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東北歴史博物館 2005.7.17(日) 宮城県多賀城市






すごい建物だ。最近の博物館は宇宙研究所のような外観をもつのがはやりのようである。




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	■ 東北歴史博物館	宮城県多賀城市高崎1-22-1 
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	東北歴史博物館は、かつて奈良・平安時代に陸奥国府が置かれ、東北経営の拠点であったといわれる「特別史跡多賀城跡」
	に隣接し、東北を代表する歴史博物館としての幅広い歴史・民俗・文化の研究、及び展示を行っている。東北の中心であっ
	た政庁跡から、多賀城廃寺跡に続く緑豊かな丘につくられた新しい博物館である。昭和49年(1974)に開館した東北歴史
	資料館を継承発展させ、10年の構想のもとに開館したものだそうである。
	旧石器時代から近現代までの東北地方の歴史を時代別に9つのコーナーに分けて、復元模型を中心に見せる総合展示室。館
	蔵の実物資料から3つのテーマを取り上げて展示するテーマ展示室。インタラクティブシアター・ワークテーブル・パソコ
	ンランドの3つのコーナーからなり、楽しみながら歴史に興味を持てるような工夫のあるこども歴史館。江戸中期の民家を
	移築・復元した今野家住宅。随時企画展示を行う特別展示室などからなる。大人から子供まで楽しみながら歴史に触れるこ
	とができるようになっており、キレイで落ち着いたスポットである。もちろんミュージアムショップやレストランも併設し
	ている。
	なお、ここでの解説(青字)は、館内の説明パネル、および帰りに購入した博物館案内から転載した。記して深謝す。




	■ 東北歴史博物館

	所在地  : 宮城県多賀城市高崎1-22-1 
	電話   : 022-368-0101 
	建物構造 : 鉄筋コンクリート造、地上4階地下1階 
	延床面積 : 15,446.11m2 
	開館時間 : 9:30〜17:00 (発券は16:30まで)
	休館日  : 毎週月曜日・年末年始12月29日〜1月3日(この他に臨時休館日あり。)
	常設展観覧料 : 一般400円 小・中・高校生無料(団体20名以上は320円、特別展観覧料は問い合せ。) 
	アクセス : ・JR東北本線  国府多賀城駅下車 徒歩1分
		   ・JR仙石線   多賀城駅下車   徒歩25分 タクシー10分
		   ・無料大型駐車場完備
		   ・東北自動車道を利用の場合  泉IC から 約30分
		   ・仙台東部道路を利用の場合  仙台港北IC から 約15分 
	問い合わせ先 :東北歴史博物館 情報サービス班 TEL:022-368-0106  FAX:022-368-0103





















仙台市富沢遺跡







 
	<埋葬された男性>
	首飾りをつけたまま埋葬されている。マダイとウミガメの頭骨(重要文化財)は、豊漁と漁の安全を願って身に着けてい
	たもの。(宮城県仙台市田柄貝塚。4000年前。)



	青森県八戸市是川中居(これかわなかい)遺跡

	この遺跡では縄文時代の漆製品が続々と発見されている。そのうちのひとつ「縄文の刀」(下)のレプリカがこの博物館
	に展示されている。最初これを見て驚いてしまった。
	「縄文時代のかたな!」「そんな馬鹿な。」「縄文時代にこんなものがあるわけがない!」
	私の知ってる縄文時代の武器といえば、石斧や弓矢・石鏃で、それも武器と言うよりは狩りの道具である。刀といえば、
	食物を貯蔵しだして、社会が階層化していき、他部族と争う必要が出てきてから、動物ではなく「人間」に対して用いる
	道具として出現したものである。「刀」という概念が縄文時代にあることが不思議だった。眺めたり、解説を読んだりし
	たがどうしても納得できなかったので、案内嬢に頼んでこの展示を担当した学芸員を呼んでもらった。案内嬢は最初、自
	分だけで解決しようとしたようだが、縄文談義に入って「あ、こりゃあかん」と思ったのか、すぐ事務室に連絡を入れた。
	ほどなくやってきた学芸員氏に上記のような疑問をぶつけてみた。

 


