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五條市立博物館 奈良県五條市 2003.12.21


 


	五條市は吉野川や金剛山系山々などの自然に恵まれ、縄文前期から人々が暮らし始めたと見られるが、約4,500年前の縄文中
	期頃に本格的に五條でも縄文人の活動が始まったと考えられている。縄文中期から後期にかけて上島野遺跡・稲口遺跡などで
	集落が形成され、大量の遺物が出土している。

 


	<上島野遺跡>
	上島野遺跡は吉野川沿いの日当りの良い台地に位置し、背後には金剛山を控え、狩猟・漁労に格好な居住地であったものと
	推測できる。渦巻文土器、沈線文土器などの出土があるが、これらの土器様式は、吉野川・紀ノ川を経て和歌山・伊勢・東
	海、更には河内・京都北部の土器文化の影響を強く受けている。これらの地域との交流を物語る。五條縄文人のタンパク源
	は主としてイノシシ・シカなどの動物及びクリ・トチ・クルミ・ドングリなどの堅果類と見られるが、そのため多くの調理
	用石器類を必要とし、吉野川で採れる川原石だけでなく、大阪府・奈良県の境にある二上山のサヌカイトも必需品であった
	と考えられる。しかし五條市周辺の縄文遺跡は縄文後期末には衰退し、「宮滝」など吉野川上流の縄文集落が繁栄するよう
	になったのは、吉野川下流域における縄文人の生活に何か大きな変化が起こったものと考えられる。 

	<中遺跡>
	中遺跡は昭和30年代初頭、中町の小学校校舎を建築した際に縄文土器・弥生土器・石器類などが大量に出土し、吉野川流域の
	先史遺跡として知られていた。平成13年から14年にかけて新校舎建築に伴い本格的発掘調査が実施された。中遺跡は吉野川
	の南岸、標高約103mの河岸段丘上に位置し、発掘調査は小学校グラウンド及び周辺の水田・畑が対象とされた。調査の結果、
	縄文晩期の滋賀里W式土器・石鏃・石匙の他、弥生中期の竪穴式住居15棟をはじめ弥生全期間にわたる大量の遺物を検出して
	いる。円形住居址は直径4.5〜9mほどあり、地面を10〜45cm程度掘り下げ、床面の中央には鉢状の炉が見られる。住居址が
	5〜6棟も重なり合っており、頻繁に建替えられたことが窺える。

 


	石器類の石材は、石包丁など一部に吉野川流域の川原石もあるが、二上山産のサヌカイトが多い。石鏃のうち小型で精巧な
	モノは狩猟用で、大型の石鏃は戦闘用の武器と見られる。この他打製石剣も戦闘用と見られ、「環濠」と考え合わせると軍
	事的・社会的に緊張状態にあったことが窺える。一方大量の小型石鏃・打製石斧・石槍など狩猟用・畑作用石器の検出に見られ
	るように、五條市から吉野町にかけての吉野川流域では、水稲農耕に適した土地が少なく、稲作がほとんど受け入られてい
	ないと言える。従って稲作が伝播した弥生時代になっても、縄文時代の延長で狩猟・漁労・採集を中心とした生活形態を続け
	ていたものと考えられる。

 


	<火打野銅鐸出土地>
	所在地:五條市火打町字丸山ほか 
	銅鐸は、明治25年頃、吉野川左岸の火打集落の北北西で、標高約130mの丘陵部の畑から出土した。地表下約1mのところ
	から傾斜面と鋭角の状態で鈕部を上にして、ほぼ東西方向に斜めにして埋められていた。銅鐸は高さ約43p、底の長径22p、
	短径16p、鈕の高さ3.6pで、扁平鈕式の六区袈裟襷文で、鰭と鈕に鋸歯文や綾杉文が表現されている。この銅鐸は、周辺
	に所在する中遺跡に関係するものと見られる。

 



 


	<原遺跡>
	所在地:五條市原 
	原遺跡は、吉野川がW字形に大きく蛇行して南の方向へ流れる、その右岸西側の段丘状に所在している。昭和10年頃、遺跡
	が見つかり、昭和53年から調査が始まった。時期は、弥生中期が中心で後期のものは認められていない。これは五條市域の
	遺跡の特徴で、後期になると引ノ山遺跡などのように、丘陵上に遺跡が表れる。出土遺構としては溝や土坑があり、遺物に
	は土器、石鏃、槍先形石器、楔形石器、削器などがある。

 


	その他、五條市の弥生遺跡

	引ノ山古墳群(近内町、後期、焼土坑、土器・砥石・記号文土器、高地性集落、丘陵)
	住川墳墓群 (住川、後期・庄内、方形台状墓・土壙墓、土器・銅鏃、墓、丘陵)
	野原遺跡  (野原町小松中村ほか、中期、土器・石鏃・石小刀、集落、河岸段丘)
	原遺跡   (原町字カリウ他、晩期・中期、竪穴住居・土器棺・方形周溝墓・石器製作ピット、土器・石鏃・石庖丁・
		   打製石斧・石鎗・石鍬・削器・石器未製品、集落・墓、河岸段丘)
	火打野銅鐸出土地(火打町字丸山ほか、時期不明、埋納遺跡、尾根先端部)


	以上、解説は博物館資料によった。


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