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福泉洞遺跡・博物館 −伽耶・新羅の旅− 2001.10.12








【福泉洞古墳群】

	福泉洞古墳群は、韓国慶尚南道釜山廣域市東來區福泉洞に所在する。礼安里遺跡とほぼ同時代、4紀初頭から7世紀代にかけて
	営まれた古墳群である。長さ約700m、幅80−100mのなだらかな丘陵上に、古墳約100基が集中している。




	この一帯は金官伽耶の中心地と考えられ、この古墳群もこの地域を支配していた権力者達の墓だろうと考えられている。古墳
	群からは、日本列島の古墳群から出土する遺物の源流になると考えられる遺物が多数出土している。須恵器、馬具などがそれ
	で、特に1969年出土した、馬冑と呼ばれる馬の顔に付ける冑は、日本でも和歌山県の大谷古墳、埼玉県将軍山古墳の2例があ
	り、その形式、材質は同じではないかとされている。




	馬冑は中国大陸・朝鮮半島においても出土例が非常に少ない馬具の一つである。製作が非常に難しい事と、その為に所有者が
	限られる事などが推測されている。現在までに実物の馬冑が出土したところは、韓国の場合加耶を中心とした嶺南地方だけで
	ある。東北アジアに実物として存在する15点のうち12点がここにある。早くから騎乗文化が栄えていたと思われる高句麗にお
	いては、壁画の戦闘図に描かれているので、おそらく常習の用具として用いられていたと推測できるが、高句麗からは未だ出
	土していない。騎乗文化の源流地とされる中国東北地方においても、現在のところ「朝陽十二台郷磚廠88M1号墳」出土の馬冑
	1点の出土が報告されているのみである。日本では、大谷古墳と埼玉将軍山古墳の2例のみで、1998年に、慶尚南道金海市の
	杜谷古墳群から1点出土し、総計16点となった。





 

 


	また、日本では4世紀の頃も伽耶から鉄を輸入していた事が確認されている。しかし、伽耶土器系統の須恵器が日本で生産され
	る5世紀頃には、日本は自ら鉄生産を始めるようになる。しかも、日本で発掘された鉄板は、伽耶の鉄板と全く同じ形態を持っ
	ている。前述の武具・馬具も伽耶と同じ形式を持っており、日本の古墳から出土した遺物に類似するものを、「福泉洞博物館」
	の陳列品に求めようとすると、夥しい数に上る。

 

 

 

 




■発掘風景




	こういう事実は、古墳時代特に4世紀後半から5世紀前半にかけて、日本列島と朝鮮半島南部地域との関係が、単に交流とよ
	ぶようなものではなく、何か劇的な文明伝来を示しているのは明らかである。福泉洞古墳からは、日本の土器も数点発掘され
	ている事から、日本史学界では任那が伽耶を支配していたと見る見方もあるが、それを証明する程の土器の数ではない。むし
	ろ、日本全国の古墳から出土する須恵器やその他の遺物を見ると、伽耶の先進文化が大量に日本列島へ持ち込まれ、日本古代
	文化の根はまさしく伽耶にある事が見て取れるのである。
	韓国で日本系土器が見つかっているのは福泉洞古墳群以外にも、東莱(トンネ)貝塚など、釜山市周辺を中心に十数遺跡ある
	が、いずれにしても、韓国で出土する古代日本の土器研究が始まったのは1980年代後半からであり、その研究はまだ今からと
	言ってもいい。日本史学界には土器については既に膨大で緻密な研究蓄積があるので、日韓の学術調査協力による今後の研究
	成果に期待したい。

 


	高層マンション群を初めとする人口400万人の市街地に囲まれた大規模な古墳群は、現在公園として整備され、全面芝生に覆
	われ、ほぼ中央に古墳そのものを保存した覆い屋のドームがある。日本ではよく見られる施設だが、韓国では新しい試みの
	ようだ。その他の古墳おのおのは、低い植え込みで木槨墓などの位置が復元されている。長さ約700mの古墳群が終わる辺りに、
	「福泉洞古墳博物館」が建っている。

 





【福泉洞古墳博物館】






	古墳群に近接して建つ釜山市立博物館福泉分館には、馬具や須恵器など福泉洞古墳群から出土した豊富な遺物が収められている。
	日本で出土する伽耶(かや)の遺物や日本に起源を持つとみられる土器なども展示されている。チョンさんが頼むと、日本語の
	分かる若いお姉ちゃんの学芸員が案内してくれるという。撮影禁止なのでここで展示品の内容はお伝えできないが、素晴らしい
	展示品の数々だった。
	驚くことに、日本の古墳から出土する装飾品や土器、武具、馬具と同じモノがずらりと並んでいる。やっぱり、そうだったのだ!
	我が国の古墳を築造したのは、ここから来た人達なのだ。

 


	それにしても装飾品の、金を使った王冠や首飾り耳飾りなどの艶やかなことはどうだろう。日本の古墳出土品には見られない
	ような複雑な装飾を施したイアリングなどは、金細工の技術が当時相当高かったことを示している。

 


	また日本の土器がここから出土していると言うことは、日本からもここへ渡ってきていた、或いは、両地方の民族は全く同じ
	民族だった可能性も大いにある。金海市にある大成洞古墳群(3−5世紀)でも日本系土器が出土しているし、ここからは1990
	年から続く調査で筒形銅器16点、巴形銅器6点、碧玉製石製品15点など日本列島系遺物が大量に出土した。金官伽耶(狗
	邪韓国・伽耶)の王と王族の墓域ではないかとされており、倭との密接な交渉を裏付けている。

 


	さらに、韓国では取れない、日本の沖縄でだけ採取できる貝で造った装飾品や生活具(杓子)も、韓国では出土している。
	近年、韓国での発掘調査が進んでその研究成果が蓄積され、日韓の遺物を比較研究できる状況になってきたとの事なので、
	今後の研究に大いに期待が持てる。





	古代史の上では、日本で鉄製武器を使った勢力が最初の統一国家を建設したと考えられているが、しかしこのような鉄製品
	が日本で生産され始めた5世紀を前後して、金官伽耶の王達の墓が金海から消えてしまう点が指摘されている。大きな戦い
	の記録も無いく、金官伽耶の滅亡と、北九州地方、山陰地方(特に出雲を中心とした地方)への突然の製鉄技術の移入。
	何かぼんやりと大きな流れが見えてくる。
	4世紀末、伽耶は百済と同盟して高句麗と戦っている。また洛東江流域では台頭する新羅による緊張感が諸国を支配してい
	た。このような状況で、5世紀には日本で須恵器と鉄が生産され始め、同時に金海では王たちの墓が消えてしまう。
	韓半島南部の多くの地方で支配者達の墳墓が営まれ、伽耶の滅亡も明確な歴史的事実となっているのに、金海地域には、王
	墓と見られる支配者層の墓群が確認されないのである。

	【韓国学界の定説では、伽耶人の日本移住は組織的な大規模集団移住ではなく、個人的な移動であるとされている。】

 




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