	是川中居遺跡で実物を見てきたという学芸員氏は、これを縄文の刀だと頑として譲らなかったが、もしこれが縄文時代に
	ほんとにあった「刀」だとしたら、日本歴史の時代概念は変わるのではないか、縄文人も刀を持って闊歩していたのなら、
	少なくとも最小単位による軍事集団が成立していたことになるし、それに刀の刃は何で構成されていたのか。金属はまだ
	ないはずだし、石の刃をこんな形の刀の刃として加工することが可能だったのだろうか?
	というような私の質問に対して、彼は、「ううーん、刀ではなくて指揮棒のようなものだったかもしれませんねぇ。」と
	いうところまで譲歩してきた。しかし、縄文の地層から出土したのだという点は繰り返し主張していた。おそらく、それ
	はほんとなのだろう。捏造ではなく、たしかに出土した遺物なのだ。だとしたら、私の疑問は解けない。その点は学芸員
	氏も同じのようだったが、現に事実として目の前にある。「縄文の刀」。実に不思議な出土物である。
	ぜひ一度現物を見てみたい。そして誰かに、縄文時代に、刀という概念がほんとにあったのか意見を聞いてみたいものだ。




	<漆塗り製品>

	縄文時代の漆塗り製品は全国で発見されているが、とくに関東以東、東北地方に多い。また漆の歴史は相当に古いことも
	確認されていて、もしかしたら旧石器時代の終末期には存在していたのではないかという意見もある。以前は日本の漆が
	世界で一番古いとされ、漆を表す言葉も、中国の陶器をチャイナというのに対して、ジャパンとよばれるほどである。し
	かし最近中国で、世界最古の漆製品といわれる木器(椀?)が発見されて、もしかしたら漆の技術も中国から伝来したの
	ではないかと騒がれている。この博物館では、広く東北一円で発見された、古代の漆製品のレプリカを展示して、東北地
	方におけるその技術の広がりを解説している。

	特に注目されるのは赤と黒の漆塗り水差しや赤漆塗りの糸玉・装飾された木製容器など。新潟県黒川村出土の黒漆塗りの
	木製水差しには、クルミの殻の細片やニワトコなど十数種の種子類がびっしりと詰まった状態で出土した。果実酒とは考
	えられない内容であることから薬か調味料を作っていたのではないかと推測されている。赤漆塗りの糸は、最近よく発見
	されることから、縄文人が好んで用いていたことが分ってきた。しかし、漆を塗って乾燥した後に結んだり丸く糸玉にし
	ていることに驚かされる。なぜなら、乾燥すれば硬くなる漆に柔軟性を持たせることは、現在では忘れられた技術だから
	である。縄文人の技術の高さが窺われる。また、是川中居遺跡で出土した樹皮製容器は、樹皮を曲げて縫い合わせて蓋付
	きの大きな丸い箱にしたもので、これまであまり知られていない木製品だった。表面に土器と同様の雲形文様が漆塗りで
	描かれていた。

	<新潟県青田(あおた)遺跡>
	縄文晩期。新潟平野の海岸近くにある遺跡。家の柱が残存し、柱をむすぶと六角形で、これまで未知の形式だった。この
	柱の配置でどのような住居が建っていたのか、また、高床式住居か平地式住居かも分かっていない。丸木舟や木製品も出
	土。
	<東京都東村山市下宅部(しもやけべ)遺跡>  		弓矢や籠などの編物の繊維製品が大量に出土。
	<青森県八戸市是川中居(これかわなかい)遺跡> 	漆製品が続々と発見される。
	<新潟県分谷地(わけやち)A遺跡>       	木製品や樹皮製品。漆塗り容器や赤い糸玉が出土。

 


	<動物型の土製品>
	イノシシやイヌ、クマなどを上手に表現した土製品がある。これらは狩の様子を描いた土器、動物をかたどった土笛など
	とともに、豊かな恵みと狩りの安全を祈る大切な道具だった。特にイノシシが数多く作られたのは、生命力が強く、一度
	に5−6匹の子を産むという多産な動物であったためと考えられている。




	<まつり>
	自然に頼って生きていた当時の人々にとって、天災は恐ろしく、また、人の生死は不思議なことだった。それは神が引き
	起こし、人の力のおよばないことだと考えていたようだ。人々は天災が起こらないように祈り、また豊かな恵み、子孫繁
	栄、病気回復などを願い、さまざまなまつり、まじないを行った。




