Music: Smoke gets in your eyes

大英博物館 The British Museum 2000.June-July London

   






	2000年6月から7月にかけてWifeとイギリスを旅した。その際訪れた「大英博物館」をやっとメンテナンスする気になった。
	当初やりかけて、英語の案内書と辞書を見比べてメモしだしたのだが、あまりの膨大さにもう投げ出して、しかも私の英語能力
	のpoorさ加減は、かって我が社を担当していたアメリカのCoodinatorが、我が社のTOP陣に対して、「今後アメリカへよこす
	のは、MR.INOUE以上の英会話能力を持った奴にしてくれ!」と言ったほどのものなので、このHPはもう完成する事はあるまい
	と思っていたのだ。
	ところが、ある人から「大英博物館の公開はまだですか?」というmailを頂いて、この状況を報告すると、写真の羅列だけで良
	いですよ、との事なので、「それじゃ」と再開する気になったと言うわけである。
	しかし、私の世界史の知識も英会話能力に負けず劣らずpoorなので、トンチンカンな部分も相当あるのではないかと思われる。
	そこはそれ、ど素人のやることだと大目に見て頂いて、ともあれ、2年半ぶりに本邦初公開である! (2002年12月29日)

 

訪れた時はたまたまあるエントランスの工事中であった。




	大英博物館は入場料は無料である。その代わり、人々の善意に支えられているという事で、入り口に募金箱が設置されている。
	いくらでもいいから、アナタの志(こころざし)をお願いします、というわけである。博物館の運営を巡っては現在我が国でも
	議論が絶えないが、広く募金活動に意欲的な大英博物館のやりかたは、これはこれで一つの方法だろうと思う。

 


	大英博物館も、見て歩くのに1日2日では時間が足りない。それにまる一日など足が棒になって、とても見れたもんじゃない。
	ゆっくり滞在して、毎日2,3時間程、1週間くらい通い詰めたいくらいだ。結局見れたのは、エジプトとギリシャ、ミノア等
	の地中海文明だけだった。ここの東アジア・日本関係資料も見たかったんだけど、残念至極。でっぷり太った警備員のおじさん
	と立ち話をした。おじさんの話では、日本人がまずどっと押し寄せるのはエジプト・コーナーだそうだ。どうしてなのかねぇ、
	と不思議がっていた。どうしてなのかねぇ。


 



Egypt(エジプト)の歴史




	【エジプト文明】

	およそ歴史が好きな人なら、エジプトや地中海文明に興味のない人はいないだろう。長じてはいざ知らず、子供の頃や高校生の頃
	まで、ピラミッドの謎や、アトランティス大陸の滅亡物語などに胸を躍らせた人は多いと思う。最近はハリソンフォードの「イン
	ディ・ジョーンズ」や「ハンナプトラ」「ツームレイダー」といった遺跡を題材にした活劇映画もヒットしているし、ゲームにも
	同種の探検ものが勢揃いしているので、いつになっても「探検」や「冒険」というものは男どもの心をとらえて離さないもののよ
	うである。かくいう私も子供の頃は、ミイラの包帯をはがして中を見てみたいという、怖いもの見たさの「夢見る少年」だった。
	その頃からおよそ40年を経て、自分が実際にエジプトのミイラに対面するとは、想像もしていなかった。



	エジプトはアフリカ大陸の東北部に位置し、ナイル河がその国土を南から北へ流れ地中海へ注いでいる。緑地帯はナイル河の両岸
	のわずかな地帯のみであり、そのほかの地域は広大な砂漠となっており、高温で雨の少ない熱帯である。
 


	「エジプトはナイルの賜物」という有名なことばがあるが、ギリシアの歴史家ヘロドトスの著した「歴史」にそう書いてあるので、
	彼が考えた言葉として知れ渡っているが、実は新王国時代のパピルスに書かれた「ナイル讃歌」に次のような記述があるそうだ。
	「ケメトの地にある全ての命あるもの、それは、汝ハービイ(ナイル河)の贈り物なればなり。」実はエジプト人自身が、ナイル
	の恩恵を十分自覚し、また多大の感謝を捧げていたのだ。


 


