「郷土の文化財を見学する会」で、古代の狭山池の灌漑設備と、その張り巡らされた水路の一部をめぐってここに到着した。 オープンしてまだ1週間しか経っていない。コンクリートと石垣のものすごい建物だ。オープニングには太田房江知事がテ −プカットに来たらしい。かっての狭山城をイメージ復元したものだそうで、どデカい事。
【大阪狭山池博物館】 〒589-0007 大阪府大阪狭山市池尻中2丁目 TEL:0723-67-8891 FAX:0723-67-8892 ●開館 : 平成13年3月28日開館 ●入館料 : 無料 ●開館時間: 午前10時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで) ●休館日 : 毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合は翌日)、年末年始 ●交通 : 南海電鉄難波駅より高野線にて大阪狭山市駅下車、西へ徒歩約10分 ●博物館までの交通案内マップ
●沿革 この博物館は、著名な建築家、安藤忠雄氏(安藤忠雄設計事務所)の設計による。 昭和63年から始まった狭山池ダム化工事(平成の大改修)で発見された、狭山池の文化財・遺物を展示公開し、狭山池の 歴史を中心に、治水・灌漑の歴史と日本の土地開発の歴史をテーマとする博物館である。過去から現代までの土木事業の 持つ歴史的意義と内容を、後世に伝えることもこの博物館の目的である。 常設展示の概要は以下の7つのゾーンに分かれ、映像等を駆使し、わかりやすく、親しみやすいをモットーに、それぞれ 歴史的情報・文化財等を紹介している。 (1)狭山池への招待 飛鳥時代の敷葉工法(しきはこうほう)を用いて築かれた狭山池の堤(高さ約15m、幅約60mの堤の断面)を移築展示。 (2)狭山池の誕生 年輪年代測定の結果、AD616年と判定された伐採年を持つ飛鳥時代の東樋(ひがしひ)と、江戸時代の東樋を長さ約60mにわ たって展示。 (3)古代の土地開発と狭山池 僧 行基(ぎょうき)が活躍した、奈良時代(8世紀)の改修に関する情報を展示。 (4)中世の土地開発と狭山池 東大寺を再建した僧 重源(ちょうげん)が改修をおこなった、鎌倉時代(13世紀)の「重源狭山池改修碑」を展示。 (5)近世の土地開発と狭山池 慶長の改修(17世紀初め)でつくられた中樋と木製枠工(堤の基礎を補強する木組)を移築展示。 (6)明治・大正・昭和の改修 国、大阪府、地元が主体となって進められた、大正・昭和の改修でつくられた取水塔を、現地から移築して展示。 (7)平成の改修 平成の改修後の狭山池の機能と役割について解説されている。 (*)どぼくランド ロビーには、「どぼくランド」というコーナーがある。ダム建設などの土木事業についての紹介と展示。 (*)考古学者末永雅雄コーナー 狭山池のそばで生まれ生涯を送った、考古学者 末永雅雄氏(関西大学元名誉教授)の経歴と、 狭山池とのかかわりについて解説されている。
誕生した狭山池の堤には、外縁の斜面を利用して須恵器の窯がつくられた。狭山池1号窯である。発掘調査では、窯から 掻き出された灰や破片が堆積した灰原が見つかった。焼かれた須恵器は、食器に使われた杯や貯蔵用の甕などである。 これらの須恵器( TK217形式)の年代は、7世紀の前半と考えられている。東樋の年輪年代の測定結果とあわせて、狭山 池の築造年代を絞り込む重要な資料になった。
樹木の年輪の幅はその年の気候によってかわる。この特徴を利用して、発掘された木材の年輪からその年代を決定する方 法を年輪年代測定法という。 針葉樹のヒノキ・スギ・コウヤマキについては、紀元前にさかのぼる年輪グラフ(年輪幅の変動の標準)が作られている。 誕生時と東樋の樋管は、幸いにもコウヤマキで作られていた。また、表皮のすぐ下まで残っていたので、616年に切り倒さ れたこともわかった。この頃に狭山池が誕生したのである。