	まつりや祈りの儀式は人々にとって重要なことだった。土偶をはじめ、土面、土版、岩版、石棒、石刀などはまつりに欠
	かせない大切な道具だった。特にたくさん作られた土偶は、女性固有の生命誕生の神秘と結び付けられ、安産や子孫繁栄
	を願うために作り出されたと考えられている。






	<くらしの道具>
	縄文人は、身近な材料を使ってさまざまな道具を作った。土器にはさまざまな形があり、炊事や食べ物の盛り付け、貯蔵
	には別々の土器を用いた。また、石を材料として、木を伐る斧、動物を解体するナイフ、木の実をすって粉にする石臼な
	どいろいろな石器を作った。このほかに木の鉢や皿、竹の籠、植物の繊維を使って編んだ布や縄も作った。

 





 


	当時の主食は木の実であった。クリやクルミは硬い殻を取るとすぐ食べられるが、ドングリやトチの実は皮をむいただけ
	ではすぐ食べられない。水にさらしたり、灰と煮てアクをとると苦味は消え食料になる。家族総出で集めた木の実は、保
	存がきくので年中食べられる重要な食料だった。








	<東北の弥生文化>
	稲作の技術は紀元前3世紀に伝わり、東北地方は米作りを生活の基礎におく生活になった。この時代に関して、南部はと
	もかく、北部は冷涼な気候のため米作りは長く継続しなかったという意見もある。しかし縄文時代は確実に終わり、東北
	地方全体は、農耕生活を基盤とする弥生時代に入っていったのである。

 

 

 

 








	<遠見塚古墳>
	仙台平野を流れる広瀬川沿いの沖積地上に作られた前方後円墳で、4世紀末に仙台平野一帯を治めた王者の墓と考えられ
	ている。全長100m、高さ6.5mの規模がある。後円部の中央に埋葬施設があり、2つの木棺が見つかっている。埋
	葬部は穴の底に年度を貼って木棺を据え、その上も粘土で覆って密封したものである。棺には、管玉、ガラス玉、櫛が納
	められていた。

	<雷神山古墳>
	仙台平野南部の名取平野を望む丘陵上につくられた巨大な前方後円墳で、全長168m、高さ12mの規模をもち、東北
	地方最大の古墳である。遠見塚古墳の勢力を引き継ぎ、さらに拡大した王者の墓と推定されている。埋葬施設は調査され
	ていないが、墳丘のまわりから葬送のまつりに使われたと思われる4世紀末ころの土器が出土している。








	<豪族の墓>
	遠見塚や雷神山という王者の墓と考えられる古墳に比べて、規模の小さい古墳も多数作られている。形も、前方後円墳、
	前方後方墳、円墳などいろいろである。それらは王者の一族や、王者に従った中小の豪族たちの墓と考えられている。

	<豪族のすまい>
	豪族たちの住まいは、周囲を掘りや柵で囲み、内部に大きな竪穴住居や掘立式の建物が建つなどの特徴が見られる。宮
	城県小牛田町山前遺跡でも、丘陵を取り囲むように掘られた深い堀が発見された。大きな建物や住居は発見されなかっ
	たが、祭祀の場所とも見られる四角形の区画も作り出されており、4世紀ごろの豪族の住まいだった可能性もある。





 


	<農民のくらし>
	巨大な古墳を作った豪族たちの権力は、農民たちに納めさせた富によって生み出された。彼らは鉄製の道具を導入して、
	農業生産力の増大を図った。農民たちは日々の農業に従事するばかりではなくて、新たな耕地の開発や、古墳の造営と
	いった土木作業にも従事させられたと考えられている。

	<くらしの道具>
	多賀城市山王遺跡からは、古墳時代の生活用具が多量に出土している。主なものには、鍬、鋤、鎌などの農具、斧や手
	斧などの工具、ざるやかご等の竹製品、薄い板で作った曲げ物などがある。また骨や角を素材にして、小刀の柄や鏃な
	ども作られている。こういった道具には、金属器による加工の跡が見られ、金属器の工具も徐々に普及していった様子
	がうかがえる。

 




