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馬韓の旅 高敞コインドル公園 2004.11.21(日)




高敞支石墓





	全羅北道高敞(コーチャン)郡は全州市から南西に車で70km程のところで、ここの支石墓群は世界文化遺産に登録さ
	れている。高敞支石墓群は全羅北道高敞郡竹林里と道山里一帯を中心に分布する大規模な支石墓群である。分布は東西1.
	7km余りの範囲に密集して築かれており、東北アジアの支石墓変遷史を究明するのに重要な資料になり、先史時代の遺
	跡地としては希少価値である。ここの支石墓群の中に、約2500年前から約500年間、この地域を支配していた族長
	の家族墓があったと判断され、青銅器時代農事を基本にした部族を構成していたものと堆定されている。現在まで北方式
	3基、南方式251基、その他不明149基、計447基が確認されている。韓国に於いて最も大きな支石墓群集地域を
	形成している。使用されている石材には10トン未満のものから300トンを越すものまで見られ、多様な大きさの支石
	墓が確認できる。テーブル式、碁板式、地上石槨形等各種の支石墓が共存している。

	足の高い支え石の上にテーブル状の石を載せた北方式と、小型の石の上に大石が載った南方式があり、どうしてこのよう
	な墓を造ったのかは解明されていないが、日本にも同様の墓があることから、日韓で研究が進んでいる。この『高敞』、
	全羅南道の『和順』、江華島の『江華』の3カ所が世界遺産に登録されているが、規模が大きく整備が進んでいるのはこ
	の高敞支石墓群である。北方式と南方式の両方が見られ、日本語解説もあるので、見学するには高敞がベストだそうだ。 

	昨日通って来た和順の支石墓群も世界遺産であるが、ここは見逃してしまった。というのも、当初こちらから指定してい
	た最初の見学地は和順支石墓群だったのだが、朴さん側で順天コインドル公園と誤解してそっちへ案内してくれたのだ。
	案内は全部ハングルなので最初気づかず、あとで「ええー、和順じゃないのか。」と気づいたときはもう日暮れ時で、そ
	ちらを廻る時間はなかったのである。ことほどさように、この地方にはコインドル公園があちこちに点在している。
	コインドルの所在地として有名なはずである。高敞郡は東北アジアでドルメンが最も多く密集する地域で、85箇所以上
	に2000基以上あると考えられている。








この日、この地方のマラソン大会が実施されていて、通常の入り口からは入れず迂回した。その名も「コインドル・マラソン大会」



 

ここには大きく6つのコインドル密集地があり、我々は第3と第6コースを見学した。朴さんの指さす部分が第3コース。

 





 






	支石墓は、巨大な覆い石を支石で支える形の墓で、国際語であるドルメン(dolmen)はフランス・ブルターニュ地
	方の方言(ブルトン語)で、ハングルではコインドルと呼ばれる。日本語はいずれも支石墓(しせきぼ)と言う。日本の支
	石墓は、韓国の青銅器時代。日本では縄文時代から弥生時代にかけて朝鮮半島から日本にもたらされ、今でも福岡県西端
	の前原市・志登支石墓群や佐賀県北部などで見ることができる。

 

何十トンもあろうかという岩をどうやって運んだのか? またどうしてこんな大岩にしたのだろう。霊魂封じだろうか。

 


	歴史を学ぶにはいろんなアプローチがあるが、墓制を研究するのもその一つである。人間の精神というものは同時代性を
	有しており、特に古代においては、装飾品、土器、住居など、驚くほどその形状、用途が似通っている事が多い。イギリ
	スのストーンヘンジから出土している幾つかの土器は、日本の縄文土器に似ているものがあるが、これは伝播ではなく、
	同時代性である。墓制も同時代制を有しておりその成立過程を調べていくのは非常に面白いが、日本における支石墓は明
	らかに朝鮮半島からの伝播である。




	古代人はどのようにしてドルメンを作ったのかを示す想像図(高敞郡世界文化遺産案内資料より)

	案内してくれたこの世界遺産のガイドの兄ちゃんは、上の図に対して「40年の研究の結果だろうが、私はそうは思わない」
	と言っていた。何やら自分の考えを言って、朴さんが通訳してくれていたが、どうもよく分からなかった。しかし、自説を
	まくし立てるときの研究者の力説振りは、洋の東西を問わず一緒のようだ。

 

上左の、看板の間の道を登っていったところに石切場がある。あそこへ行くにはぐるーっと廻らねばならず、しぶしぶ断念した。

 



 

上の兄ちゃんがこの遺跡のガイドさん。どっかの研究者かと思ったが、ここの専門のガイドだそうだ。





以下が第6コース。民家の裏庭にコインドルがある。民家にはおばあさんが一人で住んでいる。

 

上左が、6コースから見た3コース。500mほど離れている。



 



この民家の裏にコインドルがある。

 




	世界的に、同一時代(青銅器時代・縄文弥生時代)に巨石文化があることは非常に興味深い。永久に残るモニュメントを
	建造して民族の存在を誇示しようとするものか、或いは霊魂の強さに合わせて巨石を乗せたものか、いずれにしても巨石
	に対する特別な思いがあったことは確かである。古代、巨大な支石墓を建造するには、それなりの規模の集団があったは
	ずで、採集・狩猟生活では大きな集団は支え難いと思われるから、その集団は農耕生活であったと考えるべきだろう。
	ここのコインドルは、おもに紀元前10世紀頃から作られ始め、紀元前1世紀頃まで作られたようである。 

 


	また、出土している金属器や土器などを見ると、かなりの生産力を持っていた事が見て取れるし、余剰生産力を蓄えた統
	制のとれた集団だったと考えられる。高敞に限らず多くの支石墓は山地と平地の境界付近にあり、採石所は山の上部にあ
	る。巨大な覆い石はここで岩盤から切り離されて、斜面を滑らせて墓地に運んだと見られ、上図のような方法、あるいは
	ガイドの兄ちゃんが言うような、他のなんらかの方法で支石墓に組み立てられたのだろう。そして人々は、この地で何百
	年にわたって、同様の方法で死者を葬り続けたのである。





朴さんも入れて北方式コインドルの前で記念撮影。運転手さんが写す。



 











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