Music: 夜明けのスキャツト(由紀さおり)









弥生時代の大環濠集落遺跡

		平塚川添遺跡(甘木市文化財調査報告・第29集より抜粋)

		福岡県甘木市大字平塚字川添及び公役(くやく)。
		1991年8月、「平塚工業団地」造成に伴う事前調査で発見された。甘木市北部から段丘として南伸する福田台地の西側、小石原川
		の伏流水が湧水となって南流する低湿地、基盤は小石原川の氾濫原で堆積と侵食が繰り返されている。
		<時期>
		弥生時代中期前半に形成され、中期中頃に一時中断、後期になって再び形成され、多重環濠を伴って拡大発展し、古墳時代初めまで存
		続した。古墳時代初めには環濠の大半は埋没し、建物、竪穴住居が造られている。それ以降の遺物は全く出土しない。
		<主な出土青銅器類>
		銅鏃:長さ=3.6、3.15、3.1、1.8p、
		   重さ=2.7、1.3、2.1、0.45g
		   壱岐の原ノ辻遺跡出土のものなどと共通する。
		広形銅戈耳部:基部に磨耗痕がある。
		銅鏡:長宜子孫銘内向花文鏡、小型ボウ製鏡×2(内一つは、佐賀県北茂安町白壁白石遺跡出土品と同范。)
		貨泉×1
		<珪藻化石による古環境>
		環濠から採取された珪藻化石の完形殻の出現率が40%と低く、異地性珪藻化石を多くと考えられる。また、環濠堆積物上層は、沼沢
		湿地付着生種群が優勢し、陸生珪藻を比較的多く伴うこと、止水性の珪藻化石も産出する。これらのことから、弥生時代終末の環濠は、
		定常的に水没していたとは考えにくく、しばしば干上がり乾燥することもあるような状態であり、周囲の土壌が混入して埋積した可能
		性が有る。


 

 


		福岡県甘木市の「平塚川添遺跡」は、平成3年11月から本格的な発掘調査が開始された。「平塚工業団地」の造成工事によって"消滅"
		する前に調査し、記録に留めようというのが目的だった。そのため発掘現場は、最終的に平成4年12月14日からは、本格的に造成工
		事に入る予定になっていた。
		ところが、この遺跡が低地性の環濠を多重に有し、内部には多数の竪穴住居以外にも特殊な大型建物群を整然と配し、環濠内からは「弥
		生の鍬」をはじめ多くの木製品が出土するなど、弥生時代の重要な大規模遺跡であることが明らかになり、発掘成果が最終日の14日に
		合同記者発表された。以後、関係機関、土地保有者等々の協力を仰ぎ、平成6年5月「国指定史跡 平塚川添遺跡」となり、保存・復元
		事業が平成8年から開始された。



菅玉、石製勾玉、銅ぞく、銅貨、銅矛部分、鋳型片、銅鏡等。出土した鏡はすべて内行花紋鏡。

 

 








		平成13年5月、「平塚川添遺跡」は、復元された建物群や環濠を備えた「平塚川添遺跡公園」として一般公開された。
		環濠には当時(弥生後期)と同じように水が張られ、公園内には九州大学農学部井上晋助教授(植物分類生態学)の指導の元、当時の植
		生を推定再現した樹木、水生植物が植えられ、環濠内には「水すまし・ゲンゴロウ」などの水生動物も放された。実際に水まで張った大
		規模復元遺跡としては、我が国でも初めてのケースである。
		ちなみに、この遺跡のあった場所に配送センターを建てる計画だったのは、或国内飲料水メーカーだったのだが、このメーカーは此処の
		前に佐賀県の「神崎工業団地」にセンターを建築する予定だった。ところが「吉野ヶ里遺跡」の出現で、そこを放棄せざるを得なくなり、
		二番目に予定した「平塚団地」においても、同じく大規模環濠遺跡にぶち当たったのである。三番目に何処を選んだのか、気になるとこ
		ろではある。

 






平塚川添遺跡の特徴は、その幾重にも張り巡らされた環濠の規模の大きさにある。現在までに六重の環濠が確認されている。大部分、弥生時代後期に築造されたものである。環濠の断面は殆どU字形で、濠と濠の間隔は、1〜4重目までは3〜5m ほどであるが、4重目と5重目は約8mと広い。5重目と6重目は1mと狭くなっている。6重目の濠は最も規模が大きく、幅約23m、深さ2mになり、内側の掘り込みは垂直に近く、全体としてはV字形に深くなっている。
この環濠の役割は、まさしく魏志倭人伝にいうところの「倭国大乱」に備えたものとしか考えられない。外からの侵入を考えなければ、こんな環濠は不要である。環濠の中の人間が外へ出るのに不便きわまりない。それでも敢えてこれだけのものを築かねば ならなかったところに、我々は、弥生人の置かれた外敵との関係を窺い知る事ができる。







下は、建物に付随して発見されたネズミ返し。中央の穴が大人の手のひら位ある。











左は、この遺跡の地層断面。下は発見された土器群。








		内濠に囲まれた中央集落の外側に、七つの「別区画」と位置づけられた小集落が確認されている。そこからは、ガラス製菅玉、中国の
		貨銭、蛇紋岩製菅玉、多量の木製品、未使用木材などが発見されており、青銅器の鋳造工場跡と見られる遺構や倉庫と推定できる高床
		式建物跡なども発見されている。
		この遺跡の全体像はまだ判明していないが、この区画は、集落全体の工房と思われ、玉造り、木製品造り、青銅器鋳造などの作業を受
		け持っていた小集団の住居或いは作業場と考えられる。
		中央集落の一画からは、銅鏡3点と銅矛の鋳型片、砥石などが発見されており、活発な生産活動を推測できる。
		首長が住んだと考えられる「楼閣」、祭祀に用いられた「高殿」、分化した生産活動と計画・管理された保管体制などを考えると、こ
		の遺跡には実に興味深い遺構・遺物が多い事に気づく。まさしく弥生のクニを彷彿とさせるのである。




 

 

 

 

 


		上右の丸いものは、手網の枠木。網には何を用いて居たのだろう?こんな形の網は私が小さい頃まで近所にあった。
		以下も発見された木製品。スコップや鍬など、現代のものと同じ形をしているのには驚かされる。
 



下左はテーブル(机)の足。すでにテーブルがあったとは驚きである。

 










		この遺跡の最大の特徴は、水辺の低地に立地している事で、多重の環濠をめぐらせるなど、集落の防衛・維持・や生産活動(水田耕作や
		川漁等)など様々な面での工夫を凝らして「水辺の集落」を作っている事、つまり集落が「水に近い」ことである。また、集落全体が調
		査されたために弥生時代後期という、各地に「クニ」が成立する時期の、拠点的な集落社会の構造が「別区」などの遺構から推定できる
		事。更に、極めて「水に近い」立地と土質のため、木製品の多くが良好な状態で残存し、木の柱の基礎構造や建築物の構造が推定可能な
		ことも大きな特徴である。

 

 

 

 








邪馬台国大研究・ホームページ/ 甘木歴史資料館 /chikuzen@inoues.net