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井原鑓溝遺跡発掘調査・速報展
2005.3.6(日)伊都国歴史博物館・新館





















 

 



 

 

 

 

 

 

 



以下は、遺跡巡りの「三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡」のコーナーから転載した。





	井原鑓溝遺跡は、三雲南小路遺跡とは2,30mしか離れていない。もしかしたらこれは一つの遺跡なのかも知れない
	な。


	井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき) 

	江戸時代の天明年間(1781〜88)、筑前国怡土郡井原村の鑓溝(やりみぞ:現福岡県前原市井原)という所から銅鏡を多
	数副葬した甕棺が発見された。これが井原鑓溝遺跡である。このとき発見された出土品は現存しないが、図面が『柳園古
	器略考』(青柳種信著)に記録されている。これは主に文政5年(1822)に三雲村で発見された三雲南小路遺跡1号棺の
	調査報告書だが、種信は40年前に隣村で発見された井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行い、農民が保管していた
	鏡片27、巴形(ともえがた)銅器2の拓本を残している。
	「怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。
	あやしみ堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり。」
	出土した銅鏡はすべて中国製である。拓本から復元される鏡=方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡=は18面で、拓
	本に残された鏡は、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれにこの鏡が海を越え伊都国に定着す
	るまでの期間を加えたものとなる。それはおおむね1世紀後半〜2世紀初頭の間に収まると推定できる。また、出土した
	豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられ、三雲南小路遺跡(紀元前後)より数代を経た王墓ということになる。柳田康
	雄・前九州歴史資料館副館長は「井原鑓溝遺跡の副葬品からも、弥生後期に後漢から金印を下賜された、倭国王とみなさ
	れる人物は伊都国王をおいてほかにない」とみる。金印が出土した志賀島は博多湾口に位置し、奴国だけでなく、伊都国
	の東の玄関口でもあった。
	現在、遺跡の場所は不明だが、三雲南小路遺跡の南約100 mのあたりに大字井原字ヤリミゾという地名があり、今は一面
	に水田が広がっているが、その下あたりに井原鑓溝遺跡は眠っていると考えられる。前原市教委は大正時代の地籍図から
	字名の語源になったとみられる水路跡を割り出し、1994年から王墓の確認調査を続けている。福岡県教委が74年に
	三雲南小路遺跡1号棺を発見、『略考』の記述を150年ぶりに裏付け、同時に2号棺を新発見したような成果も期待で
	きる。
	前原市教委文化課の岡部裕俊さんは『略考』の〈壺〉という記述に注目する。「糸島地域では後期前半(1世紀)には甕
	棺墓に代わって木棺墓が盛行し、〈壺〉すなわち壺形の大型甕棺が再び見られるのは、後期中葉(2世紀前半)から。
	年代が後期中葉なら、帥升の墓である可能性が高い」。三雲・井原遺跡群の番上地区では、88平方メートルという狭い
	調査範囲(土器だまり)から、灰色で、泥質が特徴的な楽浪系の鉢や筒杯、器台約30点が出土した。武末純一・福岡大
	教授(考古学)は「楽浪系土器が特定個所で集中的に出土するのは国内でほかに例がなく、しかも番上地区では、弥生中
	期後半〜後期にかけて継続している」と注目。「三雲南小路王の出現を契機に、渡来した楽浪人が集団で居住していたこ
	とを示すもの」と指摘する。「三韓系土器が多く出土する奴国が朝鮮半島からの鉄資源入手と鉄器・鉄素材生産で栄えた
	とすれば、楽浪系土器が出土する伊都国は楽浪郡を介した前漢との外交、交易を独占することで栄えた。いわば伊都国は
	前漢と安全保障条約を結び、その後ろ盾により北部九州の国々の連合体の上に君臨したといえる」
	三雲南小路、井原鑓溝遺跡と続く伊都国王の系譜は、平原遺跡1号墓の被葬者に受け継がれる。

 
『柳園古器略考』(青柳種信著)と 井原鑓溝遺跡が眠る水田


	弥生後期の中国鏡出土 伊都国王墓確認へ手がかり 福岡 	
	中国の史書「魏志倭人伝」に記された伊都(いと)国があったとされる福岡県前原市の井原鑓溝(いわらやりみぞ)で、
	弥生時代後期(紀元1世紀ごろ)の中国鏡が見つかったことが、同市教委の調査でわかった。江戸時代に出土品の記録が
	残されていながら未発見の伊都国王墓「井原鑓溝遺跡」確認へ向けて重要な手がかりになるとみられる。 
	出土したのは「方格規矩(きく)四神鏡」1枚分で、約10片に割れているという。江戸時代の学者が記した「柳園古器
	略考」などによると、同じ型式の鏡21枚が出土したという。同市教委によると、出土地点は道路の拡幅工事現場で、鏡
	は水田の1メートルほど下の穴から出土。一緒に約170個のガラス玉も見つかった。周囲には16基の甕棺墓(かめか
	んぼ)や石棺墓も確認された。調査指導委員会の西谷正・九州大名誉教授は「王墓の所在地が絞り込めてきた」という。 
	倭人伝は伊都国に「世々王有り」と記しており、周辺では三雲南小路、平原両遺跡という豪華な副葬品を納めた王墓が見
	つかっている。しかし、時期的にそれらをつなぐ井原鑓溝遺跡の所在は不明で、同市教委では94年から調査を続けてき
	た。【朝日新聞 2005年02月18日(金) 】
 


2005.3.6(日曜)現在も、発掘調査は続けられている。写真の右手前を入っていったら三雲南小路遺跡である。



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