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首露王陵 −伽耶・新羅の旅− 2001.10.11





	【首露王陵】

	3世紀後半の『三国志』魏書東夷伝韓条では狗邪国、倭人条では狗邪韓国、その後日本では任那とも呼ばれる国が、韓半島南
	部にある。金海を中心に存続した6伽耶の一つ「金官伽耶」(賀洛国)である。高麗朝(1280年代)に僧一然が編纂した『三
	国遺事』の中にその名前があらわれ、大伽耶または本伽耶、あるいは南伽耶とも呼ばれた。



 




	魏書東夷伝倭人条には、魏の使者は帯方郡を出発して朝鮮半島の西海岸を南下し、南海岸の「狗邪韓国」に至る。さらに一海
	を渡って対馬国に至り、更に大海を渡って壱岐、松浦と経由して邪馬台国へ至る。狗邪韓国を現在の金海地域とする見方は、
	いわば定説となっている。




	この国の建国神話は日本の天孫降臨とよく似ており、「亀旨峰(クジボン)」という山に6個の卵が降りてきて、卵から生ま
	れた王たちは、それぞれ6伽耶の王になったというもので、その最初がこの「首露王」なのである。亀旨峰という名前も、古
	事記にいう「久士布流岳」(くじふるだけ)と似ていて、その類似性に注目する学者も大勢いる。なお、首露王は金の卵から
	生まれたというので、姓を「金」と名乗ったとされている。




	「賀洛国」創世の卵生神話やその年代(第1代42〜199年 首露王)については、日本同様そのまま史実とは認めがたいが、首
	露王が降臨したとされる後漢建武18年(AD42)あたりの時期から、この地域に鉄器文化の大普及をみるという点は注目に値す
	る。外部からの支配者集団が移入してきた事実を強く示唆していると思われる。韓国内では、最近の考古学の成果から伽耶の
	建国時期は遅くとも3世紀頃との意見が台頭して来ており、これは馬韓・辰韓・弁韓の「三韓時代」にあたる。

 


							慶尚南道金海の、金首露王陵入り口の門。日本の鳥居を思わせる。



 


	金官伽耶は、韓半島南部の鉄生産拠点として繁栄し、絢爛たる伽耶文化を開花させた。その影響力は洛東江支流の奥深くまで
	及び、他伽耶諸国のリーダー格(宗主国)に浮上する。ここで造られたと考えられる鉄製武具・鉄挺などはこの後訪れた「福
	泉洞遺跡」からも発見されている。やがて伽耶は百済の影響下に入り、高句麗と百済の関係悪化に呼応して親新羅政策をとっ
	たりするが、結局は新羅に攻撃されて、第10代仇衡王が532年に新羅に降伏して、490年間の金官伽耶は消滅する。






	首露王はその姓は「金」であり、今もその一門と自称する金一族によって、毎年3月15日と9月15日に法要が営まれている。
	陵の廻りにはその為の建物が数軒建てられており、その内の一つには、一門の由緒と系図を書き記した百科事典のような分厚
	い系図本がずらりと並べられている。同じ「金」姓でも、ここに記載のない家系は一門ではなく、金姓どうしで結婚もできる。
	韓国では、一門の同姓どうしは法律で結婚できない。他門であれば同姓でも結婚が許されている。また、姓は異なっても、同
	門から派生しているとされる姓とは結婚できないのである。今日でも、この法律による悲喜劇は多いという。法律廃止の運動
	もあるそうだが、今の所現状維持派のほうが多数を占めているとの事である。

 
上がその「金家」家系図を保存する修道館で、本棚に収まっているのが家系図である。ぶ厚い本になっているようだ。



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