楠正行(くすのきまさつら)は楠正成(くすのきまさしげ)の子で、正平三年(1348)の四条畷の戦いで高師直(こうのも ろなお)と戦って討ち死にした。一族とともにこの四条畷に埋葬されていて墓もある。
四条畷と言えば「楠(くすのき)」である。博物館の入り口にも大きな楠が立っていて、「東高野道」の道標とともに訪問 者を迎えてくれる。博物館は民家の土蔵風で、古い町並みの中に溶け込んだようにして建っている。いかにも四条畷らしく ていい。
四条畷市の各遺跡から見つかった装飾品。ガラスのビーズや金装のイヤリングは渡来人が持ってきたものか、日本で製造さ れたのかは不明である。
四条畷市は歴史の古い町です。今、私たちの生活している場所は古代人も同じように生活していました。今回の特別展は、 今から1500年前の古墳時代中頃の様子をとりあげました。当時の四条畷市は馬を飼う村でした。朝鮮半島から馬を連れてき た渡来人は最初の牧場として四条畷周辺を選びました。それも市役所周辺がその中心でした。当時の自然環境は東に飯盛山 系、西は今の国道 170号(外環状線)あたりが河内湖の水際でした。今では想像もできない事ですが、湖のほとりを馬が走 っていたのです。馬飼いのリーダー荒籠(あらこ)は馬に乗って情報収集にあたり、継体天皇の信頼を得ました。もしかす ると荒籠は四条畷の牧場で飼育の指導もしていたかもしれません。牧場で馬を飼う人、それを手伝う家族、そのような様子 を見ていただいたり、体験して楽しんでいただけたら幸いです。 この展覧会を開催するにあたり、ご協力していただいた各市および関係者の皆様に御礼を申し上げます。 四条畷市教育委員会 教育長木田喜重 【河内馬飼首(うまかいのおびと)荒籠が継体天皇の即位を導く重要な役割を果たしたことは、日本書紀に詳しい記述があ る。馬飼いが有力集団だった事がわかる。】
下左は南山下(みなみさげ)遺跡から出土の馬の埴輪。渡来系の轡(くつわ)をしている。下右は馬を運んできたと思われ る準構造船の模型。埴輪の足下に展示してあったが、このような船では1船に1頭がやっとだ。どんな思いをして馬は船に 乗っていたことだろう。
下左のBOXには馬の歯や骨などとともに職員の手書きで(と思われる)説明文がついている。設備は近代的でなくてもこの 博物館はなにか暖かいものを感じる。
はるばる大陸や半島から運んだ馬を日本で繁殖させるのは大変な作業だったに違いない。伝染病やなれない土地で馬が繁殖 しない事もあったと思われる。馬の埋葬は主人とともに古墳に殉葬されている例も多いが、馬飼いによる神への「生けにえ」 もあったものと思われる。「大化の薄葬令」と呼ばれる殉葬禁止令が出てからは、変わりに馬の埴輪や人型の人形が使われ た。
四条畷とは変わった名前だが、畷(なわて)というのは字を見てわかるように、そもそもは田んぼのあぜ道の事である。 この地方はかって条里制があり、「四条にあった田圃のあぜ道」という所から四条畷(しじょうなわて)と呼ばれた。