	ナイル河は、毎年定期的に氾濫するため、河岸には上流から運ばれてきた肥沃な泥土の沖積層があり、灌漑も容易であった。
	このため、農耕にとっての好条件がととのっており、早くから非常に豊かな農耕社会が成立していたと考えられる。

 
	左上は、紀元前3500年頃の埋葬状態を復元(再現?)したもの。英語では Reconstructed shallow grave となっていた。
	ゲベレインで発見された成人男性の遺体で、今から5000年前に掘られた墓穴の中で急速に乾燥したため、そのま保存された。
	同年代のフリントのナイフが壷とともに埋葬されていた。体を伸ばした状態の身長は163cm。

 

	
	(Above left)Limestone stele of Rahotpe from his tomb at Maidum, It is decorated in low relief with a figure of the
	 owner before a table of offerings. Fourth Dynasty, about 2600 BC. H79cm.

	(上右)、カーデップとフェデフェルス夫婦の座像。大理石に彩色をほどこしたこの座像は、第四王朝のすぐれた作品である。
	高官カーデップは妻フェデフェルスと並んでベンチに腰掛けている。古代エジプトでは男性の肌は赤い色で、女性は日に当たって
	戸外で働いたことがないことを示すように黄色に塗り分ける習慣があった。

 


	エジプト古代史は、ヘレニズムの歴史家マネトの年代記によって、統一王朝の成立からペルシアによる征服までの26王朝が次の
	ように区分されたが、年代については今日でも異説が多く、必ずしも統一された年代観は確立していない。


 

写真を撮っていたら可愛い英国人(と思う)のお姉ちゃんがにっこり微笑んだ。どこの国でも可愛い子は可愛いねぇ。



			1 初期王朝時代(第1〜第2王朝)   BC3100〜BC2700
			2 古王国時代(第3〜第6王朝)    BC2700〜BC2200
			3 第1中間期(第7〜第10王朝)   BC2200〜BC2135
			4 中王国時代(第11〜第12王朝)  BC2135〜BC1800
			5 第2中間期(第13〜第17王朝)  BC1800〜BC1570
			6 新王国時代(第18〜第20王朝)  BC1570〜BC1090
			7 末期王朝時代(第21〜第26王朝) BC1090〜BC 525


	古王国・中王国・新王国はエジプトが統一され繁栄した時代であり、中間期は内乱や政治的な混乱で不安定な時代を言う。中王国
	時代以降が青銅器時代で、新王国時代はオリエント青銅器時代の末期にあたる。

 


	(Above right)Mummy of a youth in the intricate bandaging characteristic of the Roman Period. Over the face is a
	portrait of the deceased, executed in colored wax. From Hawara, first century AD. H1.32m.


 


	紀元前4500年前後、集落から発展した多くの独立した単位が小国家となり、それらの小国家はやがて上エジプト(エジプト南
	部のナイル河上流地方)と下エジプト(エジプト北部のナイル河下流地方)に統合され、このふたつは対立関係にあった。
	これを上エジプトのナルメル王がBC3100年ころに統一し、首都をメンフィスにおいて統一国家を建設した。エジプトの基本
	とも言うべき中央集権国家、エジプトの第1王朝である。





	上・下エジプトの統合によって、ナイル河の一貫した灌漑統制が可能となる。王室・貴族・神官などの有力者は、大衆を動員し、
	大規模な土木事業をおこして灌漑網を整備し、溜池灌漑法をおし進めた。ナイル河の航行権は政府が握り、対外活動ももっぱら政
	府の独占事業となり大規模に行われた。

 


	第2王朝のころにはシリアのゲバル(ビュブロス)に商業植民地が設けられ、スギ材やアジア各地の産物が輸入された。外海用の
	大型船も建造された。
	しかしながら、初期王朝時代の統一国家は、全国の40余りに分かれた行政区画の州(ノモス Nomos)の統制のうえにある国家で、
	まだ古王国時代のようなファラオが強大な権力を持ち完全に統合された国家ではなかった。

 


