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相澤忠洋記念館
2000.4.8(土)群馬県勢多郡新里村


	
	昔からここに来たかった。遺跡めぐりを始めてから、いつかはここに来ようと思っていた。板東平野の北の果て。九州で生
	まれ大阪で暮らしている私にとって、だだっぴろい板東平野はほんとに異質の町である。何と言っても山がない。何処まで
	行っても平野ばかり。千葉に3年住んだが一番近い山は茨城の筑波山だった。山が見えないと落ち着かない。その点ここは
	赤城山が見える。しかも林だらけ。関西には林がない。平地に木が生えている光景などは公園以外にはない。「林の中に住
	む」などというのはもう最高の贅沢のように思える。


	東武鉄道で浅草から赤城まで2時間ちょっと。赤城駅からTAXIで10分程で「相澤忠洋記念館」だ。





 

 

ここは相澤忠洋氏終焉の地である。氏が晩年精魂を傾けていた、
前期旧石器時代の「夏井戸遺跡」がある雑木林のなかに建てられている。





	
	相澤忠洋氏が我が国における旧石器文化研究のパイオニアである事は間違いない。相澤氏の「岩宿遺跡発見」までは、我が
	国には「旧石器文化」はないと思われていた。考古学者達も、縄文時代の初期である地層が終わり「関東ローム層」の赤土
	層に出会うとそこで発掘を終了していた。そこから先は掘っても何も出ないというのが定説となっていたのである。日本人
	の祖先は、日本列島が大陸と陸続きだった最後の年代、即ち縄文時代に大陸からわたってきた人々であり、彼らが住み着い
	て始めて日本に文化が芽生えたのだとされていた。しかし若干20代前半の研究者「相澤忠洋」氏にとっては、「土器を伴
	わない石器が赤土層の中にある」という事実は、これを根底から覆すものに他ならなかった。自問自答を繰り返し、彼は旧
	石器の発見に埋没した。そして「旧石器人」の存在を世に知らしめる事になる。その情熱と不屈の精神は、我々凡人にまね
	のできるものではない。凡人とは人並みの事しかしない人々を言う。相澤氏は決して「天才」では無い。「凡人」ではない
	のだ。その非凡さが偉大な仕事を成し遂げたとも言える。

 

この自転車で、ここから芹沢長介氏の自宅(東京大森)まで120kmを日帰りしたと言う。凡人はただただ呆れてしまう。

 

 

 

 







	
	今年は岩宿遺跡発見から50周年という事で記念切手も発行されている。しかし、その何処にも相澤氏の名前が無く、夫人か
	らの抗議で郵政省も解説部分に相澤氏の名前を入れた。もし誰も抗議しなかったら、郵政省は「岩宿遺跡発見者」を明治大
	学とするつもりだったのだ。どうしてこういう事になるのだろう。「岩宿遺跡」の発見者は明らかに「相澤忠洋」ではない
	か。50年経ってもまだこういう状態なのは学会の怠慢である。



郵政省が発行している「岩宿遺跡発見50年記念切手」。千恵子夫人の抗議により郵政省は、解説文に相澤の名前を加えた。





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