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国立金海博物館 −伽耶・新羅の旅− 2001.10.11







	「韓国の歴史遺跡 伽耶文化圏」

	伽耶は、新羅三代儒理王19年(AD.42)から新羅真興王23年(562)に滅びるまで、韓半島南端の慶尚南・北道の西部地域に
	存在した幾つかの国の総称であるが、そのうち金海の伽耶国や高霊の大伽耶国を通常称する言葉でもある。しかし、伽耶は
	新羅、百済の勢力が弱まるにつれ、530年代に金海の金官国をはじめとする南部地域が弱まり、562年に高霊の大伽耶国が最
	終的に新羅に併合されながら完全に没落してしまった。伽耶は文献に「伽耶、伽椰」をはじめ、「狗邪、拘邪」、「加羅、
	加良、賀洛」など色々な名称で記録されている。
	前期伽耶の中心地だった洛東江下流の慶尚南道海岸地帯には今も貝塚文化と土壙墓などの前期伽耶文化の遺跡が散在してい
	る。貝塚には釜山の前の海にある朝島貝塚をはじめとして、梁山貝塚などがあるが、これらの貝塚では蠣の貝殻をはじめ数
	多くの貝殻や赤褐色・灰色系の瓦質土器及び古式陶質土器、そして鉄刀子、鉄鎌などが発掘された。

	またこの地域には、金海良洞里土壙墓など墳墓遺跡が数多く分布しているので、特に前期伽耶の中心地だった今の金海市に
	は、貝墓をはじめ青銅器時代から初期鉄器時代にいたる大成洞の大成洞古墳群をはじめとした各種遺跡群や遺物が残ってい
	る。また金海には、伽耶の始祖首露王の墓である首露王陵やその王妃陵があるが、墓の外形は円形封土墳であり、高さはお
	のおの約5mである。王陵の中には神位を奉った崇善殿、安香閣、典祀庁、祭器庫などの建物があり、今もその子孫達が陵所
	で毎年3月15日と9月15日の2度法事を行っている。
	また後期の伽耶文化の遺跡は、高霊から南方にある洛東江西側地域に広範囲に分布している。そして大伽耶の中心地だった
	高霊だけでなく、陜川、昌寧、居寧、山清、咸陽、南原など、内陸山間地方でも伽耶文化の遺跡が残っている。例えば、高
	霊の池山洞古墳群、昌寧の校洞古墳群、陜川の三嘉古墳群、南原の月山里古墳群などはその代表的な遺跡群に該当する。
	これらの古墳群では、有蓋高坏、有蓋長頸壷などが出土した。また後期古墳群から出てきた鉄製遺物としては、鉄刀子、鉄
	鎌太刀、鉄矛などの武器類や馬具、甲冑、装身具などがある。

	ところで、伽耶の大型古墳群の周囲にはほとんど例外なく山城など、大きな城郭が築造されている。たとえば咸安の末山里
	古墳群には城山山城、蓬山山城などが築造されており、高霊の池山洞古墳群の場合にも主山の山頂に主山山城があり、また
	その廻りには望山山城など、伽耶時代の山城がある。一方、大伽耶の都の地だった高霊邑には大伽耶国の城址や歴代の王が
	飲み水として使った王井が残っている。現在、高霊ではむかし高霊が大伽耶の都だった事を偲んで、大伽耶出身の楽聖干勒
	を追慕するための干勒追慕祭と平行して毎年大伽耶文化祭を開いている。◆

	【大韓民国観光公社発行 韓国紹介冊子より転載。】





 

	上は、伝金海退来里出土の短甲。高さ64.8cm。4世紀頃の製品と推定される。その変わったデザインで有名。

	<短甲(伝 金海 退来里,4世紀,高さ 64.8cm )>
	古代の戦士が相手の攻撃から身を守るために着用した武具で,最初は木や革に漆を塗って堅固にしたが,人々が鉄を扱うこ
	とができるようになると鉄が主要な材料となった。短甲は魚の鱗のように小札が綴られたものと幅広い鉄板を相互に連結さ
	せたものがある。短甲の製作法には数種類があり,鉄板を革で綴ったり鋲で固定する方法がある。その他に鉄板の形態によ
	って方形板,長方形板,三角板などに区分される。金海退来里から出土したと伝えられるこの短甲は長い三角形の鉄板を鋲
	で個体したもので胸と背中に渦巻状の鉄板を取り付けており,鉄板の間には鳥の羽状の鉄板を差し込んで華麗に装飾した。 



 

 

この辺りの遺物は、北九州の博物館で見るものと同じである。福岡市博物館にも佐賀博物館にも菜畑縄文館にも同じものがある。



 





この鉄の塊は今で言う「金の延べ棒」に相当する、財力の証である。日本の古墳からも出土している。




	(金海 大成洞2号墓) 

	『三国志』魏書東夷伝の 「国出鉄,韓倭皆従取之,諸市買皆用鉄,如中国用鉄,又以供給二郡」 (国で鉄が取れるので韓
	・・倭が皆とりに来る,市場では物品の売買に鉄を用い,中国で貨幣を用いるのに似る,そして二郡に供給する)という記
	録をみると弁韓と伽耶では鉄が貨幣のような機能を持っていたことが分かる。こうした記録を裏付けるのが伽耶古墳から出
	土した鉄である。






 

炉形土器(金海 大成洞3号墓,4世紀,高さ 28.5cm ,口径 41.5cm )>

	今日用いられる火鉢と形態が似ることから命名されたもので,前期伽耶を主導した金官伽耶の代表的な土器である。紀元後200
	年頃から 400年頃まで継続して製作され,最初は灰白色の瓦質土器であったが,次第に土器製作技術が発達し青灰色の堅微な
	硬質土器に替わっていった。土器の大きさや文様も,最初は小型で肩部分に斜格子文が施文されたが,硬質土器へ変化するに
	つれ大型化し三角文・半円形文など多様な文様が土器の表面を飾った。