	初期王朝時代に、ヒエログリフ(聖刻文字)が使われ始め、民衆暦が生まれた。民衆暦は1年を365日とし、30日の月が12
	か月と月に属さない5日からなる。この5日間は神々の名でよばれる祭日であった。また、「人は死後復活することができる」と
	いった思想もすでにあり、出身地のティスに近いアビドスやメンフィスの西方に広がるサッカラ台地に日干しレンガを使った巨大
	な台状の墓(マスタバ墳)が造られた。これは、古王国時代の階段ピラミッドや四角錐形の巨大なピラミッドにつながっていく。

 
	(Above the left of right picture)Gilded and painted mummy mask showing the deceased richly adorned with a wide 
	selection of jewellery, including a number of a real finger-rings. Nineteenth Dynasty, about 1250 BC. H58cm.

 


	ミイラを撮していたら、日本語で背後から「わぁ、ミイラの写真撮ってる。気持ち悪く無いのかしらねぇ。」というオバ半の囁き
	が聞こえてきた。思わず反論してやろうかとも思ったが、イギリスまで来て同胞の馬鹿さかげんを糾弾しても仕方ない、と捨てお
	いた。しかし一般観光客の博物館見学というのは、こんなもんなのかな。



 

 

 

 

 


	エジプトでミイラになったのは人だけではない。特に猫は神の使者というので多くのミイラがある。レントゲンで中の骨の状態を撮
	した写真があった。アビドスで出土したローマ時代(紀元前30年頃)のネコのミイラ(写真上下段・右側)とゲイヤー・アンダー
	ソンのネコ(同)。耳や鼻に金のピアスをしている。

	(Above and Bellow right)The intricately wrapped mummy of a cat is from Abydos. Roman period, after 30 BC. H38cm.
 


 


	ピラミッドもまた歴史好きなロマンチスト達がエジプトに想いを馳せる格好の題材であるが、これまでピラミッドは古代エジプト
	人の太陽信仰と深くかかわっていると思われてきた。
	死後の世界で王が生き、ピラミッド内部の斜めの石道は天への道を指し示す、形象化した太陽信仰の現れとも言われ、「ピラミッ
	ドはファラオの墓」というのが定説であった。しかし、最近の研究では「公共事業説」が有力だそうだ。
	ナイル川が氾濫し、農地が4ヶ月間も水没してしまう時期に、農民に仕事を与えるための一大建設プロジェクトだった、というの
	である。5000年前のニューディール政策だ。

 

 




	ピラミッドの近くでワークスマンビレッジと呼ばれる小さな村落跡が発掘され、ここはそういう作業に集まってきた労働者の為の
	村だったと言う。農民達には、勿論ファラオから給料が支払われていた。人民の信仰に基づいて現人神のための奉仕として農閑期
	を利用して行われたもので、作業期間中の衣食住も保証されていたとみられている。

	エジプトの古王国時代は、第3王朝から第6王朝までで、BC2700年ころからBC2200年ころである。古王国時代にはい
	ると政権は安定し、首都メンフィス(Menphis)は、以後第6王朝まで平和と繁栄が続いた。
	第3王朝の創始者であるジェセル王(ゼセル王)は、BC2700年ころ、最初のピラミッドである階段ピラミッドを建造した。
	その大きさは日本の国会議事堂に匹敵し、世界最古の石造建造物とされている。

 
	人面有翼の獅子(上左)ニムルドのアッシュールナシルパルU世の王宮より出土。これら質感あふれる城門の彫像は「ラマッス」
	或いは「セドゥと呼ばれ、角の付いたかぶり物は神性を持つことを表していた。「彼らは3000年前に栄華を極めた民族を恐れさ
	せ、かつ導いていた。彼らが守る入り口を通って、王や神官や戦士たちが生け贄を祭壇へと運んでいった。・・・・・」(レヤード)
	紀元前865年頃。高さ3m50cm。

 
	
	対をなす獅子の巨像のうちの一方 ニムルドのイシュタル・ベリト・マテキ(国の女主人たるイシュタル)神殿の入り口アーチ
	を支えていた。前880年頃。高さ2.71m。

 


	ジェセル王に続く王たちも階段ピラミッドを造っている。第4王朝のはじめ、スネフェル王は、階段の部分を埋めて稜線が中ほど
	で折れている屈折ピラミッドを造った。これについで、四角錐形のピラミッドが生まれる。