	<カマドのある家>
	農民たちのすまいは、地面を一辺4−5mの四角形に掘り窪め、柱を立てて茅葺の屋根をかけた竪穴住居だった。はじ
	めのころは住居の中央に炉があったが、5世紀半頃になると、壁際にカマドが作られるようになる。これによって炊事
	の場所が固定し、さらに屋内の区分も用途に応じて決められていったと考えられる。また熱効率のいいカマドが作られ
	た事により、食生活や使用する土器も変化していったと思われる。

 

 






	<埴輪>
	埴輪は古墳に立てて並べられ、聖域を区画したり、葬者に関するまつりや儀式のために使われた。円筒埴輪ははじめか
	ら一貫して作られた。一方形象埴輪は、家型埴輪、武具などをかたどった器材埴輪、動物埴輪、人物埴輪の順に出現し、
	人物埴輪でも、鎧などを着た武人埴輪は5世紀末から現れる。この出現時期の違いは、まつりを行う支配者の性格の違
	いを表していると考えられている。

 


	<王者の出現>
	4世紀を過ぎると、東北地方南部では長さ100mを超える巨大な前方後円墳が作られた。それらは、会津盆地や仙台
	平野を治めた王者の墓と考えられている。彼らは、弥生時代以来の安定した農業生産力によって蓄えた富と大きな権力
	によって人々を支配し、いくつかの他の豪族も従えていた。





会津大塚山古墳










	<棺に納められた品々>
	南側の棺には、祭祀に用いられた三角縁神獣鏡・変形四獣鏡・勾玉・管玉・ガラス玉といった装身具、武具として環
	頭太刀、直刀、鉄剣、銅鏃、鉄鏃、矢を入れて背負う「ユキ」、工具類の鉄斧、ヤリガンナなど多くの品々が納めら
	れていた。その中でも三角縁神獣鏡は、大和政権が地方の王者に配布したものと考えられており、葬られた人物が、
	大和政権と深いつながりを持っていたと考えられている。













多賀城碑



 

 

 


	<城柵の設置>
	陸奥国では、7世紀末−8世紀に、多賀城に先立つ城柵として、仙台古郡山遺跡が作られた。8世紀前半にはそれに代
	わって多賀城が造営され、宮城県北部には新田柵など、いくつかの城柵が配置された。一方出羽国では、8世紀はじめ
	までに山形県に出羽柵が置かれており、733年になると秋田県に移される。多賀城は、両国の城柵の中心としての役
	割も持っていた。

	<城柵の展開>
	8世紀後半になると、











	<城柵の構造>
	城柵は規模が大きく、周囲は塀で囲まれている。形は方形が主だが、地形に合わせて変形しているものもある。塀には
	土を着き固めて屋根をかけた築地、材木を立てかけた材木塀、土塁などがみられ、櫓が作られているものもあった。城
	柵の内部には、儀式や宴会、重要な政務を行う中心として政庁があり、周りには行政事務をとる役所、木工や金属加工
	のための鍛冶場などの工房、警備のための兵舎などがあった。









多賀城





 


	<観音寺>
	多賀城南西の山王遺跡から、「観音寺」と書かれた土器が発見された。この土器は多数の灯明をともして仏を供養する万
	灯会に用いられたもので、万灯会は国府多賀城が主催した、公的で大規模な行事である。実際にその行事を行ったのはそ
	の付属寺院である「多賀城廃寺」で、多賀城廃寺は観音寺と呼ばれていた可能性がある。




	<多賀城廃寺模型>
	これは創建時の、多賀城廃寺の中心部分の模型である。中門から両側にのびる築地は東の塔、西の金堂を囲いながら、講
	堂の両脇に取り付いている。この配置は奈良の法起寺に似ているが、金堂の正面が南ではなく東を向いている点が異なる。
	また、講堂の北側には2つの僧坊があり、経蔵、鐘楼、蔵も置かれた。南大門や寺域を区画する施設は発見されていない。

 


	<多賀城跡(特別史跡>
	多賀城は奈良・平安時代の陸奥国府が置かれ、東北地方の城柵の中心地でもあった。その道跡は塩釜方面から南西に伸び
	る低い丘の先端にある。ここは仙台平野を一望できるところで、塩釜の港にも近く交通の要所でもあった。昭和38年
	(1963)から開始され、現在も続いている発掘調査によって、多賀城が作られた年代や施設の移り変わり、役割などが次
	第に明らかになった。

