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多摩川台古墳館 多摩川台古墳群資料館 2004.1.10(土) 東京都大田区田園調布1丁目




多摩川台古墳群をはさんで、多摩川とは反対側にある古墳資料館。




	資料館に入ると、正面にデーンと巨大な古墳の復元ジオラマ(?)がある。古墳自体はどこか特定の古墳ではなく、一般的
	な古墳についての解説のために作ってあるようだ。中が資料室になっていて、大田区内の古墳の紹介がある。

 



 

埴輪の原型についての解説を読む久保田さん。ここには久保田さんにつれてきて貰った。
(「遺跡巡り」の「野毛大塚古墳」「多摩川台古墳群」を参照されたし。)

 

 

 

 

 




	大田区の古墳時代

	大田区内には多くの古墳が分布していましたが、そのうちのいくつかは宅地化のため破壊されてしまいました。しかし多摩
	川台公園(田園調布1丁目63番)を中心に、現在でも見学できる古墳が残っており、都心にあって貴重な存在となってい
	ます。
	多摩川下流沿岸の大田区から世田谷区にかけて、荏原(台)古墳群が形成されていますが、ここは周辺を治めた首長達の墓
	地であったと考えられています。さらに、「日本書紀」巻18、安閑(あんかん)天皇元年(534)の条にみられる「武蔵の
	国造の乱」において、大和政権と結んだ ”笠原直使主”(かさはらのあたいおみ:埼玉県さきたま古墳群の二子山古墳は使
	主の墓ではないかと言われています。)と地位争いをして倒された ”小杵”(おき)の本拠地がこの地域であったとの説も
	あり、古代史的にも重要な場所となっています。
	大田区は、地理的に武蔵野台地の縁辺にあたることもあり、その斜面を利用して造られた横穴墓が、古墳時代終末期より奈
	良時代にかけて数多く造られています。これらは、古墳にかわる墓制として注目されます。
	大田区内の古墳時代遺跡の特徴として、古墳・横穴墓といった埋葬に関する遺跡は豊富に存在するのですが、住居祉を中心
	とする生活に関する遺跡は、古墳時代初頭を除いて、皆無と言って良い状態であることが指摘できます。古墳や横穴墓を築
	いた人々は、どこに暮らしていたのでしょうか?すでに宅地化されてしまった多摩川・呑川(のむがわ)の沖積地に、それ
	らの遺跡が存在していたのでしょうか?疑問の持たれる所です。
	「大昔の大田区」(大田区立郷土博物館、平成9年3月21日発行)より転載。

 





 













 



 

 



 


	荏原(台)古墳群

	多摩川下流沿岸、大田区田園調布、世田谷区尾山台・等々力・野毛といった、かって武蔵国荏原郡と呼ばれた地域には、古
	墳が数多く分布していることが知られています。これらの古墳をまとめて「荏原(台)古墳群」(えばらだいこふんぐん)
	と呼んでいます。この荏原(台)古墳群は地域的に二分して考えられることがあり、その場合、田園調布を中心とする古墳
	群「田園調布古墳群」、尾山台から野毛にかけての古墳群を「野毛古墳群」と呼びます。この一帯には、多摩川という水資
	源と、広い平地を利用した、弥生時代以来の生産性の高い農耕社会を背景とする、強力な首長の治める政治的集団が存在し
	ていたと考えられています。そして、古墳時代を通じて、この地域が、その首長と一族の墓地として利用されていたのです。
	荏原(台)古墳群は、4世紀前半から頃から7世紀前半頃にかけて形成されたと考えられていますが、これは3つの段階に
	分けることができます。

	(1).4世紀前半 〜 5世紀初頭 古墳発生期にあたり、田園調布古墳群で、大形先方後円墳が築造される。
	(2).5世紀前半 〜 後半    野毛古墳群で、大形円墳が順次築造される。
	(3).5世紀末 〜 7世紀    田園調布古墳群で、小形前方後円墳を中心に、多くの円墳が築造される。

	荏原(台)古墳群の特徴としては、(1).古墳時代全般にわたり古墳が築造され続けた、(2).古墳群形成の各段階において分
	布地域に片寄りが見られる、(3).田園調布古墳群に前方後円墳、野毛古墳群に円墳が、それぞれ比較的多く築造されるとい
	うように、地域により墳形が異なる、といった点があげられます。

	「大昔の大田区」(大田区立郷土博物館、平成9年3月21日発行)より転載。



多摩川台古墳群



 

 

 

 





 

 

 

ボタンを押せば古墳の位置が分かるようになっているパネル。それにしてもすごい数の古墳だ。
こんな古墳群なんて東京の人も知らないのでは。





古墳館の壁には、古墳の作り方や、世界の墓(ピラミッドや秦の始皇帝陵など)と多摩川周辺古墳群との大きさ比較などのパネルや、

 

古墳に治められた石棺の種類などが、図解入りでわかりやすく解説してあって非常にためになる。近畿圏にはなかなか無い。

 



「ここにある石棺を、私は全部見たことありますね。」とつぶやいたら、久保田さんが「ヒェーッ」と驚いていた。




	私はこれまでに、約200あまりの博物館・資料館を見学してきたが、遺跡の側にある、その遺跡を紹介した資料館という
	のは実に有益だ。遺跡・旧跡や古墳は、外から見ただけではただの地面やその出っ張りにすぎない。とくに縄文・弥生の集
	落跡やそれに準じた遺跡など、既にただの原っぱだったり、上部に建物が建っていたりする。その遺跡が古代史の上でいか
	なる意味を持っているのかを知るには、やはりそこから出土したものを見るのが一番だ。よく、遺跡だけを見て資料館など
	はおざなりに見学を済ませて、「・・遺跡に行ってきました。」という人がいるが、私に言わせればそれは遺跡を見たこと
	にはならない。どんなものを当時の人々が着て、どんなものを食べて、どんな所に住んでいたのかを知って遺跡を見れば、
	その想像力は増幅される。古代の人々が目の前に蘇ってくるのだ。そういう意味でも、この荏原古墳群を築いた人びとの住
	居跡や生活の痕跡を見たいものである。

	遙か1500年の昔、西から来て、騎馬を駆って板東平野を駆け抜けて行った古墳時代人たち。それに融合・従属していっ
	た多くの弥生人たち。殺す者と殺される者。支配する者と支配される者。融合する者と離反するもの。彼らの子孫たちは、
	いまも板東平野に生きている。


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