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日本人の源流を探る旅 第3弾! 


馬韓の旅 2004.11.20−23









	朝鮮半島は我国にとって歴史的つながりの最も深い国の1つであることは言うまでもない。朝鮮半島各地にはいろいろな国
	の興亡の歴史があり国名も変遷してきたが、半島の南半分はとりわけ我国とのつながりが深かった。

	1世紀頃、南部は馬韓・辰韓・弁韓に分かれていた。辰韓(後の新羅)は12国に分かれていた。梁書によれば辰韓には文
	字が無く木に刻み目をつけてしるしとしていた。弁韓(後の任那)も12国に分かれていた。三国志によれば弁韓の風俗は
	倭と似ていたという。
	馬韓(後の百済)は54国に分かれていた。三国志によれば馬韓は制度が整っておらず統治が行き届いていなかった。馬韓
	人は穴(土室)を掘って住み、囚人か奴婢のようで礼俗を備えていなかったという。同じ三国志が倭人の風俗は規律正しく
	盗みも訴訟も少ないと記述しているのとは対照的である。この時代まだ馬韓には文字は無かった。また三国志は、弁韓・馬
	韓人の多くに入れ墨の習慣があった事を記録している。魏志倭人伝では、入れ墨は倭人も習慣としており、弁韓と馬韓南部
	は明らかに倭と同様の文化度だったと思われる。
	三韓のうち馬韓が最も優勢で,大国で12万余戸あり,小国でも数千戸あった。総戸数も最大で10余万戸あった。住民は
	すでに定着生活に入っており,農業を行い,蚕を飼い,布を織っていた。5月の植え付けのあとや10月の収穫のあとには,
	鬼神を祭り,酒を飲み歌舞を行い予祝し,豊穣を感謝した。各国には天神を祭る主宰者が1人いて,天君と称された。小国
	には首長がおり,大首長は臣智といい,これにつぐものは邑借といった。真番郡廃止後は楽浪・帯方郡の間接的支配下にあ
	り,両郡に朝貢し,官職・印綬をもらうものが多かった。楽浪郡壊滅(313)後,帯方郡を滅ぼしたのは馬韓族とも言う。
	三韓諸族が,それぞれ政治的統合への動きを示しだすのは,中国の半島における郡県支配が弱体化した4世紀に入ってから
	のことである。




	4世紀にはいると中国では五胡十六国の動乱が起こり朝鮮への支配力が弱まり始めた。313年高句麗が南下し楽浪郡を滅
	ぼし中国の支配が決定的に弱まると馬韓や辰韓で統一の動きが起こった。4世紀中ごろ馬韓の内の一国、伯斉が馬韓を統一
	し百済を建国した。4世紀後半には中国から博士、高興を招き文字を使うようになった。384年にインド僧・マラナンダ
	によって仏教も伝わった。梁書によれば百済人も入れ墨をする者が多かったという。百済はその後も450年中国・宋から
	易書である「易林」や占トの道具を下賜され541年梁から仏法書や毛詩博士、工匠、画師を下賜されるなど中国文化の移
	植に努めた。発展が遅れた辰韓も、斯廬国が4世紀半ば辰韓を統一し新羅をたてた。文字も6世紀ごろようやく使われ始め
	た。弁韓は十数の小国に分裂したまま倭と深い関係を持ち任那と呼ばれるようになった。こうして朝鮮三国時代が始まった。 

	その後,6世紀に入ると,新羅の国力の伸長はめざましいものがあり,弁韓の地の加羅諸国は,しだいに浸食されてゆく。
	新羅法興王の時,金官加羅国王,金仇亥は新羅のもとに服属していく(532)。ついで562年,真興王代には大伽耶(高霊)
	が滅び,弁韓の地はことごとく新羅の版図内に統合されてしまった。
	「韓」が馬韓・弁韓・辰韓の「韓」に由来することは明白である。古代日本人は,「韓」の字を「カラ」と訓み,もともと
	は加羅国のみを指したが,これが最終的には「三韓」,朝鮮南部の諸国を総称するようになり,百済・新羅を含め,さらに
	は高句麗をもその対象とした朝鮮半島全域を呼ぶようになった。19世紀末にいたって,李氏朝鮮朝は清朝の宗主権下から
	離脱し,国号を朝鮮から大韓と改称し,国王高宗は,大韓帝国の皇帝に即位した(1897)。第二次世界大戦後,半島南半に
	おいて独立し,その国号を「大韓民国」と称えたのもこれに由来する。