 


	<多賀城の姿>
	多賀城の外まわりは、高さ4−5mの築地と呼ばれる塀で囲まれ、全体は一辺は900m前後のゆがんだ方形をしている。
	南、西、東にはそれぞれ門が設けられ、塀に櫓がつくこともあった。城内のほぼ中央には、さらに築地で囲まれた政庁が
	置かれ、その周りには行政実務を行う建物が、役割ごとに配置されていた。


	<多賀城の役割>
	多賀城は、奈良から平安時代に掛けて、現在の福島県から岩手県にまたがる陸奥の国を治める国府としての役割のほか、
	按察使(あぜち)がいて、陸奥出羽両国の行政を監督する役目を持っていた。また、東北各地に置かれた城柵の中心とし
	て、東北北部のエミシといわれた人々を支配下に組み込む任務があり、奈良時代には、城柵を守る兵士を管轄する鎮守府
	も置かれていた。



 

 


	<内部の様子>
	政庁は、一辺100mの築地で囲まれた最も重要な施設で、その中には広場を囲うように、瓦葺で柱などが赤く塗られた
	白壁の建物が整然と配置されていた。ここでは国司たちが重要な政務を行ったり、儀式や宴会を行っていた。政庁の周り
	には、役人たちが日常的な事務をとる建物や、木工・鍛冶などの工房、警備に当たる兵士たちが詰める竪穴住居が建って
	いた。



 

 

 

 

 

 


	<働く人々>
	多賀城内での仕事には、一般行政事務のほかに、道具・工具・武器類の製作、施設の管理や補充、食事の準備、警備など
	さまざまなものがあった。少人数の国司だけではとても処理できない仕事量で、陸奥国内から多数の人々が集められた。
	9世紀初めの資料をみると、全体の数は総数1200を超えていたことがわかる。これらの人々が多賀城を支えていたの
	である。

 


	<役人の執務風景>
	ここでは、史生や書生が日常の事務を行っている様子が再現されている。右の机は、陸奥守の決済を得た案を横において、
	郡に出す正式文書を清書している場面である。左の机は書生が木簡づくりをしているところで、書き直す部分を削ってい
	る場面である。奥の棚の巻物は、提出した文書の控えや、作成途中の文書で、ほかにいくつか文具も置かれている。

 


	<兵士>
	多賀城の兵士は、陸奥国内の軍団から集められ、普段は警備や施設の修理などの仕事をしていた。9世紀はじめではその
	数は500人で、出土資料から見ると、白河団や安積団など、現在の福島県から来た兵士が多かったようである。兵士の
	勤務日数は、10日を単位として年間60日で、刀や弓矢はもちろん、故郷から多賀城までの往復の食料も自己調達だっ
	たので、兵士とその家族にとっては大きな負担だった。

 


	<多賀城廃寺>
	多賀城の南東およそ1kmの丘の上にあった多賀城の付属寺院で、仏教の力によって東北の支配が順調に行くように願っ
	て建立された。門、塔、金堂、講堂、経蔵、鐘楼、僧坊などの建物が整然と配置されていた。主要な建物の配置が、大宰
	府の付属寺院である観世音寺と同じで、これを手本に建てられたと考えられている。

 


	<国家と仏教>
	古代国家は、仏教には国家を守り社会の不安を取り除く力があるとして大いに敬った。陸奥国でも、仙台郡山遺跡、古川
	市名生館管衛遺跡、多賀城跡など、7世紀末から8世紀はじめにかけて国家が設置した施設には、寺院が付属することが
	よくある。さらに8世紀中ごろには、聖武天皇が全国に出した詔(みことのり)にともなって、陸奥国には国分寺、国分
	尼寺が仙台市に建てられた。



 




	<古代都市・多賀城>
	9世紀になると、多賀城を貫く南北大路と、これとほぼ直交する東西大路を細分して100m毎に小路が造られ、碁盤の
	目状の道路網が、都市計画に基づいて整備された。10世紀にはさらにその範囲が広がる。道路で仕切られた区画には、
	国司など上級役人の広い邸宅や、多賀城を支えてさまざまな仕事をする多数の人々の住居などが配置され、町並みが構成
	されていた。町並みの外側には水田が広がっていた。

