数ヶ月前この旅を企画したときは、倶楽部メンバー10名くらいが行くことになっていたが、日が迫ってくるにつれ、一人欠け
二人欠けしてとうとう5人になってしまった。アメリカのテロ騒ぎの後、海外旅行はますます値下げに拍車がかかって、NY
4泊5日がなんと39,800円というようなツアーまで出現してしまった。旅行業界の利益構造だけはどう考えてもわからない。
超薄利多売なのだろう。
旅行社が企画している「韓国ツアー」に参加すれば、我々もずいぶん安く行けたのではないかと思うが、当初はほとんど観光
客は行かないような所ばかりを廻る予定だったので、ずいぶん高い旅行についてしまった。前もって詳しい計画書を提示して
いなかったので、目論んだ小さな遺跡にはほとんど廻れず、結果的には一般ツアーとあまり変わらないものになってしまった
感もある。
しかしながら、釜山も慶州もホテルは超一流だったし、時間もガイドさんが自由にアレンジしてくれて、気楽に歴史散策がで
きたのではないだろうか。通常のツアーだと、博物館などは 3,40分すればみんなゾロゾロ出てくるらしいが、我々は1時間
たっても出てこないので、ガイドの張(チョン)さんは、次から博物館巡りには2時間を当てていた。
橋本さん、錦織さんはもう何十年か前に仕事で韓国へ来たことがあるそうだが、後の3人は初めての韓国だ。「日本人の源流」
に、何処まで迫れるか、ワクワクしながら韓国の旅はスタートした。
10月11日。
韓国最初の食べ物は「石焼きビビンバ」。空港からちょっと行ったところにある、小さな、そこら辺の食堂と言った感じの店
だった。やたらおかずの皿が出てきたのには驚いた。料理研究家の奥村彪生(あやお)氏によれば、「おかず」が多ければ多
いほどご馳走という概念は、東アジア一帯に共通しているそうである。
ビビンバは日本でも何回か食べたことがあるので特にどうという事は無かったが、小皿のおかずはやたら辛かった。ガイドの
チョンさんと運転手さんは我々と一緒に座らなかったので、「ここで一緒に食べようよ」と水を向けたら、「私たちはあっち
でもっと良いものを食べますから。」とかわされたが、見たら同じモノを食べていた。
【釜山(ブサン)】
以前はプサンと呼び、英語表記もPUSANとなっていたが、ここ数年は韓国内全域で「本来の呼び名に戻そう。」という機運が
強く、現在の韓国での呼び方ブサン(BUSAN)を採用している。全国的に、色々な案内板から日本語が消えつつある。ハング
ル表記と英語表記の2通りになりつつあるのだ。古い遺跡や、昔から日本人が関わってきた名所・旧跡には日本語の案内も
残っているが、徐々に消えつつある。「教科書問題」などが影を落としているのだろうか。日本で最近ハングル表記が増え
てきたのと比べると対照的である。
現在、釜山は韓国第ニの都市 として400万の人口を抱え、地下鉄も走り、国際貿易港と国際空港を備えた都市 として発展を
続けており、福岡市とは海を挟んで約200kmの距離にあり飛行機でも30分で来れるため、国際観光都市としても多くの観
光客を集めている。
韓国釜山市で宿泊したホテルは「SARABONE」と言う名で、ガイドによれば、この地方が「釜山」と呼ばれる前はこう呼ばれ
ていたらしい。
ホテルはちょっと古かったが、超一級のランクである。通りを挟んで、ホテルの向かい側に龍頭山公園(ヨンドゥサンコン
ウォン)という市民の憩いの場があり、ここに高さ約120mの釜山タワーという展望台が立っている。
釜山は人口400万というだけあって、街中マンションだらけである。しかもほとんどに施工会社のマークが入っている。窓は
二重になっていて、内側と外側の窓のあいだに洗濯物を干せるスペースがあって、外から洗濯物が見えない。日本に比べる
となんとなくすっきりしているなと思っていたら、そうか、洗濯物がまったく見えないのだ。町中の様子は全く日本と変わ
らない。ビルがあって商店があって、同じように立看板がアチコチに立っている。
10月11日。
韓国最初の夜はやはり「焼き肉」だろう、と言うのでチョンさんが案内してくれた「イシイ」という日本人観光客向けの焼
き肉屋へ行く。ホテルから5分の所にあった。イヤという程肉が出てきた。焼けたのをハサミでバサバサ切ってくれたのに
は驚いた。食事の後、ホテルの廻りをうろうろし、龍頭山公園の中にある釜山タワーに登った。素晴らしい夜景に見とれて
しまう。眼下は大小の明かりによる光の洪水。昼間だと、晴れた日には対馬が望めるという。対馬とは約60kmの距離だ。
かっては対馬北部からは、博多ではなく釜山にお産に来ていたらしい。同じく晴れた日には対馬北部からも釜山が見えるら
しい。
【慶州(キョンジュ)】
紀元前57年、この地に朴赫居世(バッキョクコセ)が建てたとされる斯廬(シロ)国は4世紀後半になって付近の小国を統
合して新羅と改称。6世紀から7世紀にかけて、武烈大王、文武大王の親子コンビが日本と関係の深かった伽耶(任那)を
滅ぼし、さらには百済、高句麗を破って朝鮮半島を統一する。935年、第56代敬順(キョンスン)王のとき高麗に帰順する
まで、慶州は約1000年に渡って首都でありつづけた。
東アジアで、一つの王朝がこれほど長く一つの場所を都とした例はない。最盛期だった統一新羅時代の8−9世紀には、唐の
長安、日本の平城京と並ぶ東アジア有数の都で、絢爛豪華な宮廷文化が栄えた。
新羅王朝全盛時代、慶州は17万戸、100万人の人口がいたというが、今は30万の地方都市である。しかし、紀元前1世紀から
