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国立慶州博物館 −伽耶・新羅の旅− 2001.10.13









		「韓国の歴史遺跡 新羅文化圏」

		新羅は紀元前57年に建国され、敬順王9年(935)まで992年間存続した。特に新羅は7世紀中頃、百済、
		高句麗を次々と治めて韓国史上初めて単一民族国家を形成し華麗な文化を創造した。新羅の古墳は積
		石封土墳と石室墳に大別されるが、新羅の都の地だった慶州にはいまでも、新羅特有の積石封土墳で
		ある、五陵、武烈王陵、景哀王陵などをはじめ王陵または王陵に残っている大型古墳などが、あちこ
		ちに残っている。このような新羅の古墳の中で、金冠塚、金鈴塚、飾履塚、瑞鳳塚、壷杵塚、天馬塚、
		皇南大塚などはすでに発掘調査を終えたが、これらの古墳は5世紀頃の王陵クラスのものと推定される。

		その他にも慶州一帯の新羅文化圏には多くの古墳が残っている。特に、新羅は長い歳月の間仏教を崇
		尚し、興輪寺、皇竜寺、永興寺、芬皇寺、霊廟寺、四天王寺、黄福寺、奉徳寺、昌林寺などを建立し
		たが、現在も慶州一円にその寺刹の跡地が残っている。
		また東海岸(日本海)甘浦には感恩寺址がある。本来この寺は双塔式の伽藍として建てられ、南北の
		長さより東西の回廊の方が長く構成されている点と、金堂を中心に東西の回廊を連結する中回廊を置
		いた点が特徴的である。
		このように新羅は、仏教建築の中で仏塔を非常に重要視した。本来新羅は主に本塔を建築したが、善
		徳女王の時代、百済出身の阿非知が200人あまりの工匠を指揮して建築したものと伝えられている皇竜
		寺の九層の木塔は、13世紀高麗時代に蒙古との戦乱によって燃えてなくなってしまった。
		慶州は現在国立公園に指定されている。(2000年暮、ユネスコの世界遺産リストにも登録された。)
		韓国の他の国立公園が自然の景観をメインにしているのに比べて、この慶州国立公園は絢爛たる新羅
		文化に基盤をおいたという点が大きい特徴である。全体面積は138.1k平方mで、吐含山、南山、仙桃山、
		断石山、松華山、などをはじめとして神仙岩、南山奇岩、仏国寺、石窟庵、古墳公園、芬皇寺址など
		の多くの文化財が残っている。◆  【大韓民国観光公社発行 韓国紹介冊子より転載。】



 

 




		韓国は「石の国」である。堅い岩盤の上に街ができているようなものなので、日本に比べると耕作面積
		は極端に少ない。従って樹木も少ない。韓国では木材は貴重品である。今でも勝手に伐採したりすると
		罰せられる。また豊臣秀吉が、その少ない樹木をばさばさ切り倒したそうなので、豊臣秀吉はそういう
		面からも、韓国では極悪人である。
		反対に石の文化は発達している。とくにこの慶州では、「南山」という大岩盤山脈を持っている。今回
		は訪問できなかったが、南山には岩盤がむき出しになっている山肌に、大小無数の石仏が彫刻されて今
		も残っている。南山をすべて踏破するのは何日かかるかわからないと言われており、韓国人でも踏破し
		た人はいないのではないかと言われるほどである。

		統一新羅後隆盛をみた仏教文化の証として、国中至る所に石仏、石塔が建てられた。長い年月の果てに、
		打ち壊されたり、摩耗して省みられなくなったものも多数ある。この博物館では、そういう恐れのある
		石の建造物を収集し、外庭に展示している。
		南山にあったものもある。ずらりと並んだ石製品を見ると、「あぁ、このあたりは日本とは異質な方向
		へ行ったんだな。」という気がする。





石仏頭ほか。慶州 南山鉄瓦谷。統一新羅8ー10世紀。高さ153cm(石仏頭)。(上)



石造観音菩薩立像。慶州 狼山。統一新羅8世紀。高さ376cm。(上)



石造如来立像。月城 璋項里寺址。統一新羅8世紀。高さ250.0cm。(上)



石造仁王像隅柱石。慶州鰐洞。統一新羅9世紀。高さ84.0X幅45.0cm。(上)





獅子・孔雀文石。統一新羅時代8世紀。高さ」68.5X横300cm。(上)。




 



石造十二支神像。石塔基壇面石。慶州下邸里寺址。統一新羅9-10世紀。(上下)

 

 


		国宝。博物館中庭に置いてある、韓国最大・最美の梵鐘である聖徳大王神鐘(別名エミレの鐘)。聖徳
		大王が鐘を鋳造し始めたが、何度造ってもひび割れし旨くいかない。そのうち聖徳大王は逝去し、後を
		継いだ皇后の時代にも同じ事が起きる。占い師の助言を入れて近在の女児を生け贄にする。溶けた銅の
		海に投げ込まれた少女のおかげで鐘は完成したが、鐘を衝く度に、人身御供にされた少女の悲しい泣き
		声の音を出すという。エミレとは「エミの一言」という意味だそうである。事実だとすれば、この鐘に
		少女のすべてが溶け込んでいるのだ。







 

石槽。慶州沙正洞 興輪寺址。統一新羅8−9世紀。横392X幅177cm。(上)



 

 

亀跌。慶州 祟福寺址。統一新羅9−10世紀。高さ77X横180X縦180cm。(上)






		韓国の博物館に行って驚くのは、まばゆいばかりの金の工芸品である。「日本書紀」にも「新羅は金銀
		にあふれ目が輝く国である。」と記録され、仲哀天皇は神からその神託を受けるが信じず死んでしまう。
		代わって王妃の神功皇后が新羅を攻めると書記は記している。それはともかく、古代三韓の中では特に
		新羅に金細工が多いようである。百済からは、武寧王陵を除けば殆ど金製品は出土しないし、高句麗に
		も少ない。しかし最近伽耶からは金冠などが出土しだしたので、今後は他の地方からも出土する可能性
		はあるが、今の所圧倒的に新羅からが多い。これらの金製品の陳列をみていると、韓国人には一種の
		「金信仰」があったのではないかと思わせる。伽耶の王も「金」の卵から生まれるし、姓も「金」と名
		乗っている。少なくとも日本よりは「金」へのあこがれは強そうである。また、細工の技術も相当高度
		なものが見受けられる。これらの技術を携えた集団が、東海(日本海)を超えて山陰地方に渡ってきた
		と考えると、古代山陰(伯耆・出雲)地方に製鉄や金加工の技術が根付いているのが納得できる。



 













 













 


		この博物館には、慶州からの出土物は勿論、釜山や金海からの出土物も多く展示されている。しかし例
		によって撮影禁止なので、ごくごく一部しかお見せできないのが残念である。天馬塚からの出土品の一
		部は、「古墳公園・天馬塚」のコーナーで掲示したのでそちらをご覧いただきたいが、あの展示品もす
		べてここ慶州博物館にある。

		また、新羅1千年の遺物を展示する、韓国でも代表的な博物館であるし、新羅時代の女性用装身具を始
		めとする美術工芸品等はもとより、仏教彫刻品、先史時代の土器・石器等も時代別、品目別に展示して
		ある。その豊富な展示品の数々を眺めていると、そうか、このうちのほんの一部が日本に来ただけなん
		だ、と実感する。


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