三重県松阪市文化財センター 当センターは、市民文化会館・図書館等が集中する市の文化ゾーンとなっている区画にある。旧カネボウ綿糸(株)松阪工 場の倉庫を譲り受け、その保存・活用も目的として大規模な補修の手が加わって完成した。更に隣地に管理センターが併設 され、旧倉庫は、展示室、市民ギャラリー、収蔵庫2室として生まれ変わった。管理棟には事務室・図書室の他に、発掘で 出土した遺物の洗浄・復元を行う遺物整理室、発掘調査報告書の作成作業を行う資料整理室等があり、これで松阪市として の、埋蔵文化財に対する取り組みの準備は全て整ったことになるのだろう。
特別展という事もあるのだろうが、展示品は殆ど宝塚古墳からの出土品ばかりだった。この後宝塚古墳を見学するのだが、 戻ってきてもう一度見たかった。
松阪市は、古代史関係では、 2000年4月に松阪市教育委員会が発表した「宝塚古墳」とそこから出土した日本最大の「船形 埴輪」で一躍全国的に有名になった。今までの船形埴輪にはない5世紀当時の古代船の詳細な部分が表現されていて、今ま で文献やその他で想像・推定されていた部分を明らかにした、我が国第一級の文化財となった。4月の記者会見発表時には 本物が公開されており、その後もこの文化財センターで一般公開されたが、我々が訪れた2000年11月23日現在では、レプリ カ製作のため京都の業者の元に預けられているとかで、実物を見ることは出来なかった。来年 3月頃にはセンターへ戻って くるらしいが、その後の予定では、文化庁主催の「2001年発掘展」に貸し出して全国を回ることになるかもしれないとの事 であった。そうなれば、我々が本物を実見できるのは再来年からという事になりそうである。最も、レプリカではなく本物 がここに展示されているという前提だが。
「邪馬台国大研究」としてはもう一つ、ここ松阪は「邪馬台国九州説」を唱えた先駆者、松阪が生んだ偉大な国学者、本居 宣長の生誕地である事を覚えておきたい。宣長は、大きな商家の長男として生まれたが、学問に熱中して商売には殆ど興味 を示さず、廻りを大変心配させたそうである。長じての宣長は、皇国史観の固まりのような思想の持ち主で、「九州説」も、 我が国の女王が中国の皇帝に貢ぎ物などするはずがない、卑弥呼などは九州の一蛮族の女酋にすぎない、従って「邪馬台国」 も九州に在ったのだという意見であった。 そのため、「倭人伝」の内容も、「これは一月ではなく一日の誤り、これは東ではなく南。」などと極めて恣意的に解釈し、 今日の「邪馬台国論争」の火種を作った。
ふたたび現物を見た。2年半前はここになく、京都のレプリカ屋(?)から戻ったら今度は発掘2001年展で全国を廻っ ていた。 大阪市立博物館で一度見たが、大きい。ほんとに櫓を通す穴の角度までそれぞれ違う。よくぞまぁこんなものが、と思わず にはいられない。こんなものを古代人が想像して作るわけはない。宝塚古墳の被葬者は、あきらかにこの大型船を持ってい たのだろう。伊勢の海に君臨した古代倭冦の先祖か、或いは一族郎党を引き連れて渡来してきた大陸或いは半島人だったに 違いない。それにしても、古代の舟は我々が想像する以上に精巧で頑丈だったのだ。
どうしてここまで時代というやつは画一的なのだろうか。どこかで、独創性を発揮した地方が会っても良さそうなものだが、 おかしいくらい弥生時代には弥生土器があり、古墳時代には馬具や武器が古墳の中に納められている。どこかの古墳から火 縄銃が発見されたりしたら、時代観がガラッと代わり大騒動になるだろうな、とか考えてみるが、勿論そんなことはありは しない。銅鏡からいきなり火縄銃は造れないのだ。してみると、現代がやがて古代と呼ばれるようになる後1000年くら い先には、今触っているPCなども、「なんとまぁ昔は原始的なものを!」と言うことになるのだろうか。それまで地球が 持ってくれればいいが。
同じ博物館でも、前回見落としていたものを発見すると楽しい。勿論新しく展示されたものもあるのだろうが、それにして も興味のある博物館や遺跡には何度か訪れた方がいい。来るたびに新しい発見がある。この船の埴輪はもう一度見に来たい なと思わせる。