Music: 夜明けのスキャツト(由紀さおり)

甘木歴史資料館・その他展示物





秋月の朝鮮鐘

埋納と伝来の謎秘める   甘木歴史資料館。1996.12.14「西日本新聞」

筑前の小京都と称される秋月は、江戸時代初期に黒田氏が入部する以前の中世においては大蔵姓秋月氏の拠点であった。豊臣秀吉の九州征伐後の国替えにより秋月種長は日向高鍋へ移封される。
その秋月氏の城(館=やかた)があったとされる杉本城(のちの秋月城)の地は現在秋月中学校となっているが、その校舎改築中の1988(昭和63)年11月2日、銅製の朝鮮鐘が出土した。それは、必要最小限の穴の中に逆さまに落とし込んで慌ただしく埋められた状態であったという。
口径53a、鐘身高76.7aの上辺に竜頭と甬(旗挿)がのり、総高は100.9a。ほぼ完形の整美なプロポーションをなす優品である。重さ250`cはとてもひとりでは持てない。
日本で作られた梵鐘を和鐘というのに対して朝鮮半島でつくられたものが朝鮮鐘である。この秋月出土の朝鮮鐘は、その大きさや文様などから高麗時代(918−1392年)の早い時期、11世紀中ごろ前後に製作されたものとみられている。
胴部中央のやや下寄りには「筑前國下座郡延應寺住持自通、大壇郡丹波女比丘尼源真、永和三年丁巳十一月十五日」の37文字が三行に刻まれる。大意は、丹波氏の娘である尼僧の源真が永和三年にこの鐘を下座郡の延応寺(自通住職)へ寄進した、とされる。
銘文に見える下座郡は現在の甘木市南部にあたるが、この地域に延応寺という寺は現存しない。丹波氏は久留米高良大社座主家のそれとの関連も指摘されているが詳細は不明。永和はわが国の南北朝時代における北朝の年号であり、三年は1377年にあたる。また、出土地である 秋月はもと夜須郡に属するので、下座郡にあった延応寺から何らかの理由で秋月へ移動した事になる。

以上を整理すれば、朝鮮半島で11世紀の中ごろに作られた鐘が日本へもたらされたのち、1377年に銘が刻まれて下座郡の延応寺に寄進され、そしていつしか秋月へ移動し、さらにいつの時点かでそこに埋められ、1988年に再び我々の前に出土品として姿を現した、のであった。
日本への流入は14世紀に隆盛を極めた和冦による可能性が高く、また秋月への移動と埋納については、やはり秋月氏が関与していると思われるが、その背景など謎も多い。
現在日本国内に現存する朝鮮鐘は伝世してきたものが50個近くあり、その多くは国の重要文化財に指定されている。

「伊崎俊秋甘木歴史資料館副館長」








朝倉の三連水車
		下は朝倉町に現存する三連水車の模型。現物は今でも田んぼの中で動いている。江戸時代後期に造られたものらしいが、今でも現役で
		動いている文化財としては我が国ではここだけ。水車の直径は約2.5m程。



以下は本物の水車。平成11年秋、友人の藤田良治君が撮影。




		我が郷土の基幹となる産業は、何といっても農業だ。ほんの100年前までは日本中がそうだったのだが、今や全国でも農業立県はわずか
		しかない。食料自給率も最低で、いったん事が起こって諸外国と鎖国状態にでもなれば、日本国民の4割は餓死するというシミュレー
		ションもある。ひたすら外国とは仲良くするしかない。
		資料館の民俗のコーナーでは、農事暦と年中行事に合わせて農耕具や祭礼用具などを展示して、生活の様子をたどっている。私が子供
		の頃まで使われていた農機具なども展示してある。懐かしさの中で、日本の将来を考えてしまう。

 

上右は、天然痘予防のための種痘法を我が国で初めて成功させた(世界でもジェンナーより先に行っている。)、秋月藩医「緒方春朔」の紹介コーナー。

 





		この写真は、安川町下渕部落で、おそらく昭和20年か30年代に撮影されたと思われる「さぎっちょ」という行事の写真である。
		「さぎっちょ」は、この地方では「ほうけんぎょう」とも言うが、安川を登り詰めて小石原村の奥にある宝珠山という部落では、「鬼火
		たき」と言うそうである。「ほうけんぎょう」は甘木朝倉地方だけの方言ではなく、糸島郡とか玄海町、宗像郡などでもそう呼ぶところ
		がある。どんな字を当てるんだろうか。「さぎっちょ」は、近畿地方で言う「左義長」の事で、ちなみに広辞苑によれば、左義長とは、

		「小正月の火祭りの行事。宮中では正月の十五日および十八日に吉書(きっしょ)を焼く儀式。清涼殿の東庭で、青竹を束ねて立て、
		毬打(ぎっちょう)三個を結び、これに扇子・短冊・吉書などを添え、謡いはやしつつ焼いた。 民間では正月十四日または十五日
		(九州では六〜七日)長い竹数本を円錐状などに組み立て、正月の門松・七五三飾り(しめかざり)・書き初めなどを持ち寄って焼く。
		その火で焼いた餅を食えば、年中の病を除くと言う。」 とある。

		もともとは宮中の行事だったものが民間にも伝わっていったもののようだ。それにしても、ほうけんぎょうという言い方はいつ頃どう
		してできたものだろうか。また甘木朝倉地域の中ですら呼び名がいろいろあるのはおもしろい。
		私が子供の頃は、1月14日に鏡餅を竹筒に挟んで焼いて食べ、モグラ撃ちもやっていた。もう、もぐらなんて田舎の子でも見た事はな
		いのではなかろうか?




		以下の版画は、甘木朝倉の中学校で長いこと美術の先生をやっておられた佐野至先生の手になるもの。資料館の壁に飾ってある。私は
		直接教わった事はないが、私の弟たちは先生に美術を教わっていた。













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