			


	三韓時代の朝鮮半島には、馬韓、辰韓、弁韓、の三国があり、倭人も住んでいた。三国志の朝鮮半島についての記事を見て
	みると、

	韓在帯方之南、東南以海爲限、南與接、方可四千里。
	有三種一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作綿布。各有帥、大者
	自名爲臣智、其次爲邑借、散在山海間、無城郭。
	韓は帯方郡の南にあり、東南の端は海になっていて、南は倭と接している。だいたい四千里四方。馬韓、辰韓、弁韓、の三
	種類がある。辰韓は昔の辰国である。馬韓は西にある。その民は土着で、種を植え、養蚕を知り、綿布を作る。おのおの長
	としてひきいるものがあり、大いなる者は臣智と名乗り、その次は邑借と名乗る。山海の間に散在し、城郭はない。

	この時代の前後、倭人は朝鮮半島南部に散居していた。加耶地方にある貝塚からは、たくさんの日本式の土師器が出土して
	いる。生活遺蹟から出土しているのだから、倭人がそこで生活していたことは間違いがない。金海や釜山からは、出雲や北
	陸で作られた土器が多数見つかっている。また、朝鮮半島の南西部には、前方後円墳と見られる墳墓が多数分布している。
	倭の王族の墓と考えるべきか、或いはほんとに前方後円墳なのか。最近は韓国でも日本関係の遺物がたくさん出土していて、
	政治的な意図を離れた、真の意味での相互の歴史を探求しようという気運が高まっており、今後の研究が期待される。いず
	れにしても、当時倭人の国が朝鮮半島最南部にあり、三韓はその北側にあったのである。古来より朝鮮半島と日本は、「冬
	のソナタ、春のそれがし」という関係だったのも、また明白な事実である。

	




	
	上記は今から10年前の、高校の世界史の副読本((株)帝国書院「総合新世界図説15新版」1995.4.1発行)に載って
	いる「朝鮮半島の動き」である。これ以降の状況については、みなさんもうご存じの通りで、未だに状況はさほど変化し
	てはいない。雪解けムードは高まったとは言え、北朝鮮の核問題は未だ国連の査察は受け入れていないし、「拉致問題」
	の発覚による日本との関係も悪化している。日米韓の「北」に対する経済制裁を望む声も高まっているが、第二のフセイ
	ンになることを怖れて金正日は破れかぶれの行動に出るとの観測もある。

	我々は歴史探訪のために三たび韓国を訪れて、かの地のフィールドワークを通じて日本と東アジアを取り巻く大きな歴史
	のうねりを学んでいるが、このような状況を見ると、歴史を学ぶことの意義はいったい何処にあるのかと深い懐疑の念を
	抱いてしまう。長い長い抗争の歴史から、人間はいったい何を学んでいるのだろう。人類が武力を放棄する日は、いつの
	日かほんとに訪れるのだろうか。或いは人類は、ほんとにそんな日が来ることを願っているのだろうか。


	
	当初今回の旅は「済州島」と言うことになっていた。済州島も古来より倭との関係は深く、三姫神の伝説は、宗像大社の
	三姫神と結びつくものとして、過去あらゆる方面から何度も取り上げられてきた。また済州島に残る伝説の神々も、倭か
	ら来た伝承を持つものがあるなど、古来より日本列島とこの島との結びつきは強かったのである。
	しかし調べてみればみるほど、今の済州島はゴルフとカジノだらけで、遺跡・史蹟を訪ねての旅などどこを探してもあり
	そうになかったし、済州島の歴史を案内した文献や資料も探し出せなかった。そういう訳で、来年に予定している「西安
	の旅」を今年やってしまおうや、という声も高かったのだが、「日本人の源流を求めて」と銘打つからには、やはり行き
	残した韓国南西部も見ておかなければなるまい、と三度目の韓国旅行となった。

	今回の目玉としては、韓国西南部、旧馬韓の古墳と、世界遺産にもなったコインドル(支石墓)である。この地域では、
	日本特有の古墳である前方後円墳が幾つか発見された注目の地域である。しかし現在でも、ほんとに日本の前方後円墳か
	どうかの結論はでていない。今回見学した私の印象では明らかに別物だと思う。
	過去に回った慶州や公州、扶余といったところは、日本人観光客も多く、見学する場所も観光地となっているが、今回の
	訪問予定地はそれほど外国人観光客も多くない様だし、若干マニアックな古墳も幾つかあり、目的地を全て訪ねることが
	出来るか若干心配だった。例によって、事前に大阪市本町の「韓国観光公社」へ資料を探しに行った。全羅南北道の地図
	や資料が揃っており、みんな無料で貰えるのはありがたい。

