武烈王陵 −伽耶・新羅の旅− 2001.10.12







	太宗武烈王(テジョンムヨルワン)
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	姓は金,名は春秋,廟号は太宗,諡号(贈り名)は武烈王(602−661)。新羅の第29代王。
	654年から661年の間在位し、660年唐と組んで百済を攻略。これにより百済滅亡。百済残存勢力は日本の援助を求め、日本が百済
	残存勢力と連合して攻勢に出ると新羅は唐と連合して対抗し、息子の文武王の時代に、白村江の戦いで新羅・唐連合軍が勝利して
	(663年)、日本は朝鮮半島から撤退する。この時、斉明天皇は筑紫・朝倉の宮で崩御するのである。
	武烈王は、息子の文武王が「統一新羅」を建国する(672−675年、唐と新羅軍の戦い。)基礎を造った人物とされ、外交上も唐・
	日本の間に立って柔軟に立ち回ったとされている。また、当時の先進文化であった唐の文化を積極的に受け入れ、文化的にも新羅
	の発展に尽くした人物であった。内政面では王の治世に、律令制の導入・中央集権の強化等を断行し、新羅王国を強大化した。



 






	武烈大王は、新羅王として立つ前、実は日本にも来ているのである。私はその事を全く知らず(或いは以前読んだ事があったかも
	しれないが、そうだとしても完璧に失念していた。)、「歴史の足跡」というHPを立ち上げている関東の久保田さんに掲示板で
	教えて貰った。「日本書紀」大化2年(646)の条の最後の方に、

	「9月に小徳(しょうとく)高向博士黒麻呂(たかむこのはかせくろまろ)を新羅に使わして質(むかはり)を貢(たてまつ)ら
	しむ。遂に任那の調(みつぎ)を罷(や)む。(黒麻呂、更(また)の名は玄理)」]
	という記事があり、その翌年、即ち大化3年(647)の条には、	
	「新羅が上臣大阿(まかりだろおおあさん)金春秋らを派遣して、博士小徳高向黒麻呂・小山(しょうせん)中中臣連(ちゅう
	なかとみのむらじ)押熊(おしくま)を送り届け、孔雀1羽、鸚鵡(おうむ)1羽を献上した。そして春秋を人質とした。春秋は
	容姿が美しく、よく笑った。」となっているのである。




	これは一体なんだろうか? 647年は朝鮮の「国史年表」によれば、真徳(じんとく)女王が新羅の王として立ち、金春秋はその
	宰相として既に実力者の地位にあった人物だ。日本で「大化の改新」が起きた645年前後は、朝鮮では高句麗・百済・新羅の3国
	が覇権を争って戦乱の時代に突入しようとしている時期である。そんな時期に、あの日本書紀の記事は何を語っているのか。




	日本の史学会では、おそらくこれは事実だろうと言う見方が一般的で、以下の井上光貞氏の意見などはその代表であろう。

	【小学館「日本の歴史」第3巻「飛鳥の朝廷」】
	そのころ新羅の善徳女王は高句麗、とくに百済の侵攻に苦しみ、唐の太宗と結んで高句麗征討に一役買っていた。改新政府のブ
	レイン高向玄理は、このとき新羅に行って、(1).新羅が人質を貢することと、(2).任那の調(みつぎ)をやめることを取
	り決めたのである。任那の調をやめるというのは、最近鬼頭清明氏が指摘しているように、旧任那の四邑(ゆう)がすでに百済
	に侵されており、貢調の責めを百済におわせてきた事実と関係あるもので、年来の任那の調の問題をここに放棄して、百済・新
	羅間のこの種の争いから手を引いたことを意味するものであろう。そのことのかわりに、日本は人質の貢進を新羅に取り付けた
	のである。
		
 


	これに対し、「日本の中の朝鮮文化」シリーズで著名な小説家・古代史家の金達寿氏は、「日本古代史と朝鮮文化:講談社学術
	文庫」のなかで反論している。「新羅がどうして何の理由もなく、まだ律令国家ともなっていない、いわゆる「大化の改新」を
	おこなったばかりの日本に対して、そのような人質を差し出さなくてはならなかったのか。」と述べ、日本の歴史家達の見解を
	非難している。また同書のなかで、南朝鮮、韓国の歴史学者文定昌氏の「日本上古史」の中に書かれた「大化の改新」に関する
	部分を、韓国における状況の反映として紹介する。




	「日本上古史」文定昌
	孝徳王朝はこれよりただちに、日本有史以来はじめての年号を定めて大化とし、法制・官制、その他の文物制度を新羅、唐のそ
	れを再販的に移植したのであるが、この事実は「日本書紀」にも記録されているので、日本の史家たちはこれを大化の改新と言
	っている。(注:新羅は法興王七年(520)に律令を制定して公服を定めたが、これは中国が唐となる98年前の事であった、)
	このころ新羅は善徳女王が死んで、真徳女王が立ち、真徳女王はその年号を「大和」とした。そして、金春秋がその実権を握る
	ことになった。このとき、金春秋は倭(やまと)から来ていた高向玄理(たかむくのくろまろ)を帯同して倭国に乗り込み、進
	行中の大化の改新に拍車をかけて、倭国の名を新羅の年号「大和」としたものであるが、これが日本列島内に「大和国」という
	ものの生まれたはじめであった。


	金達寿氏は、上記の意見に対してはさすがに「わたしにはわかりませんが、・・・」とコメントしている。しかし大化の改新そ
	のものは、土着していた新羅系渡来人が中心になって引き起こしたもので、母国の新羅がそれを後押ししたものであろうとする。
	そして、金春秋も実際その目的で日本へ来ていたであろうとし、大化の改新は高向玄理ら渡来人が青写真を引いたクーデターだ
	ったと結論づけるのである。

 


	今となっては、果たして真相は奈辺にあるのか誰にもわかりはしない。それこそタイムマシンで過去へでも行かない限り、実際
	の所は確かめようもない。しかしこの時期、渡来人達が日本の形成に多大の貢献と指導力を発揮したであろう事は容易に想像し
	うる。現代日本人のDNA調査で、韓国人に一番近い人々は近畿圏に集中しているという事実を見ても、多くの渡来人達が日本
	の古代国家の成立に大きく関わっていたのは間違いない。
	
		
 


	王陵は仙桃山麓にあり、周囲は112m、高さ11m、直径37mの円形墳墓で、入口の門をくぐると新羅彫刻の傑作といわれる亀趺
	(きふ)があり、「太宗武烈大王之碑」という碑を背中に乗せている。亀の背に碑文がのる形式は東アジア各地で見られ、日光
	に昭和11年建立された「東照公遺訓碑」もこの武烈王碑をモデルにしている。亀扶レリーフの絵は、2匹の龍が足で玉を支えて
	いる図案になっている。



 



この王陵は、数ある新羅王陵のなかでも、被葬者を新羅第29代の武烈王と特定できるただひとつの王陵である。






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