西暦645年、大化の改新によって天皇に権力を集中させた新しい国家建設が始まった。701年大宝律令の 制定により中央集権的な国家が出現し、伊豆の国は、駿河から独立した新しい一つの国となった。 現在の県庁に当たる「国府」の位置は定かでないが、平成元年に、三島大社の境内から掘っ立て柱の跡が発見 され注目を集めた。三島の中心地であり、静岡県はここを伊豆国府跡の一部であろうとしている。
飯尾宗祇【いのおそうぎ】(1421〜1502)室町時代後期の連歌師 ---------------------------------------------------------- 「古今伝授」とは「古今和歌集」の解読・解釈を伝えたもので、平安時代末、藤原基俊から俊成・定家…と代々 二条家に伝えられ、次いで東常縁に伝わり宗祇に伝授されたことにより成立した歌の道の宗匠を示すもの。 宗祇はこれを三条西実隆(さねたか)他の三流に伝え、近世末まで受け継がれた。宗祇は和歌を極めると共に、 連歌を大成した。京を拠点に全国を歩き、宗長など多くの門人を指導し、後の近世俳諧に大きな影響を与え、特 に松尾芭蕉は宗祇を敬慕し、宗祇の句に呼応した俳句を多く残している。1502年、江戸へ下り、次いで駿河へ向か う途中の7月29日箱根湯本で急逝、遺骸は富士を愛した宗祇の遺言により定輪寺(裾野市桃園)に葬られた。
三島は古くから伊豆の中心地として栄え、平安時代に整備された古道の要衝の地として発展を遂げた。三島明神 (現在の三島大社)の門前町としても大いに賑った。関ケ原の合戦で徳川家康が勝利を収めると、政治の中心地 は江戸へ遷り、家康は江戸を中心に東海道をはじめとする5街道の整備に着手し、東海道に宿場制度(東海道5 3次)が設定されると、三島宿は東海道11番目の宿場町になった。3代将軍家光が参勤交代を制定し、各大名 が1年ごとに東海道を行き来するようになると、箱根八里を控えた三島宿は、名実ともに宿場町として発展を遂 げていった。幕府にとって箱根山は安全と秩序を守る第一の生命線で、の直轄領であった三島宿には三島代官所 が置かれ、政治的にも重要な役割を担っていた。
江戸時代、三島宿には、75軒の旅籠(はたご)が並んでいた。その頃の様子を描いたものが上左の「三島宿風 俗絵屏風」である。これは今から約160年前の天保期に、三島宿の旧家山口家に逗留した絵師小沼満英によっ て描かれたもの。宿代の替わりに置いていったと伝えられ、今は三島信用金庫の所蔵品である。三島の中心部、 広小路から三嶋大社にかけての旧東海道の通りは現在商店街となっており、120年前まではここに旅館がひし めき合っていたのだ。
江戸時代、東海道53次の中でも、最も賑わった宿場の一つが三島である。江戸日本橋より数えて11番目、箱 根宿と沼津宿の間の宿場だ。当時の宿は、東の新町橋から西の千貫樋まで十八町余(約2q)、宿の石高263 2石余、石高から見ると東海道では4番目に大きな宿場だった。宿の施設では問屋場一、大名・公家・役人など が宿泊する本陣二、脇本陣三、一般の旅人が宿泊する旅籠が74軒、総家数1025軒、人口4048人を数え た。箱根の山越に1日かかるため、三島には多くの旅人が泊まり、そのため旅館数も多かった。
三島宿は南へ下田街道、北へ佐野街道(甲州道)が分かれる交通の分岐であり、江戸時代初期には伊豆を管理す る代官所が置かれ、のちに三島陣屋となるが、伊豆支配の要だった。宿の中央には、三代将軍家光が上洛のため に築かせた旅館跡・御殿地があった。三島宿の北には、富士山からの湧水が小浜池など何ヶ所も湧き出て、いく 筋もの流れとなり街道を横切っていた。古くから水の都として三島宿は知られていたのである。
文化15年(1818)3月の「覚(おぼえ)」(上左)。三島宿本陣の主である樋口傳左衛門の署名がある。「覚」 の内容は、三島本陣が旅人に出していた朝夕の食事のメニューである。江戸時代の三島宿には、常に百件近い旅 籠が軒を並べていたが、格式の高い本陣は2軒、脇本陣は3軒のみだった。本来本陣は、将軍や大名の宿泊施設 として各宿場に設けられたものだが、通常は幕府役人や諸藩の武士たちをも泊めていた。献立には、そうした通 常の営業の中で作られ、供されていた食事の内容が記されている。 「覚」 「夕献立 壱汁弐菜 汁 皿 につけ 肴 香のもの 平 わらび こうりこんにゃく(凍り蒟蒻) こごり身 いも すこんぶ 飯 朝献立 壱汁弐菜 汁 皿 につけ 肴 香のもの 平 石やきとうふ(石焼豆腐) 飯 」 「右之通夕朝献立相違無御座候以上」 「三島宿本陣 樋口傳左衛門」
《本陣と脇本陣》 東海道をはじめとする主要街道は道中奉行の管理下に置かれ、公用旅行者や参勤交代の大名が宿泊する宿駅に は、問屋場、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿などの施設が整えられていた。ここ三島宿も同様、慶長6年(1601) 東海道の宿駅となって以来、将軍上洛の際に本陣とした三島御殿や鷹狩のための鷹部屋などの施設も整えられ、 宿場のほぼ中央には、二軒の本陣が向かい合って建っていた。樋口家本陣と世古家本陣である。両本陣はお互 いに「株分け規定」を取り交わし、諸大名や公家僧侶および幕臣や諸大名の家臣たちのための宿泊や休業業務 を割り振って、「街道」にかかわる「御用」を務めていた。この他にも、脇本陣3軒、旅篭74軒が備わり、 街道を行き来する人々も多く、三島はさまざまな地域の物資が集散する宿場町として発展を遂げた。
初代安藤広重の代表作「東海道五十三次・三島宿」。朝霧の深くたちこめた三島明神鳥居前の、出立したばかり の旅人が描かれている。。富士の清流が湧き出す三島では、早朝の霧も三島を特徴づける風景だった。初代安藤 広重はこの他にも、夕暮れの三島明神や、正月の年中行事「田祭り」などを題材に名画を数多く残しており、こ れらの浮世絵から江戸時代の生活を偲ぶことができる。