狭山池の提体は飛鳥時代に敷葉工法(しきはこうほう)を用いて築かれている。写真右上は敷き詰められた木の葉。狭山 池の堤体は,締め固めた粘土の上に排水材の代わりに木の葉を敷き,また土を載せ締め固めたことが写真から判る。 機械も何もない時代に大きな石を数人がロープなどで持ち上げ,少しずつ,また少しずつ粘土を締固め,木の葉を使い時 間と言う自然の力で粘土に含む水を排水し,より締め固めた粘土をいっそう硬くする、古代人の知恵には敬服せざるを得 ない。
律令国家は、農地の私有を認める三世一身法(723年)や墾田永代私有法(743年)を出して耕地の開発を進めた。ため池 や溝を多数つくり、農民を助けた行基の活躍も、このような政策と無関係ではない。 律令国家は、川の堤防やため池などの大規模な改修を積極的に行い、農業生産の安定を図った。河内国(大阪府)では、 延暦4年(785)に大きな被害を受けた川の堤防を調べ、述べ307,000人あまりで改修した。狭山池では、天平宝字6年 (762)に大規模な改修が行われた。
ここから遠くない「家原」の豪族の家に生まれた行基は、僧は寺でお経を読むための存在とされていたそれまでの仏教に あきたらず、“広く民衆を救う”という仏教本来の姿に還るべきだと唱え実践する。行基は慶雲元年( 704)頃から、都へ の伝導と社会事業を展開し始める。彼の活動は、町へ出て民衆に教えを説いたり、旅人の行き倒れを助けることから始ま ったとされる。 行基は、池や溝を掘ったり、橋を掛けたり、人々を救うために布施屋と呼ばれる施設を建てたりした。出身地の和泉の国 大鳥郷だけでなく広く畿内全域で活躍した。律令国家から弾圧を受けていた行基とその信者達は、耕地を広げようと考え ていた地方豪族や一般の人と結びつき、活動範囲を広げていった。彼の説教を支持する多くの民衆の協力を得て、道や池、 溝、港、布施屋などの社会事業・施設造りに力をそそぐ。大阪伊丹の昆陽池の改修工事にも行基は関わっている。 また、民衆のために、生まれ故郷の「家原寺」はじめ、近畿一円を中心に49もの寺を建立した。行基の名は広まり、大衆 の間で絶大の信頼を勝ち得、やがて行基菩薩と呼ばれるようになる。 律令国家は養老7年( 723)に三世一身法を出すと、行基とその信者達の活躍を認めるようになった。国家は、東大寺大 仏をつくる時にも、行基の力を借り、行基に大衆からの無心を依頼する。天平17年(745)、聖武天皇はその功に報い、 行基に「大僧正」の位を授与した。 家原寺所蔵の「行基菩薩行状絵伝」三幅には、行基が灌漑利水の施設を多く作り、農業生産の向上を指導したことなどが、 彼の由緒とともに記録されている。
「南無阿弥陀仏作善集」などによって、重源が狭山池を改修したことが知られていたが、重源狭山池改修碑の発見によっ て、重源の狭山池改修が建仁2年(1202)であることが確認された。この碑は和泉砂岩製で、長さ192cm、厚さ79.5cmの大 きさである。 土木事業に関係する貴重な石碑として、また中世の碑文として学術的価値は高い。また重源が石樋に使った石棺も新たに 数多く出土した。碑文には、摂津・河内・和泉の人々の要請により、重源が狭山池を改善したこと、また差別されていた 「非人」まで含めて、あらゆる人々が工事に協力していたことが記(しる)されている。 重源像のレプリカの前にある のが、その改修碑である。
江戸時代の東樋の取水部 江戸時代の狭山池には3つの樋がある。中樋と西樋は取水部が階段状に4段あるが、東樋は1段である。 東樋の取水部は摺柱(すりばん)の間に水の取り入れ口がり、戸関板(とせきいた)に取り付けた男柱(おとこばん)を 引き上げると水が流れ込む。取水部内の樋管の蓋にも、水を取り入れる穴が一つ開いている。取水部の両側には、「ハ」 の字形に開いた形から扇板(おうぎいた)と呼ばれる施設がつく。