	<鳥文青銅器(固城 東外洞,4世紀,長さ 8.9cm ,幅 6.4cm )>

	長さが 8.6cm の小さな盾形の鳥文青銅器である。左右面に蕨手文が刻まれた突出部があり,上面には円形環7個がとりつけら
	れた。後面には文様が無い。前面は大きく上下2つの部分にわかれ上部には手の平模様があり,下部には二羽の鳥が左右対称に
	刻まれている。そして手の平模様の上部分には数羽の鳥が左右対称に表現された。青銅器の上面に環があることから吊り下げて
	用いたとみられる。祭祀のような行事に使用されたのだろう。 

 

筒形器台(陝川 渓堤 Ka-B 号墓,5世紀,高さ 68.5cm ,口径 26.8cm )>

	筒形器台は新羅・百済・伽耶の各地域で出土し,各地域ごとに特徴的な形態がある。土器をのせる用途で公式的な行事に限
	定され使用されたとみられる。伽耶地域では早くから単純素朴な形態の筒形器台が製作され,のちに大伽耶,小伽耶,阿羅
	伽耶で地域ごとに特徴ある器台がつくられた。写真の筒形器台は大伽耶と関連する地域で多く出土するもので,筒形器台の
	胴部に蛇状の粘土紐を貼り付けた装飾が特徴である。 


	<馬冑(陝川 玉田 M3号墓,5世紀,長さ 49.5cm )>

	戦士が敵の攻撃から体を保護する武具には鎧と冑があるが,戦闘に動員された馬を保護する武具として馬冑と馬甲がある。
	馬冑は馬の頭部を保護するためのもので最初は革のようなものでつくられたが,後には鉄板に替わった。馬甲は馬の胴体を
	保護するためのものである。高句麗古墳壁画から馬冑と馬甲の存在を知ることができるが,実物は伽耶古墳から出土してい
	る。馬甲は咸安道項里古墳群から1具が出土し,馬冑は金海大成洞古墳群,陝川玉田古墳群など主に伽耶地域から出土する。 

 

単鳳環頭大刀(陝川 玉田M3号墓,5世紀,長さ 113.1cm )>

	環頭大刀は最初は実用性が重視され単純な形状であったが,次第に社会的地位や身分を象徴するものに変わっていった。鞘や
	柄部分は金や銀で装飾され,鳳凰や龍など神聖な動物を文様の素材として刻み彫刻した。文様の構成は,鳳凰と龍が共存,鳳
	凰のみ,龍のみなど多様である。こうした文様構成の違いは環頭大刀をもつ人物の社会的地位や身分の違いを表している。 


	<水晶製頸飾り(金海 良洞里 270 号墓,三韓 3世紀>

	伽耶の墳墓からは金銀のような貴金属の代わりに,玉でつくった頸飾り・勾玉など様々な装身具が出土する。これは「三国志」 
	魏書東夷伝の 「以瓔珠為財宝,或以綴衣為飾,或以懸頸垂耳,以金銀繍為珍」 (玉を財宝とし,或いは衣服に刺し通して装
	飾し,或いは頸にかけ耳につけたが,金,銀,絹を珍しく思わなかった) という記録を証明するものである。水晶玉は 12 面
	体, 10 面体,8面体などの多面玉であり,その他に算盤玉形,円形,管状などがある。水晶玉の製作には多くの労力と時間
	がかかる。製作方法は原石を一定の大きさの形態に整えてから革を使用して粗い面をきれいに磨き,最後に孔をあける。



鴨形土器(伝 蔚山 下垈,三韓 1世紀,高さ 29.5cm ,口径 29.0cm>

	鴨または鳥,馬,犬などの動物や家,船,車などを象った土器を異形土器と呼ぶ。このような異形土器は主に葬礼儀式で死者
	とともに墓に収められたものである。これにより死後も生前と同じ生活をするという信仰と死者の霊魂を導くという信仰の存
	在を知ることができる。特に弁韓時代の鴨形土器は写実的に製作されており,当時の生活の様子を記録した 『三国志』 魏書
	東夷伝には 「以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚」 (葬礼に大きな鳥の羽を使用し,これは死者が飛んでいくことができるよ
	うにするためだ) と記録されていて鴨形土器が死者の霊魂を別の世界に導くためにつくられたことが分かる。 



この辺りの古墳時代(日本)の発掘品は、そのまま日本の博物館に持ってきても完全に同一である。驚くべき同質性と言える。

 



 

博物館のすぐそばを発掘していた。誰もいず、何の跡なのか解らなかったが、チョンさんによると「古墳ですね。」との事。

 

 


	上は、騎馬人物土器。三国時代伽羅。出土地は不明だが、その特異なデザインの故に伽羅(伽耶)のシンボル的土器。
	人物背中の大きな漏斗型のものは、実際に騎馬についていたものなのかどうかわかっていない。騎馬像土器に水差しをくっつ
	けただけのものだろうという意見が一般的なようだが、いや何か実際使っていたモノだと論議が続いている。金海博物館のシ
	ンボルとして、博物館へ曲がる交差点の真ん中に、大きなレプリカが立っている。
	上右の埴輪は、慶州仏国寺の売店で、やり手の婆さまに買わされた。4,500円。若いお姉ちゃんが負けてくれそうだったが、こ
	の婆さんが側に来て、「あ、ダメ。これはまけられない。」



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