Sound: Foll on the hill

日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

公山城 2002.10.25(金)


		【百済の古都「公州」】

		百済時代の都である。百済は初め、ソウルの近く「漢城」に建国したが、高句麗の南下によって漢城は陥落し、475年に都をソウ
		ルの南方150Kmに位置する公州(コンジュ)市「熊津城」へ移した。中心都城であった公山城は錦江(クムガン:白馬江)の南岸
		に接して天然の要害をなしていた。しかし、やがてここも高句麗の攻勢に会い、扶余へ逃れていく。「熊津城」は百済時代64年間
		にわたり都として栄え、百済の全歴史を通じて日本との関わりが深い。百済から日本へ五経博士が派遣されたり仏教が伝えられたの
		も百済からである。現在でも数多くの史跡や文化財が残っており、韓国でも屈指の歴史ある都市となっている。





 

位牌のような石柱が山門の参道にずらりと並んでいた。牧師と書いてあったが朝鮮時代に功績のあった役人や偉人の顕彰碑らしかった。

 


		【公山城】

		百済の首都が熊津(現在の公州)だった頃の宮殿で、当時は熊津城と呼ばれていたが、高麗時代以降、公山城に改められた。公州市内
		の東北、錦江橋の右側に位置したこの山城は、百済時代の土城であったものを朝鮮時代に石城に築き直したもので、百済時代土城の
		一部が山頂の東に残されている。      
		この山城は北に錦江が流れる海抜110メートルの稜線に位置した天然の要塞として、東西に約800メートル、南北に約400メートル程の
		長方形を成している。


		■場  所 : 公州市山城洞、錦城洞一帯 
		■交  通 : 公州市外バスターミナル前から市内バスで10分 
		■入場料  : 500 ウォン 
		■時  間 : 09:00〜18:00 






		公山城址へ上る。ちょっとした山を一登りして城壁の門をくぐる。もとは土累だった城壁は李王朝時代に石累に改築された。頂上の
		平坦地に城跡はあった。もう建物は残っていない。現在の公山城は朝鮮時代に修復された包谷式山城であるが、その東南側と連結す
		るように版築された土城がある。城内の西側にあたる高台の平坦な台地からは、積心石をそなえた百済の建物址や貯蔵穴などが確認
		され、一時はこの城が王宮として使用された可能性もあると言う。積心石のある建物址のうち、第1建物址は最大で、東西24m・
		南北14mである。




		城内には熊津が首都であった時期に築かれたと思われる王宮址(跡)を始め、2ヵ所の池、そして朝鮮(李王朝)時代に創建された霊
		隠寺、双樹亭や史蹟碑、南門である鎮南楼、北門の拱北楼などが残っている。











 


		見学を終えて坂を下っているとき、柿をもいでいる人にであった。私などは子供の頃よくやった、長い竹竿の先を割ってそこに柿の
		枝をはさみ、ぐるぐる回して枝ぐるみポキンと折って取る方法だが、東江さんは沖縄育ちで柿の取り方など知らないようで、頼み込
		んで取らせてもらっていた。私は福岡県生まれだが、こんな方法まで韓国と一緒なのには驚いた。柿も日本と同じ味だった。



「写真は嫌いだ。」というガイドの金(キム)さんは、逃げ回ってなかなか撮らせてくれなかった。

暮れていく公州のまち。 ↓

 



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