近つ飛鳥の「近つ」という意味は、大陸との本格的な窓口が難波の港に設けられた頃、難波宮からみて「近い飛鳥」という 事で、現在の大阪府南河内郡辺り一帯を言ったものである。それに対し、奈良県高市郡の明日香村を「遠つ飛鳥」という事 もあるが、通常此の辺りはただ「飛鳥」と呼ばれる。「飛鳥」に対して、当時劣らない文化を持っていたという事で「近つ 飛鳥」と呼ばれた。文献上は「古事記」に、履中天皇の弟(後の反正天皇)が難波から大和の石上神宮に参向する途中で2 泊し、その地を「近つ飛鳥」「遠つ飛鳥」と名づけたとある。
7月20日、南河内郡太子町の「王家の谷」に聖徳太子陵・諸天皇陵を訪ねた後、暑い中を歩いてこの博物館を訪ねた。 一須賀古墳群の中に立てられたコンクリートぶち抜きの近代的な博物館だが、そういう経緯を持っているので、おもに古墳 時代を取りあげた構成の博物館になっており、和泉市にある「弥生文化博物館」といいペアである。これに「縄文時代・そ れ以前」「平安期以降」の博物館があれば、大阪府立博物館としては完璧な形が出来上がる。 (もっともそんな計画があるのかどうかは知らないが。)
大阪府立近つ飛鳥博物館は大阪府南河内郡河南町の大阪府立近つ飛鳥風土記の丘にある人文科学系博物館で、エリア全体が 遺跡博物館ともいわれる陵墓・古墳の宝庫「近つ飛鳥」の中核的文化施設として、1994年に開館した。古代の国際交流と国 家の形成過程をテーマとする。博物館周辺の地域は「近つ飛鳥」と呼ばれ、多くの渡来人が住み、大陸文化の香りが漂う文 化的先進地域のひとつだった。博物館の隣には「近つ飛鳥風土記の丘」が広がっている。「風土記の丘」では40基の古墳 を整備、公開し、園路を巡りながら見学できるようになっている。博物館は、この「風土記の丘」と一体的な施設になって いる。建物は著名な建築家、安藤忠雄による設計で、古墳をイメージしたダイナミックな空間になっている。
古墳時代から飛鳥時代、東アジアの国々との交流を深めながら、日本は古代律令国家への道を歩んでいった。 第1ゾーンでは、この地で出土した、古墳の副葬品などの展示。第1ゾーンの目玉となるのは、聖徳太子の墓の実物大復原 模型。さらに仏教文化の伝来や文字の普及、土器や墓が変化していく様子などが紹介されている。 第2ゾーンでは、築造当時の仁徳陵古墳とその周囲に古墳づくりや古墳時代の生活の情景を再現した150分の1の大型模 型を中心に、4世紀から6世紀にかけての古墳時代の道具や、古墳に納められていた副葬品が展示される。展示されている 副葬品には、鏡や埴輪のほか、甲冑、武器、農耕具などの鉄製品があり、権力や富の集中があったこと、そして、それを背 景に国家が形成されていったようすが分かる。 第3ゾーンでは、文化財の保存、調査、分析に応用されている様々な科学技術やその成果を紹介。注目されるものとして、 14年の歳月をかけて保存処理し、展示できるようになった大修羅がある。修羅とは古墳時代の人々が、巨石などの重量物 を運搬するのに使った木製のソリのことである。また、ハイビジョンコーナーでは、近つ飛鳥博物館製作の番組を2本30 分ごとに上映している。博物館のテーマに沿った、特別展や企画展も年に2〜3回開催され、それにともなう講演会なども 行われている。
<主な所蔵品> 大修羅・梃子棒(全長8.8m、重さ3.2トン) 大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の復元模型(直径10m、1/150) 鹿谷寺石塔(高さ8m、十三重塔) 竪穴式石室、横穴式石室 埴輪の露出展示(実物) 銅鏡(4世紀)、須恵器(5世紀)、馬具(6世紀)ほか 聖徳太子の墓(横穴式石室)の復元模型
「黄泉の塔」が聳える階段状の建物は安藤忠雄の設計。自身の代表作として挙げるこの作品は、第26回日本芸術大賞他を受 賞している。 <建築概要> 竣工 - 1994年 設計 - 安藤忠雄 構造 - SRC造 地上2階・地下1階 延床面積 - 5,925.20 m2 <受賞> 第26回 日本芸術大賞 1996年度 BCS賞(建築業協会賞) 6回 公共建築賞
この博物館も、千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」と同じである。展示品は殆どレプリカ。近畿圏の各古墳や遺跡 から出土した遺物のレプリカを展示する。新しい博物館なので仕方がないのだろう。その代わり色んな設備や映像での資料 充実が図られている。