935年まで栄えた新羅の都、統一新羅時代の首都、慶州を求めて来る観光客は、韓国内はもとより海外からも引きもきらな
い。市内のいたる所に古墳や寺院跡等が点在し、韓国第一の観光地として有名で、慶州がコースに入っていない韓国ツアー
は無いと言って良いほどだ。街全体が世界遺産に指定され、街中の至る所に古墳が見えている。慶州は、古墳の中に街があ
る。
近年のパンフレットには、「新羅千年古都慶州」として紹介されている慶州だが、これは神話にいう「瓢箪から初代の王が
誕生した」という、紀元前1世紀あたりから数えてのことなので、日本で言う「皇紀2600年」などと同じだ。実際は新羅が
歴史上に登場してくる確かな記録では、ほぼ4世紀あたりなので、ほんとは「600年古都」とすべきかもしれないが、600〜
1000年の間新羅は一度も遷都せず、ここ慶州に都を置いたままなのである。これは東アジア全体を見回しても唯一の例で、
他にこんな国はない。必ず遷都は行っているし、甚だしいのは日本の聖武天皇のように、一代で4度も遷都した例もある。
(平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京)
街中へ入ると家並みも瓦屋根の平屋が多く、釜山のようなビルやマンション群は殆ど見かけない。落ち着いたいかにも古都
の趣があって心がなごむ。これは、政府が制限を加えて街並みを保存しているからで、京都の「街並み保存条例」と同じで
あるが、雰囲気は京都よりも奈良に近い。
市内の史跡・旧跡は殆どが歩いて見て回れる距離にあるが、文武王陵や南山は交通手段が要る。市内はバスやレンタサイク
ルもあるようだ。
10月12日
韓国2日目の夜は、慶州のコーロンホテル。出発前、韓国に5年駐在していた従兄弟に聞くと「あ、こりゃいいホテルだよ。」
と言っていた。夕食のMENUは「韓国風寄せ鍋」。食べながら舞台では韓国舞踊をやっていた。
「慶州は夜出歩くような所は何もないですよ。」と聞いていたし、このコーロン・ホテルのある場所は、近年大開発されたリ
ゾート地の中にあるので、廻りには飲屋街などは皆無で、ホテルのラウンジ・バーを覗いてみた。一昔前のキャバレー並の広
さで、バカでかかった。
フィリピン夫婦(らしい)の歌手が歌っていたので一番前のBOXに陣取ると、その内日本の歌をやってくれた。どうも、最近は
見ただけで日本人とわかるようである。長渕剛の「乾杯」やテレサ・テンの「空港」を歌ってくれたが、誰もTipsは渡してな
いようだった。
10月13日
慶州からまた釜山の「SARABONE」ホテルに戻ってきた。今夜は、さすがにみんな韓国料理には飽きたので、ガイドのチョンさん
に断って、自分たちで日本料理屋を見つけて夕食をとる事にした。チョンさんは少し抵抗していたが、あまりみんなが言うので
とうとう折れてしまった。
ホテルからチョンさんに教えて貰った繁華街を目指してあるく。釜山の夜は治安がいい。若い女の子も平気で歩いているし、日
本でよく見かけるややこしい格好をしたアンチャン達もいない。居る所には居るのだろうが、一見繁華街は安全そうに見える。
日本料理屋は3,4軒並んでいたが、一番きれいそうな所にはいった。前の店のオバチャンが、「そこがいいよ」と言うので入
ったが、またまた驚かされてしまった。我々は寿司と刺身の盛り合わせを頼んだのだが、最初に来たのはでかいマグロのあら煮
だった。他にも注文していないものが次々に出てきて、これから逃げるために日本料理屋に入ったのに、「韓国小皿のおかず」
も山ほど出てくる。
さすがに心配になって、橋本さんが「こんなもん頼んでないで」と日本語でお姉ちゃんに文句を言うと、「FREE」との事。
どうやらただらしいが、こんなものを食べてしまったら、肝心の刺身・寿司など食べられやしない。必死に食べたが大分余って
しまった。こんなおまけがつくより、もっと安くして貰ったほうがいい、とみんな言っていたが、勘定書を見てまたまた驚いた。
ビールもたらふく飲んで一人3,000円位である。なんたる安さ!
夕食後、腹ごなしに町中をうろうろして Loui Armstrong というJAZZ ラウンジに入った。我々の座ったBOXの隣に、歌い終わっ
た歌手のお姉ちゃんが座ったのには驚いた。街は夜でも賑やかである。新規開店の携帯電話SHOPでは、日本と同じ様にはでなデ
モンストレーションをやっていた。
「日本人の源流を探る旅 第一弾」も、あっという間に終わってしまった。本や話で理解していても、自分の目で確かめるのは
さすがに違った感動がある。伽耶・新羅の国を自分の目で見れたのは収穫だった。まさに「百聞は一見に如か」ない。我々の源
流はまさしくここにある。或いは、ここにもある、かもしれないが、あちこと巡っていても人や物に全く違和感がない。場所に
よっては不思議な安らぎを感じるほどである。アメリカやイギリスに行ったときには全く感じなかった感情を味わった。それは
単に、同じアジアで一時期文化を共有していた民族だからというのではなさそうだ。おそらくは、同じ民族同士が感じる遙かな
る祖先の血なのではなかろうか。
さぁ、次なる第二弾は百済だ! できれば高句麗、楽浪・帯方郡にも行ってみたいが、今のところこれは実現しそうもない。私
が生きている間に楽浪郡・帯方郡を訪ねる事ができるようになるだろうか?
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