藤原宮は約1km四方、面積約100haの広さを持っている。甲子園球場の約25倍。その後、平城宮から平安宮まで、宮は約1km 四方の大きさが基準となったようである。平城宮においては「東院」が東に、平安宮は「大蔵省」が北に張り出してその分 だけ宮が広くなっているが、飛鳥の宮々が数haからせいぜい10数haだったのを考えると、藤原宮がいかに本格的な都として 築造されたかがわかる。
近鉄「耳成駅」から南へまっすぐ15分ほど歩いた所に資料館がある。「八木駅」からでも30分程歩けば着く。TAXIだと八木 駅から 5,6分、1000円ちょっとだ。位置的には、藤原宮の大極殿跡と天香具山を結んだ線のちょうど真ん中あたりにあり、 この建物が建っていたところもかっての藤原宮の内である。
藤原京の基盤目に区画された条坊(じょうぼう)道路の設計には、当時の官道である横大路や下ツ道などがその起線になっ ている。下ツ道は丸山古墳の立地する大軽町の丘陵から北に走る南北道で、橿原市中央部では現在の国道 169号線と重なっ ている。横大路は大和盆地を横断する東西道で、橿原市内では近鉄大阪線のやや南で現在も残っている。
藤原京は道によって区画された都市と言える。東西道路を「条」、南北道路を「坊」という区分により南北十二条、東西計 八坊に分けられる。何条何坊と言えば住所が分かる。今でも平城宮跡ではそういう呼び方をしている。奈良に住んでいる歴 史倶楽部の橋本さんも、自分ちを何条何坊と言っていた。「条」「坊」は、さらにそれぞれを小路によって2分の1に細分し ている。各道路には基本的に側溝が両側に付属しており、これは道路や宅地の排水を目的としたもので、当時の地形に応じ た排水ができるよう造られている。驚きである。中国の帝都の有り様をつぶさに見聞し、入念な設計を行った者がいたに違 いない。
藤原京の建物は、寺院の主要伽藍を除くと全て堀立柱建物で占められているが、総柱の倉庫や地盤の軟弱な地点の建物では 根石を伴うものもある。柱を抜き取った痕跡が著しいのは藤原京の周辺地域に多く、建て替え行為が頻繁であったと考えら れる。遷都に伴い柱材を運び出した痕跡も残っている。
大垣を解体し柱を抜き取る。遷都に伴い建物は解体され、使える資材は平城京へ運ばれた。屋根瓦を丁寧にはずし、柱は埋 め込んである根本まで穴を掘り、ゆっくりと倒し慎重に抜き取られた。平城宮では中をえぐって樋に使用されていた下の柱 は、もともと藤原宮の大垣に使用されていたものである。
藤原京は、日本で初めて貨幣が鋳造された都である。「日本書紀」によると、武蔵国秩父郡より和銅を献納したことから、 慶雲五年を和銅元年(708)と改元したとあり、鋳造されたのが和銅開珎である。藤原京ではまだ東市・西市の存在は明らか でないものの、その当時銅銭1牧で米1.8kgが買えたようだ。また、右京二条三坊では分銅(26.762g)が出土し、当時の度量 基準が窺える。また、右京五条四坊では、大量の 祭祀遺物に混じって、ひしゃくや匙、櫛などの木製の生活道具が大量に出 土している。
藤原京では、須恵器や土師器が主な日常雑器を占めているようだ。食膳具については、土器のつくりによって精製品と粗製 品に分かれ、須恵器の中には金属器を模した鉢や盆、土師器には竃(かまど)などの煮沸器など、用途に応じて巧みに使い 分けられている。土師器の食膳具には装飾を目的とした暗文が綿密に施されている。土器は今のところ、遺跡の年代を知る 最も基本的な指標である。藤原京の時期は考古学上の編年で飛鳥期と位置づけられた土器群に相当するが、やや時代を遡る 土器も少なからず出土しているようである。
木簡は古代の貴重な資料である。紙や本が出現する前の、ほとんど唯一の文字資料と言ってもいい。当時の情勢や生活を窺 う最も効果的な資料であろう。そこに書かれている内容を分析すると、さまざまなことが読み取れる。大宝令制に伴う「評」 から「郡」への変更などは有名で、各地で、出土する木簡の分析で古代の地名や郡部制の詳細が判明した。 静岡県の伊場遺跡から大量に出土した木簡は、その地方の古名も明らかにしたし、年号を表記してあるものは、出土遺構や 共伴遺物の実年代の指標ともなり得る。平城京の「長屋王」邸から出土した多量の木簡は有名である。 藤原京では、全国からの貢進物や租調に付けられた荷札(伝票)などの他に、文書(勤務記録など)、写経、呪符(まじな いや呪い)などがあり、右京九条四坊から出土した占いの結果を述べた木簡は、我が国初の出土である。
岸俊男氏がその著書「藤原京」で、藤原京の範囲を、南北十二条、東西八坊と設定して以来、大和三山に囲まれ横大路や下 ツ道を基準とする 12条× 8 坊の区域が、従来藤原京の範囲とされてきた。しかし、昭和55年、葛本町で従来京外と考えら れてきた地点で藤原京と同時期の道路遺溝が検出され、その後、京の周辺において同様な道路遺溝が相次いでみつかり、藤 原京はほんとはもっと広い範囲に築造されたのではないかとする「大藤原京」説が提唱されている。 大藤原京域での道路検出跡は、従来説(岸説)藤原京の北と西に集中している。北部は桜井市西之宮、橿原市常盤町から葛 本・新賀町にかけての下ツ道以東に多く、西では調査次数に関係なく皆無に近い状況だという。 葛本町で見つかった朱雀大路の北延長線の西側溝は、幅3mと大藤原京域で最大の規模を誇り、路面敷に施されたと考えられ る整地土の幅は約 18m弱にも及ぶ。また、道路遺溝の検出の他にも、宅地の状況も解明されつつあり、井戸や堀立柱建物も 発見されて「大藤原京」の解明に向けての歩みが着々と進行している。