滋賀県の草津市の上部、びわ湖大橋の南、琵琶湖博物館のすぐ近くに、ハスの群生地があるという情報を嫁半がどこからか 仕入れてきて、朝早くから付き合う事になった。どうせならとその後「栗東博物館」にも寄る事を条件にお供することにな った。大した事はあるまいと思っていたが、どうしてどうしてすごい群生地だ。まだ4分咲きくらいの開花だった。有料の 植物園(草津市立水生植物公園水の森)も側にありなかなかさわやかな湖沼の朝であった。
この博物館は変わっていた。どこにも標識がないばかりか建物にも表示がない。隣には似たようなコンクリートの建物があ り美術館とちゃんと看板もあるのに、ここには何もない。変だ。 博物館のすぐとい面に立っている民家は、栗東地方の典型的な農家の建物を移築したもの。栗東町大字霊仙寺にあった中島 家のものだが、江戸末期か明治時代始めに建てられたものらしい。部屋の造りや納戸、仏間などどこか懐かしかった。屋内 にウマヤがあり家の中で家畜を飼っていたのには驚いた。東北あたりにはあるのだろうが、九州地方ではウマヤ(牛小屋) はまず屋外である。今となっては、こういう建物は貴重な民俗資料だ。
栗東歴史民俗博物館1997年3月〜5月企画展「湖南の弥生時代」資料 伴野幸一 「弥生時代の環濠集落と大型建物」より抜粋 1.野洲川流域の集落の動向 近江最大の河川である野洲川は、律令時代の野洲・栗太郡のおもな平野部にあたる広大な沖積平野を構成している。野洲 川が平野部へと流れ出す右岸側に所在する三上山はこの平野部のどこからでも仰ぎ見る事ができる。この地域の人々にと って野洲川そして三上山はシンボリックな存在であったに違いない。南北流を一本化した新しい野洲川を、湖岸から内陸 部に向かって歩いてみると、かなり広い範囲で弥生土器や土師器、須恵器などを採集することができる。遺跡群が平野部 に数珠つなぎとなっているという実感が沸いてくる。おそらく、野洲川流域の広大な沖積平野部の遺跡群の分布の実態は、 まだその一部しかつかめていないだろう。しかし、20年以上におよぶ発掘調査によって、巨大な弥生集落の様子が、徐々 にわかりつつあるのも事実である。 標高 85〜86m前後の湖岸や野洲川沿いの低湿地に近い微高地では、服部遺跡をはじめ、小津浜遺跡、寺中遺跡、烏丸崎遺 跡、赤野井遺跡などで弥生時代前期から中期にかけての集落跡や墓域などが確認されている。なかでも、 120,000uにお よぶ発掘調査が行われた服部遺跡では、ひとつの弥生集落遺跡がいかに巨大であるかを示している。東西600m、南北200m におよぶ広大な面積の調査でも、集落の広がりや墓域の全貌をとらえることはできなかった。弥生時代中期後半になると、 標高 95〜96mの内陸部の微高地上にも大規模な集落遺跡が進出するようになる。下之郷遺跡、播磨田東遺跡、二ノ畦・横 枕遺跡、下鈎遺跡などがあげられる。 これらの中期集落は、琵琶湖左岸に近い場所や河川沿いに、前期から中期前半代にかけて営まれていた弥生集落から分枝 して、耕地拡大のために展開した開発集落であったにちがいない。これらの中期後半代に展開する弥生集落にはしばしば 環濠がともなっていて、直径が300〜400におよぶ大規模な居住空間をもち、多くの人間が集住していたとみられる。 しかし、弥生時代後期になると、5〜6棟前後の竪穴住居が散在居住する傾向が伺われ、弥生中期の大規模な集住傾向にあ った環濠集落から農村集落へ逆戻りする傾向がある。伝統的な拠点集落で環濠集落が形成されても、服部遺跡や酒寺遺跡 などのように直径100m前後の規模である。集落遺跡数の増加の一方で、拠点集落の小規模化がみられ、明らかに中期の社 会とは異なった集落景観が復元できる。