<四天王寺> 四天王寺は、今から1400年以上前の推古天皇元年(593)に建立された。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と 蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もし、こ の戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立します。」と誓願し、勝利の後その誓いを果すために、建 立したとされる。聖徳太子が四天王寺を建てるにあたって「四箇院の制」をとったことが『四天王寺縁起』に示されている。 「四箇院」とは「帰依渇仰 断悪修善 速証無上 大菩提所」つまり仏法修行の道場である“敬田院”、 病者に薬を施す “施薬院”、病気の者を収容し、病気を癒す“療病院”、身寄りのない者や年老いた者を収容する“悲田院”の四つの施仏 教の根本精神の実践の場として、四天王寺を建てた。これらの施設は、中心伽藍の北に建てられたようである。その伽藍配 置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む 形式で、日本では最も古い建築様式の一つ。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6〜7世紀の大陸の様式を今日に伝える 貴重な存在とされている。
<聖徳太子> 敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり) 父は用明天皇、母は欽明天皇の娘である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。子には山背大兄王らがいる。 本名は厩戸(うまやと)で、厩戸の前で出産したことによるとの伝説があるが、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という 地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。別名、豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう) とも呼ばれた。『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡 耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子は後世につけられた尊称であるため、現在、日本の学校教育では正称であ る「厩戸王」と呼んでいる。
<横口式石槨模型> 横口式石槨は、横穴式石室のように内部に大きな空間を造るのではなく、棺を覆うようにして石で周囲を覆い、木口に穴 をあけたもの。この場合、天井や壁だけでなく床石も存在する。この横口式石槨の出現とともに古墳は終焉を迎える。こ れらは終末期古墳と呼ばれる。 近つ飛鳥の古墳が多彩になるのは、6世紀の終わり頃である。それまで展開していた前方後円憤は、敏達天皇陵古墳が築 造された頃から終息に向かう。変わって近つ飛鳥には、金山古墳の双円憤や二子塚古墳の双方墳といった、日本列島では 珍しい古墳が造られるが、大王級の用明、推古陵古墳に採用されるのは、大型の方墳である。その憤丘には聖徳太子墓と 同じような横穴式石室があると推測できる。しかし7世紀中頃には横口式石槨が近つ飛鳥で主流になる。これは特に、奈 良県明日香村周辺の「遠つ飛鳥」とこの「近つ飛鳥」に集中している。
大仙陵古墳 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 仁徳天皇陵拝所大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、大仙古墳、大山古墳とも)は、大阪府堺市堺区大仙町にある百舌鳥 (もず)古墳群の古墳の一つで、日本で最大の規模を誇る前方後円墳である。宮内庁によって仁徳天皇の陵墓として管理 されており、陵号は百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)。一般的には仁徳天皇陵(にんとくてんのうり ょう)もしくは仁徳陵古墳(にんとくりょうこふん)と呼ばれる。エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵 と並び世界三大陵墓の一つに数えられている。
下は修羅(すら)。運搬用の土台である。私が子供の頃も、九州の田舎で「スラ、スラ」と言って草原を滑り落ちる乗り 物を子供たちだけで作っていた。雪の日も勿論それに乗って遊んだ。あれは確かにこの古代の修羅から来ているのだと思 う。