	<国司たちのくらし>
	東西大路に面した3ケ所で、陸奥守など役人の邸宅跡が発見されている。100m四方の区画が1つの建物で、彩薬をか
	けた陶器など、高級品が多いのが共通した特徴である。

 




	<まつり・まじない>
	古代には、吉凶を占ったり、魔物や怨霊のたたりを鎮めたり、身についた穢れを清めるために、まつりやまじないが盛ん
	に行われた。多賀城の町並みからも、仏を供養する灯明皿、地鎮の土器、穢れをはらう人面墨書土器や人形、妖怪退散の
	まじないを書いた木札、占い用の卜骨などがたくさん出土している。個人的ないのりばかりでなく、公的な行事として行
	われることもあったようである。

	<町並みのくらし>
	町並みの各区画からは、建物跡や井戸跡などが発見されている。建物は規模の小さいものが多く、多賀城を支えるさまざ
	まな仕事をしていた人々の住まいも含まれていると思われる。また出土品には土器や木製の容器をはじめ、鎌、手斧、鋤、
	鍬などの道具があり、町並みに住んだ人々の暮らしぶりを知ることができる。




	古代

	<エミシ>
	エミシ(蝦夷)とは、古代中央政府が、支配に従わない東北地方の人々を、農業を知らない未開野蛮な異民族という意味
	をこめてつけた名で、中世以降の記録に現われる蝦夷=アイヌとは異なる。最近の発掘調査による研究結果では、農業を
	主体とした生活をおくっていたことがわかっている。




	<エミシのくらし>
	東北北部の古代の集落跡は、中央政府がエミシと呼んだ人々の生活の跡である。発掘調査の結果、それらの集落跡では、
	東北地方南部や関東地方の人々と同じような竪穴住居に住み、同じ形や種類の土器を使い、鉄製の農具で田畑を耕してい
	た暮らしぶりをしていたことが確かめられている。また、小型の古墳もあることから、エミシの社会にも権力者がいたこ
	とがわかる。

 


	<交流>
	青森県や岩手県にある7世紀後半〜8世紀初め頃の有力者の墓には、律令政府側の地域で出土する刀や甲冑などの武器が
	副葬されていることがある。このことからエミシの社会が孤立していたのではなく、他地域と交流していたことがわかる。
	8世紀以降の交流を示すものとしては、律令政府から与えられた腰帯の飾り金具や和同開珎などがある。

 


	<エミシと政府の武力衝突>
	エミシと政府は、陸奥国が置かれたときや、多賀城が建設されたときなど、政府の支配が強まるたびに争いを繰り返して
	来た。特に774年のエミシの橇生城への攻撃で始まった戦いは、780年の伊治公咎麻呂の事件を経て、約40年にも
	及ぶ長いものになった。しかし9世紀のはじめには、長い戦いも一段落する。

	<坂上田村麻呂>
	坂上田村麻呂は大納言にまでなった貴族で、武将としても有名である。東北地方地かかわりが深く、796年に陸奥出羽
	按察使・陸奥守・鎮守将軍となり、翌年には征夷大将軍も兼ねてエミシとの戦いを指揮した。802年に戦いを収拾する
	と、水沢市の胆沢城や盛岡市の志波城を造った。京都の清水寺を作ったと伝えられるが、東北地方にも田村麻呂に関する
	神社や伝承が多く残る。

 


	<武器・武具>
	戦いには甲冑や刀などの武器や武具が必要である。政府はエミシとの戦いのために、東日本の諸国にこれらを負担させた。
	茨城県鹿の子C遺跡で見つかった、武器や武具を生産する大規模な鍛冶工房は、このことを示す一例と考えられる。また
	エミシ側で使用した武器も、これら政府側のものとほとんど変わらないことがわかっている。











 

大町通り東側より、仙台城大手門を望む。(お願い:この模型は非常に壊れやすいので、触らないようにお願いします。)

 


	<新政府の方針>
	戊辰戦争のさなかに、新政府ははやくも国政の基本方針を発表した。諸大名などの幅広い意見を尊重したり開国を認めた
	りした宣言を出し、一方では江戸時代と同じようにキリスト教を禁じるなどの方針を示し、幕末の社会混乱に不安を感じ
	ていた多くの人々や諸外国に、政府の統治能力を示そうとした。また東北地方の人々には特別に文書を配布して、戊辰戦
	争後の支配を円滑に進めようと準備を進めた。

