Music: I saw her there

横浜・三殿台遺跡考古館












縄文時代

 

 

 



 



 















 


	■画期的な集落跡の全面発掘調査■

	三殿台遺跡は、昭和36年7月から、台地全域に及ぶ集落跡を明らかにするため、本格的な発掘調査が行われた。これには、専
	門の調査員や、一般協力者として地元婦人団体をはじめ、多数の市民を含めた延べ3,500人を超える参加があり、12月上旬ま
	での約5ケ月間を要して実施された。
	この結果、発掘された遺構は、縄文時代中・後期の住居跡8戸、弥生時代中・後期の住居跡151戸、古墳時代前〜後期の住居
	跡 43戸であり、他に年代不明の住居50戸や、溝状の遺構などが確認できた。これらは複雑に重なり合っているが、このこと
	は、この台地上に居住した人々にとって、地形的にも独立したこの土地が、各時代 ・各時期を通じて良好な居住地としての
	条件を備えていたことを推測する事ができる。
	なかでも、弥生時代に属する住居跡は、全体の7割を超え、台地のほぼ中央に。長経14mに近い大型の住居跡が築かれた時
	期があったほか、長径10mを超える比較的大型の住居跡が数多く確認された事により、この遺跡の弥生時代の集落は、当地
	域の拠点的な集落と推定され、この集落を形成した集団は、付近一帯の谷戸田を耕地として生活を営んだものと考えられる。




弥生時代

 

  



	■出土遺物■

	発掘調査の結果、当然のことだが、多くの遺物が発見された。それらは、いずれも当時の生活状態を示すもので、ひとつひ
	とつが人間の自然との戦いを物語るものである。主に食物の煮炊きや貯蔵、食器に使われた瓶(かめ)、壺、鉢、高坏など
	の土器類や、土を掘ったり、また木を伐り、削り、彫る為の道具として使用された打製・磨製の石斧など、その種類も多い。
	石包丁は農耕における収穫具として使用され、糸を撚るのに使用された紡錘車、戦闘に使用されたものであろう石剣などの
	石製品や、装身具として使用された青銅製の釧(くしろ)・指輪・耳飾、鉄器類では農耕具として鎌、工具としての刀子
	(とうす)などがある。このほかに、焼失家屋では、土器類などが当時のままの位置で発見されたり、炭化した木材や、米
	などの遺物が埋もれたままの姿で発見された。



古墳時代

 

 

 

 



 

 





パネル資料

 

 



	■住居跡とその構造■

	三殿台遺跡で発見された住居跡は、すべて竪穴式の住居と考えられる。もっとも古い縄文中期(約5000年前〜4000年前)で
	は、平面がほぼ円形で、床の中央に河原石を円形に並べたり、底を欠いた深鉢の土器を埋めた炉が造られている。
	弥生時代のものでは、時代の古いものは楕円や胴膨れのした隅丸(すみまる)の方形で、平面が次第に方形化している事を
	示しており、炉は素掘りで一方に大きな川原石や粘土塊を置いたりした卵形をした楕円形のものが多い。
	古墳時代になると、平面は方形に画一化され、北壁に泥岩や粘土で築いたカマドを設置するようになる。三時代を通じて、
	多くが主柱を4本に上屋を組んだ掘っ建て柱の住居であったと想像される。発見数の多い弥生・古墳両時代では同じ時期の
	ものでも、平面形で大小の差があり、住居の規模はまちまちだった事が考えられる。これら発見された遺構のすべてについ
	ては、慎重な観察と豊かな知識を持つ専門の研究者たちによって、正確かつ詳細な記録が残されている。








 

 








この頁の解説はすべて、「考古館」の管理棟で配布されていた、遺跡紹介のパンフレットから転載した。



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