	行き残したエリアとしては北東部もあるのだが、ここは山岳地帯で、韓国人でもめったに行かないそうなので、倶楽部の
	公式例会としてはおそらく、これが韓国最後の旅となるだろう。北朝鮮が開放されれば、「楽浪郡」にも行ってみたいが、
	果たして私が生きてる内に行けるかどうか?

 

関西国際空港に7:30に集合した。珍しく松ちゃんが時間通りに来て、錦織さん、杉本さんが濃霧の為すこし遅れた。

 

席のすぐ下が荷物室で、しきりにコンテナが運び込まれていた。
久々の窓際で、見慣れた海岸線を予想していたが全くアテがはずれた。上右は造成中の神戸空港。




	一昨年の大韓航空に比べると全くおそまつな食事を済ませている間に、飛行機は見慣れない土地を飛んでいる。今まで出張
	で行く瀬戸内海とはだいぶ違うし、まさかもう朝鮮半島に着くわけはないしと、だいぶ考えたが一体どこを飛んでいるのか
	皆目わからなかった。

 



そうこうしているうちに、飛行機は釜山上空に着いた(上下)。下右は金海(ギンメ)空港に着いたメンバー。

 


	後で機内誌を見るとこの飛行機は、神戸あたりから中国山地を横切って日本海へ出て、日本海で朝鮮半島へ向きを変えるコ
	ースを取っていた。見たことのない光景だったはずだ。瀬戸内海など通らないのか。てっきり福岡あたりから朝鮮へ向かう
	ものだと思っていた。しかし考えてみれば当たり前かもしれない。安全を考えれば海の上を飛んだ方が正解だろう。





全羅南道・馬韓の旅

以下が訪問先のレポートです。行程表の中にある、ツアー(XXX、XXX、・・・)の部分をクリック
してください。一日目から順番に遺跡・旧跡巡りをする事もできます。各ページの最下段にある、
真ん中の「邪馬台国大研究」のバナーをクリックしていただければこのページへ戻ってきます。
それではごゆっくりどうぞ。

2004年11月20日(土曜) 9:30発韓国釜山(プサン)空港行きJAL967便
  11:00 同空港着、ガイド朴(パク)さんお出迎え
  12:30 高速道路のサービスエリアにて海苔巻き・うどん
  13:00 ツアー(安邑城民俗村
  15:00 ツアー(順天(松広里)支石墓(コインドル)公園)
  16:00 ツアー(同上・順天支石墓公園の資料館を見る)
  19:00 割烹旅館のような料理屋にて韓定食の夕べ。眺めも良く光州一の料理店だそうだ。
  20:30 光州ヒディング・コンチネンタルホテル着。
11月21日(日曜) 8:00出発 全州(全羅北道)へ。
  ツアー(全州国立博物館
    (高敞(コーチャン)コインドル公園【世界遺産】
    (高敞邑城(コーチャン・ユージョ)
  13:00 光州にて昼食(カルビ湯)
  ツアー(光州国立博物館
    (羅州・伏岩里3号墳
  14:30 木浦(モッポ)目指して2時間のドライブ。
  19:00ホテル近くのレストランにて、ブルコギ。
  21:00 木浦・新安ビーチホテル到着。
11月22日(月曜) 8:30 ホテル出発、韓国の古墳群へ。
  ツアー(徳山里古墳・潘南古墳群・内洞里古墳群
  12;00 月出山温泉近郊にて、ビビンバとイイダコ昼食。
  ツアー(王仁博士聖跡
  15:00 時間無く、恐竜遺跡はあきらめて一路釜山を目指す。ここから4時間。
  19:30 釜山ル市内にて夕食。定番カルビ。
  21:00 釜山コモドホテル到着。
  21;30 カラオケ&ムニャムニャへ出発。杉本さんは全身マッサージへ。
11月23日(火曜) 8:00 ホテル出発
  ツアー(釜山市立博物館)    
  9:30 土産物屋に入った後、金海国際空港へ。
  12:10 関西国際空港行、JAL968便にて金海空港出発




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