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馬韓の旅 王仁博士聖跡 2004.11.21(日)







	バスは一路霊岩へと向かい、月出山麓の「王仁博士」生誕地を訪ねる。王仁廟へ向かうマイクロバスの中から眺める
	月出山。韓国にもこんな山があったとは驚きだ。まるで中国の山水画のような。



	あたり一帯はホヤホヤの工事中。駐車場から大きな鳥居の入り口までに、博士の石像と、偉業を称えたレリーフの石
	版が並んでいた。突貫工事で大きな遺跡公園にしているようであるが、そもそもここが王仁博士の誕生地というのは
	「伝」である。朴さんによると、ここが王仁博士の遺跡になったのは最近の事で、それまではこの地方のもう一人の
	儒学者(名前を忘れた)の生誕地となっていたのだそうだ。朴さんは、こういう遺跡を作るのは感心しないような事
	を言っていた。まぁ、青森にあるキリストの墓よりかはマシかもしれない。何せ、王仁博士は日本書紀にも載ってい
	る人物だし、応神天皇の息子(仁徳天皇の弟で、京都の宇治川に身を投げた菟道稚郎子)の家庭教師なのだ。
	大阪府枚方市に存在する王仁博士の墓も、今回訊ねた王仁廟も、全く伝説の域を出ていないが、渡来人が日本に文化
	を運んだ、「日韓友好のシンボル」として考えればいいのではないか。遺跡の信憑性を厳密に考証せずとも、おおら
	かに「ああ、そうかそうか。」と受け止めておけばいいのではないかと思う。





 

 




	千字文を抱えた王仁博士の石像の前で記念撮影。ここへ来たことが重要なのではなく、ここへきて、かって日本に文
	化を伝えた韓国人が居たこと、それら渡来人達のおかげで我々の文化の一部があること、ひいては韓国人も日本人も
	「人類みな兄弟」なのだ、という事に思いを馳せる。それが歴史紀行の醍醐味である。遺跡や遺物は確かにその価値
	は重要だが、それを見て何を考えるかのほうがもっと重要なのである。

 




	「こりゃ韓国人は、よっぽど日本人の文化を作ったのは我々やぞと自慢したいんやなぁ。」と呟いたら、朴さんが、
	「やっぱりそう思いますか。」と言った。









 





 

ここが資料館。

 

 





ハングルと中国語で書かれた古事記と日本書紀。こりゃおもしろい。

 

菟道稚郎子ら倭人に千字文を説く王仁博士。さすれば、後ろでいすに座っているのが応神天皇か。

 


	「百済門」を潜ると前方に「王仁廊」が見えてくる。中に王仁博士の肖像画が掛かっている。記帳ノートがあったので
	中をめくってみると、日本からの来訪者も何人かいた。敷地内の資料館には、王仁博士の出生から日本へ渡るまでの功
	績を称えた油絵が展示されていた。


	<王仁廟>

	日本書紀に記載された王仁博士の渡来に関する記事である。「応神天皇16年春2月、王仁が渡来した。太子菟道稚郎
	子は彼を師とし、諸々の典籍を学んだ。彼はすべてによく精通していた。王仁は書首らの先祖である。」
	記紀では、王仁博士は、百済から渡来し西暦405年に「千字文」と「論語」を日本に伝えた学者として記録されてい
	る。しかし韓国側には王仁博士に関する文献は一切残っておらず、記紀史料の信憑性も不確かではあるが、日本国内に
	は王仁博士の伝承に関連した遺跡も幾つか存在しているし(琵琶湖西岸には王仁という地名もある。)、徐福同様、お
	ぼろげながらなにか史実があったのだろうと匂わせる。しかし、文字が日本に伝わったのはもっと前の時代であると考
	えられるし、博士が日本に文字を伝えたわけではなさそうだ。

 


	従来韓国では、「千字文」は6世紀に中国・梁の輯興嗣が編纂したものが代表的であること、また当時の百済はソウル
	(漢城)に都があり、遠く離れた霊岩から日本に学者を派遣する事が困難であったと思われる点などから、王仁博士の生
	誕地を霊岩に比定するのには否定的な意見が多かった。しかし近年、霊岩を含む旧馬韓の領域である全羅南北道の遺跡
	の調査が進み、馬韓が、6世紀初頭まで存続しており、かつ百済に引けをとらない高度の文化を保有していたことが明
	らかになりつつある。「千宇文」には3世紀に既に中国・魏の学者により編纂されたものもあり、王仁博士は、百済建
	国以前から成立していた馬韓と日本との密接な交流を通じて日本に渡った人物であろうとする解釈もされるようになっ
	てきた。また百済の圏域において、王仁博士に関する説話や地名が伝えられてきた地域としては霊岩だけであることか
	ら、1987年に霊岩に残る王仁博士に関連する説話と地名をもとに、ここに王仁廟が造営された。それまでは、前述
	したように、朴さんによれば別の学者の聖跡だったのである。

珍島犬の間違い。

 

 



ここが王仁博士の生誕の地。大岩が生まれた家の礎石だそうで、柱を立てていた跡が岩に残っている(と言う)。



 





 

 

博士が呑んだとされる聖泉と、そこから流れる小川。(また、名前を忘れた。最近もの忘れが多いなぁ。)



 

 







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