	<東北諸藩のゆくえ>
	戊辰戦争に敗北した東北諸藩は明治新政府から特に厳しく扱われ、大幅に領地を削られ、さらに別の土地へ移された大名
	もいた。家臣たちの給与は大幅に削減され生活は困窮した。仙台藩の家臣たちのなかには新天地の北海道へ移住し、曠野
	を開墾して農業に従事するものもいた。また、本州最北端である青森県下北半島へ移された、会津藩の家臣たちの生活も
	辛酸を極めた。







	「蝦夷の地」に争乱の世紀 鉄やじり、縛られた人骨出土
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	林ノ前遺跡は、平野を見下ろす山に築かれた典型的な防御性集落だ=02年10月、青森県埋蔵文化財調査センター撮影 

	
	手と足を縛られた状態の人骨も出土、戦いを生々しく伝えている=02年6月、青森県埋蔵文化財調査センター撮影 

	 青森県八戸市の平安時代後期の集落跡・林ノ前遺跡(10〜11世紀)から、前例のない数の鉄のやじりと縛られた人骨
	などが出土した。激しい戦いの跡と見られる。蝦夷(えみし)の地とされた北東北から北海道南部の集落は、近年の発掘で
	この時期百数十年にわたり、平地を避けて山頂や環濠(かんごう)の中に作られていたことが判明しており、今回の発見で
	この特異な集落形態は敵の襲撃に備えたものだったことが確定的になった。吉野ケ里遺跡で知られる倭国(わこく)大乱や
	戦国時代に匹敵する長期の争乱社会が見えてきた。 
	 発掘は青森県埋蔵文化財調査センターが03年まで4年間行った。やじりは約200点、遺跡全域でまんべんなく見つか
	った。戦後回収される貴重品だったやじりの出土例としては空前の規模。人骨は10体見つかったが、埋葬されたものはな
	かった。両手・両足を縛られた全身骨1体と、頭骨だけが3個も見つかった住居もあった。同センターは襲撃を受け、激し
	い戦いの末に放棄された集落と見ている。 
	 林ノ前遺跡は八戸市の中心部から北西に約5キロ、切り立ったがけの上にある。130軒の竪穴住居が出土した。山頂に
	は東西30メートル、南北70メートルの環濠を設けた支配者の居住区が確認された。 
	 盛岡市付近から北海道南部にかけて、山の上に築いたり、環濠や土塁を巡らしたりする特異な集落の発見が90年代から
	相次いだ。約50にのぼる。一方、通常の平地の集落はこの時期約150年も発見例が途絶える。特異な集落を「具体的な
	戦いの跡がない」として宗教的施設などと見る説もあったが、今回の発見は、戦乱社会の敵に備える「防御性集落」と見る
	説に決定的な材料となった。 
	 朝廷は馬や砂金などを産する東北地方を支配しようと8〜9世紀に武力進出を繰り返すが、盛岡市付近で停滞。10世紀
	になると、直接支配でなく朝貢を求める政策に転じる。従来の通説は、この政策転換後、秋田、岩手で前九年合戦(105
	1〜62)が起こるまで、この地域は平和が続いたとしてきた。防御性集落は政策転換後の10世紀後半に登場し、奥州藤
	原氏の支配が及ぶようになる12世紀に姿を消す。 
	 調査終了後、県道が開通し、遺跡は周辺の一部を除いて残っていない。 

	〈工藤雅樹・東北歴史博物館長(考古学)の話〉 
	 無防備では危険で生活ができず、防御性集落を営まざるをえない社会があったことを実証する初の発見だ。この時代の蝦
	夷の地は平和だったと考えられてきたが、朝廷が歴史の編纂(へんさん)をやめたために記録が残っていないだけだ。大軍
	を差し向ける代わりに、朝廷は「夷(い)をもって夷を征する」政策をとった時代で、武器や食料の援助をめぐる朝廷側と
	のパイプの奪い合い、交易の富の争奪などが原因となり蝦夷内部の戦いが続いたのだろう。林ノ前での戦いは、前九年より
	少し早い11世紀の前半、集落の連合体同士といった規模が考えられる。 	(05/05 06:40) asahi.com


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