	第4王朝時代は古王国時代の絶頂期で、一名ピラミッド時代とも呼ばれる。ギザ(ギゼー)にある有名な3つのピラミッド(クフ
	王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッド)が建てられたのは、BC2600年前後である。



ギザのピラミッド上空を飛ぶエジプト空軍機。




 

	ラムセス二世の胸像
	紀元前13世紀、ラムセス二世はエジプト最大の王として領土を拡張し、王室の名声と建築の造営に勢力をそそいだ。アブシンベル
	の神殿を造営したのもこの王である。宝冠の一部が破損している。



	古王国時代のファラオは太陽神宗教と強く結びついており、ラー神の名を自分の名に取り入れたファラオも多かった。太陽神宗団
	は勢力を増大し、王権と宗団の対立抗争が深刻化するなかで、第4王朝はその幕を閉じた。第5王朝のファラオはすべて「太陽の
	子」と称し、太陽神の神殿を造り、莫大な寄進を行った。自らのピラミッドは著しく小さくなり、ファラオの威信は衰退に向かっ
	た。ピラミッドは小さくなったけれども、第5王朝末から第6王朝にかけて、ピラミッドの内部の部屋や通路の壁にピラミッド・
	テキストが描かれるようになった。

	第6王朝になると、地方の豪族や知事が強力となって、最後には中央政府が崩壊し、エジプトは小国割拠の状態に逆転した。そして、
	領土を拡大し独自の文化を発展させてきたエジプトは、色々な異民族からの侵略を受け始める。
	リビア・エチオピア・アッシリア・ペルシャなどが進入し、そして最後に有名なアレキサンダー大王によるギリシャのプトレマイオ
	ス朝に支配され、クレオパトラ7世の死により古代エジプトは滅亡する。

 

	アメンホテプV世と思われる二重冠をかぶった王の頭部
	赤色花崗岩製。カルナックのムト神殿の近くにあるコンス神殿の前に立てられていた一対の立像のうちの片方である。第18王朝
	紀元前1390年頃。ベルツォーニが運んだ彫像の一つ。高さ2.9m。


	アメンホテプV世像(上)
	黒色花崗岩製。王は古典的なポーズと装束で表され、頭にはネメスの頭巾、顎には付け髭をつけ、短い腰布をつけている。
	この腰布には儀礼用の雄牛の尾がついており、それは脚の間からのぞいている。台座にはベルツォーニの名が刻まれている。
	第18王朝、紀元前1400年頃、テーベ出土。第18王朝のファラオ肖像彫刻の典型的な作品。19世紀の発掘隊ベルツ
	ォーニがテーベのアメンホテプ(アメノフィス)三世墓城寺院で発見したといわれる。彼の治世は新王朝の最盛期にあたり、
	その帝国の勢力権威を最大限に利用享受した王であった。テーベの西岸に王宮や神殿を次々に造営する平和的な事業に没頭
	した。


	
	ロゼッタ・ストーンの前はさすがに人だかりで、かき分けて垣間見るだけだ。でも、ナポレオンも見たのかと思うと大感激!

 

 

	ロゼッタ・ストーン
	1799年にナポレオン率いるフランス遠征軍により、デルタ西部のナイル河口付近のラシッド村(ヨーロッパではロゼッタと訛る。)
	で発見される。古代エジプト語解読の鍵となった。黒色玄武岩製で重さは762kg。碑文は、上からエジプトのヒエログリフ、その
	筆記体であるデモティック、そしてギリシャ文字と3種類の異なった文字で刻まれていた。シャンポリオンの1822年のヒエログリ
	フ解読に決定的な役割を果たした。碑文の内容は、紀元前196年、国王プトレマイオスX世エビファネスの治世9年に、メンフ
	ィスで発した法令で、褒賞、減税、特赦など王の善政をたたえるものである。フランス軍の敗北によって戦利品の一部としてイギ
	リス軍の手に渡り、大英博物館に収められた。高さ114cm。

