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香川県歴史博物館

旧石器時代









	旧石器時代とは、いわゆる人類が発生してから、日本では縄文時代が始まるまでのあいだを言うが、その期間はあまりに
	も長く、しかも人類の起源についても、一体いつごろのサルが我々の直接の先祖なのか、皆目素人にはわからない。
	我々団塊の世代が小学生の頃は、人類の歴史は100万年だったように思う。それがいつの間にか「人類の歴史200万
	年」と言われるようになり、いまでは400万年とも500万年とも言われる。気の遠くなるような年月の一方でDNA
	鑑定等々の方法で、我々現代人の直接の始祖は、いまから20万年前にアフリカに出現した一人の女性であるとも言われ、
	研究者達は彼女をイブと呼んでいるそうである。この説は結構支持されていると言う記事もあるし、ヒトの起源をめぐっ
	てはまだまだ論争は続きそうである。






 


	広く浸透している一般論によれば、人類の祖先がアフリカに誕生したのは約400万年前と言われる。そのアフリカから
	約100万年ほど前に他の大陸に広がりはじめ、現在の日本列島に到達したのは約60万年以上前、原人の段階であると
	いわれる。学問的には旧石器時代は三つの時代に区分され、前期旧石器時代(約350万〜15万年前)は、猿人や原人
	の段階、中期旧石器時代(15万〜3万5000年前)は旧人の段階、後期旧石器時代(約3万5000〜1万2千年前)
	は新人の段階とされる。旧石器時代は地質年代で見た場合、第三紀鮮新世末から第四紀更新世(洪積世)に属し、それは
	200万年前から1万年前の間に氷河期と間氷期が繰り返し訪れたと言う、大氷河時代でもあった。現在も第4間氷期と
	呼ばれている。してみると、現在は温暖化現象が問題となっているが、広いレンジで考えるとやがて第5回目の大氷河時
	代がやってくるのかもしれない。




	寒冷な氷河期には海水が減少し、日本列島はアジア大陸と陸続きになった。そこを通って大陸の北や南からナウマンゾウ
	・オオツノジカ・マンモスなどが渡ってくることになり、それらを追って人類もやってきたのである。4回の氷河期は、
	ギュンツ、ミンデル、リス、ウルムと名付けられている。




	更新世の初期には地殻変動によって日本列島の骨格が出来始め、東アジア大陸との間に日本海が広がったが、東シナ海北
	部では陸続きだった。その後、氷河期の海面降下のため、2万年前のウルム氷期には現在より約100mも海面は下がっ
	ていたと考えられる。各地で発見される海底遺跡と呼ばれる建造物等々は、この頃に造られ、やがて温暖化とともに水中
	に埋没していったのである。(沖縄・与那国島の海底遺跡ex.)
	更新世はまた、火山活動が活発な時期で、富士山や浅間山が噴火し、関東ローム層を代表とする火山灰層を堆積した。
	昭和24年(1949)に、相澤忠洋(あいざわただひろ)が群馬県岩宿遺跡で旧石器を発見するまで、日本列島にはこの火
	山灰層の下には人類の軌跡はないというのが定説だったが、その後各地で旧石器発見が相次ぎ、日本列島にも旧石器文化
	が存在していた事が判明している。しかしその最古層は、ほとんどが3万年前前後のもので、藤村進一が作り上げようと
	した秩父原人や十津川原人などは、今のところまだ夢であり、今後の真摯な研究結果に期待するしかない。

 


	日本では旧石器以外に人骨の探求も継続して行われているが、原人・旧人と断定された人骨化石は発見されていない。
	かつて「明石原人」の骨が出土したとされる、兵庫県明石市の「西八木地層」(12万〜5万年前)から、メノウ製の石
	おのが発見されたが、この地層の年代は中期旧石器時代に該当し「原人」の段階ではなく「旧人」段階である。また人骨
	そのものは出土していない。しかしその時代に、その地を人間が闊歩していた証拠は発見されたわけで、いずれ我々の前
	に姿を現す可能性はまだある。日本のような酸性の強い火山灰土では、有機物は土壌中のバクテリアや小動物などにより
	分解され、無機物に変わってしまうので残りにくいが、やがて、いつの日にか発見されるであろう。



	約1万5千年前を境に氷期は去り、気候は温暖化し始めた。狩猟の対象となる動物相が変化したのに合せて石器も変化し
	ていく。この頃の人類は打製石器を用いており、彼らは移住生活を行いながら、狩猟や漁業、木の実の採集などで暮らし
	ていたと考えられる。一部、鹿児島県指宿で発見された水迫遺跡のように、1万5千年前の定住住居跡というものも存在
	したが、多くは狩猟・採集の生活だった。新人と呼ばれる人類は、その地域に産する石材に適した技術を育て、地域ごと
	に特色を持った石器を製作し始める。東日本では黒耀石(こくようせき)と呼ばれるガラス質(石英の非晶質)の火成岩
	を石器に利用し、西日本では、サヌカイトと呼ばれる安山岩の一種で黒いガラスのような石を石器に用いた。
	いずれも固くガラスのような性質を持ち、強く叩くと鋭く割れるので、矢じりに剣先に、はたまた宝飾品として利用され
	て来た。黒耀石もサヌカイトも産地は限られているが、日本全国で広く流通し、たとえば長野県産の黒耀石が東京や千葉
	の遺跡から出土しているし、奈良県二上山のサヌカイトが、名古屋の遺跡から出土したりする。想像以上に、人類は古く
	から流通経路を確保していたものと思われる。




	サヌカイトという名前が「サヌキ」から来ていることは、古代史ファンならすでにご存じだろう。ナウマン象の命名者と
	して日本でもよく知られている、ドイツの地質学者、ナウマンは、日本の讃岐地方には、叩くと金属音を発する「かんか
	ん石」或いは「ちんちん石」と呼ばれる石材があると、1885年にドイツの学術誌に発表している。それから6年後、
	ナウマンから「カンカン石」の資料を譲り受けたドイツのヴァインシェンクは、観察の結果、1891年に、これが今ま
	でに知られていないタイプの岩石であることを発見し、この岩石に讃岐の石という意味で「サヌカイト」という名前を与
	え学会に発表した。ヴァインシェンクの名付けたこのサヌカイトという名称は、現在でも国際的に通用する学名として使
	用されている。香川県の屋島では磬石(けいせき)とよばれ、この石で作られた楽器が土産物として販売されている。
	黒青色緻密で割れ口には貝殻状断口がみられ、ガラス質であるが黒曜石のような光沢はない。黒耀石もサヌカイトも、現
	在日本中でそれぞれ10ケ所程の産地がある。






 
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