Music: Revolution
笠懸野文化資料館
2000.4.8(土) 群馬県新田郡笠懸町





郷土の偉人「岡上次郎兵衛」の銅像と顕彰碑。

 



何時の時代でも、ちゃんとした人はちゃんとした仕事をするのである。





「岩宿時代」と同じ頃の、世界各地の住居復元

 

 

 



 

 

 





資料館の裏手にある灌漑池の廻りでは桜が満開。



 







1F展示室
 



 



見事な縄文土器。(下右)
 

 

 

 

 



   





 



2F展示室



	岩宿に人々が生活していた約3万年前は旧石器時代と呼ばれ、気候的には氷河期の温暖期にあたるとされている。日本列島
	の一部は大陸と陸続きで、大陸からナウマン象やオオツノジカなどが日本に渡ってきており、彼らの化石は日本中で発見さ
	れている。またこれを追って大陸から人類もやってきたと考えられる。狩猟具ややじりに使用した石器も、最近各地で発見
	されるようになった。また植物も陸続きに日本へ移生したと考えられる。



 

 

 





 

 

 

 

 

 


	若干20才の在野の考古学研究者「相澤忠洋」(あいざわただひろ)は、群馬県新田郡笠懸町の丘陵の切り通しで、一辺の石
	器を発見する。土器を伴わない地層の中からの出土に彼はとまどう。なぜなら、それまで日本には、少なくとも関東ローム
	層が台地を覆い尽くしてしまっている関東地方においては、「旧石器時代」は存在しないと考えられていたからである。関
	東ローム層は1,2万年前に富士山等の火山活動により火山灰が堆積してできた地層で、その頃の関東地方は人間が住める
	環境では無かった、というのが学会の「定説」であった。考古学者達も赤土層(ローム層)に出会うと、そこで発掘作業は
	終了とされていたのである。相澤忠洋は、我が国における「旧石器時代」の存在を証明した最初の人間となった。

	相澤は紆余曲折のあげく、今日「旧石器時代研究のパイオニア」として知られるようになったが、この石器発見時は世間か
	ら、とくに学会からは無視され続けた。一介の青年が、学会に立ち向かう姿は崇高なものを感じさせる。芹沢長介(東北大
	学名誉教授)をはじめとする良き理解者達に助けられ、彼はその後も「旧石器時代研究」を続け病に倒れて世を去るが、発
	見時の相澤を無視した報道のせいで、今でも「岩宿遺跡」の発見者は「明治大学」と報道される事もある。相澤夫人の千恵
	子は地元に「相澤忠洋記念館」を創設し、相澤の業績を無視する行為には断固抗議を続けている。





 

石器の材料となる黒曜石等の原石群。





邪馬台国大研究・ホームページ /博物館・資料館めぐり/笠懸野文化資料館