大修羅【国重文】(古墳時代の重量物運搬具で日本最大のもの) 修羅(しゅら)は、重い石材などを運搬するために用いられた木製の大型橇である。重機の存在しなかった時代に重いも のを運ぶ重要な手段であった。コロなどの上に乗せることで、摩擦抵抗を減らすことができる。 VないしY字型の形状をしたものが発掘されている。二股に分かれている先端部を舟の舳先のように前方へ向け、これに 切り出した石を乗せ、ロープで曳く。近世の築城の様子を描いた「駿府城築城図屏風」などには、修羅で巨石を運搬する 様子が描かれている。また、古墳時代には古墳の造営にも使用されていたと考えられている。 1978年3月に大阪府藤井寺市で三ツ塚古墳(道明寺六丁目)の周濠から、大小2つの修羅が出土。同年4月5日から 6日にかけてマスコミで大きく報じられ、4月15日の現地説明会には12,000人余りの人々が見学に訪れた。大きい修羅 (全長8.8m、幅1.9m、重さ3.2トン)はアカガシ類の木、小さい修羅(全長2.8m、幅0.7m)はクヌギ 類の木でできており、いずれも二股に分かれた一木であることがわかった。これらと同時に梃子棒(長さ6.2m、直径 20cm)も発見された。出土場所などから、古市古墳群の最盛期だった5世紀ごろのものと推定されている。 土中の地下水によりほぼ完全な形で保存されていたが、出土とともに急速な乾燥、劣化の恐れが心配された。そのため、 同年5月に(財)元興寺文化財研究所(生駒市)へと運搬され、木材に含まれる水分の代わりに水溶性樹脂のポリエチレ ングリコールを浸透させて固化する保存処理が行われることになった。同所には、長大な大修羅を収容できる設備はなく、 この処理のために巨大な保存処理槽が新設された。この発掘は大きな反響を呼び、同年9月3日には、朝日新聞社や考古 学などの専門家によって、市内の大和川河川敷で、復元した修羅に巨石を乗せて牽引する実証実験が行われた。 大きい修羅よりも一足早く保存処理を終えた小さい修羅は1990年に「国際花と緑の博覧会」で展示された。保存処理が終 わった修羅について、発掘した大阪府は、当時河南町に整備を進めていた風土記の丘に建設する博物館で展示する方針を とった。これに対して、出土地である藤井寺市と市民が反発。市長が藤井寺市に戻すよう府に要望したが認められなかっ た。現在、大きい修羅と梃子棒は大阪府立近つ飛鳥博物館で展示され、府から貸与された小さい修羅が藤井寺市立図書館 で展示されている。
---------------------------------------------------------------------------------------------------- 大阪府立近つ飛鳥博物館 〒585-0001 大阪府南河内郡河南町大字東山229 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- TEL(0721)93-8321 交通機関: 近鉄電車「喜志」駅から金剛バス「阪南ネオポリス」下車、徒歩10分。 あるいは、近鉄長野線 富田林 駅から金剛バス石川線(富田林駅)「阪南ネオポリス行き」に乗車し、終点「阪南ネオポリス」下車。 開館時間: 10:00〜17:00(入館は16:30まで) 休館日: 毎週月曜日(休日、振替休日の場合はその翌日) 12/28〜1/4、年に一度、臨時休館日あり。 入館料: 一般300(240)円、高大生・65歳以上(証明必要)200(160)円 ( )は、団体。 中学生以下、 障害者手帳をお持ちの方および介助者1名、 大阪府内に在籍する特別入場証をお持ちの留学生は無料。 ※特別展・企画展の期間中は、入館料を変更することあり。 年間入館券 一般1500円、高大生・65歳以上1000円、使用開始日から1年間有効。 ※弥生文化・近つ飛鳥博物館の両館で使えます。 ※企画展・特別展の時にも使えます。 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 近つ飛鳥風土記の丘に隣接。常設展示室、特別展示室、ハイビジョンコーナー(147インチスクリーン) 、 ホール(250人収容) 相談カウンター、ビデオコーナー、喫茶コーナー、ミュージアムショップなど。図書コーナー :古墳や歴史一般に関する資料、閲覧可。 (喫茶コーナー、図書コーナーなどは無料ゾーン) 第1ゾーン:近つ飛鳥と国際交流 - 倭の五王、聖徳太子の時代ほか 第2ゾーン:古代国家の源流 - 埴輪、石室の世界ほか 第3ゾーン:現代科学と文化遺産 - 修羅の保存、現代科学と考古学 特別展示室 - 特別展・企画展会場 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- <近つ飛鳥風土記の丘> 博物館の南には、日本を代表する群集墳・一須賀古墳群を保存した史跡公園「大阪府立近つ飛鳥風土記の丘」がひろが っている。29へクタールの園内には102基の6世紀の後半を中心とした時代につくられた直径15メートル前後の 円墳(一部方墳もある)があり、そのうち40基が整備・公開され、見学できるようになっている。これらの古墳は横 穴式石室とそれをおおう盛土で構成される。石室は玄室(死者を、埋葬する空間)と羨道(玄室への通路だが、のちに 埋葬の場となる)にわかれている。