	シャンポリオンは、上の文字「ヒエログリフ」の中の楕円形の枠に囲まれた文字が、王の名前であることを見抜き、そこから残り全て
	の文字を解読した。それまで、古代エジプト文字は解読されておらず、歴史の中の「幻の文明」だったのである。以前は、ロゼッタ
	ストーンは何の囲いもなく置かれていて、手で触れたそうだが、今はガラスケースの中に置かれている。




	現在エジプトは、残念なことに旅行者にとって安全な国とは言えないようである。97年11月17日、ルクソールでイスラム原
	理主義過激派の武装グループによる銃撃を受けて多くの観光客が死傷した。それまで危険の少ないと考えられていたエジプトだっ
	たが、じつはエジプトでは(エジプトに限らないが)以前から、観光バス襲撃や爆弾テロ事件が起きていたのである。カイロとル
	クソールの間の町にはイスラム原理主義過激派が多く住んでいる所があり、バスやタクシーを乗り継いで一人ぶらりと旅行を楽し
	むといった事は控えた方がいいだろう。旅行社のツアーでも安全とは言い切れないのだ。


	
	大英博物館は、サー・ハンススローンが国に寄贈したコレクションを収納するため、1753年英国議会法によって設立された。
	以来、議会が承認する予算によりその資金は賄われている。また大英博物館法に当初うたわれた考えの骨子と、その後補われた数
	多くの関連法は英国内の他の博物館法のモデルとなり、基礎となっている。議会すなわち国は、こうして大英博物館の創設を承認
	して、今日まで大英博物館を国の財産として守り、支援してきている。
	大英博物館は、一般市民に公開された博物館として、また法人組織として設立された博物館として世界で初めての博物館であり、
	名実ともに現在世界で最も偉大な博物館である。
	【大英博物館の舞台裏:デイヴィッド・M・ウィルソン著:中尾太郎訳:平凡社】


	大英博物館の運営をめぐっては、現在もなお緒論続出中である。収蔵物は発見された国々に返還すべきであるとか、入館料を取る
	べきであるとか、考古学者は大英博物館をエリート主義だと避難し、政府は博物館への財政支援を機会あるごとに削減し、大企業
	からの圧力に弱いと非難する人々もいる。そして大英博物館もそれらに抵抗し、釈明し、啓蒙活動に励んでいる。
	大英博物館は、確かにすばらしい収蔵品の数々を誇り、その歴史的な発掘成果である出土品の数々は、見る者を悠久の彼方へ誘い、
	人間の叡智とエネルギーに想いを至らせる。膨大な所蔵品の財産価値は計り知れず、人類の大いなる遺産であるとも言える。
	しかしそれは、かってイギリスが「大英帝国」として世界の海を席巻し、その工業力、経済力、軍事力で、古今東西、世界中の冨
	をいわば強引に奪い取ってきた海賊行為の証拠でもあるのだ。

	また、本来の所有者である国々へ返せと言う声もわからなくはないが、それらの国々は、現存する末裔たちの国々とはもう以て非
	なるものである事もまた確かなのである。今後大英博物館はどういう方向へ進めばいいのか。収蔵品はどうすればいいのか?
	それは私にはわからない。しかし好む好まざるにかかわらず、大英博物館は、今や大いなる政治的な流れの中にあることも確かで
	ある。




	【謝辞:Acknoledgement】
	 このHPの青字部分の解説は以下の文献を参照・引用させていただいた。記して謝意を表明したい。

	・大英博物館の舞台裏 The British Museum: purpose and politics デイヴィッド・M・ウイルソン著 中尾太郎訳 平凡社
	・The Collections of the BRITISH MUSEUM DAVID・M・WILSON著  British Museum PRESS発行
	・大英博物館の至宝 Treasure of the British Museum マ−ジョリィ・ケイギル著 田辺勝美 篠塚千恵子監訳 
	 British Museum PRESS とミュージアム図書の共同出版
	・Newtonアーキオ ビジュアル考古学 「約束の地 −聖書の考古学−」 編集主幹吉村作治 (株)ニュートンプレス
	・別冊サイエンス 特集考古学 文明の遺産 日本経済新聞社
	・遙かなるエジプト展 古代人の生活を探る NHKプロモーション


邪馬台国大研究・ホームページ /博物館巡り・Special Version/大英博物館