Music: Never Falling Love Agin

2002.8.15(木)




 




		入場券を買って展示ホールへ入ると、正面にどデカイ熊野磨崖仏のレプリカが鎮座している。国東半島の付け根、豊後高田市田染
		(たしぶ)地区の、陽平(ひなただいら)の山中に彫られた大日如来像である。六郷山寺院の一つ、今熊野山胎蔵寺から鎮守熊野
		神社へいたる石段脇の岩肌に浮き彫りにされている。11世紀頃に彫られ、12世紀にも追彫されたのではないかと言う。





縄文・弥生・古墳時代











 







 





古墳時代(風土記の丘)



 



 



 

 







 



 

三光村上ノ原35号横穴墓(模型)−5世紀後半から6世紀後半にかけて7体が葬られており家族墓と考えられている。






国東の仏教文化



		
		【豊の古代仏教文化】
		我が国への伝来後、仏教が地方へ浸透していったのは、残される寺院遺構などから7世紀後半以降と見られている。その頃の福岡県
		東部と大分県をあわせた地域を「豊」(とよ)の国と呼び、この地域では現在19ケ所の古代寺院跡が確認されている。しかし、い
		ずれも7世紀中頃を遡るものではない。
		正倉院に残る戸籍や「豊前の国風土記逸文」によれば、豊の国(主に豊前)に多くの渡来人達が住んでいることが記されており、彼
		らが様々な信仰をもちこんでいた可能性が指摘されている。国東半島を中心とした夥しい磨崖仏や、六郷山文化と呼ばれるこの地方
		独特の仏教文化の浸透と隆盛は、この渡来人達による渡来信仰の下地があったからだとも言える。

		豊の地域の古代寺院跡の発掘調査はすでに殆どの寺院跡で行われているが、出土する軒瓦文様に顕著な特色が見られる。百済系単弁
		蓮華文、新羅系唐草文、高句麗系軒丸瓦など、朝鮮半島系のものが多くの寺院でデザインを共有しつつ用いられているのである。
		この地域の一体感をよく物語っている。






		平安後期の阿弥陀堂建築の数少ない遺構の一つである富貴寺大堂は、国東半島の付け根にあたる豊後高田市大字蕗(ふき)にあり、
		古くは蕗寺、或いは阿弥陀寺と呼ばれていた。国東六郷山の天台宗山岳寺院のなかにあっては、際だって浄土色の濃い特異な存在で
		ある。この寺についての確かな記録はないが、鎌倉時代の貞応2年(1223)に、宇佐八幡大宮司の宇佐公仲が阿弥陀寺に田畑を寄進
		した文書がある。大堂全体が、まさに浄土信仰の実践の場として作られている。





  



 
天福寺奥の院の塑像三尊仏(上左:重要文化財)。中尊如来座像は剥落著しいが、両脇の菩薩立像は比較的残りが良い。



 
長安寺木造太郎天・二童子立像(上左)。 「くにさきの石造物」コーナー(上右)。
		
		【くにさきの石造物】
		国東半島は、全国的にも石造物が豊富に所在する地域である。磨崖仏をはじめとして、独特な形式を持つ国東塔や宝莢印塔、さらに
		五輪塔・板碑など、その種類は多種多様である。これらは、六郷山寺院の僧侶などにより造立されたものと考えられるが、その伝統
		は、国東の石工達の間に今も受け継がれている。
		くにさきの石造物は、寺の境内だけでなく、路傍に一群をなして所在するものも少なくない。これは六郷山寺院により開発された国
		東半島の山や里では、ムラ全体がひとつの寺院として認識された事にもよるが、とくに中世以来現在にいたるまで、石造物は村落に
		おける主要な構成要素の一つとなっている。

		【五輪塔・板碑】(上右の右奥:板碑:護聖寺:重要文化財:複製)
		中世の国東半島においてもっとも多く見られる石造物である。五輪塔は、空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の各部からなり、宇宙の根
		源を象徴的にあらわしたものである。五輪塔は上写真の中央2塔。
		また板碑は、ある特定の仏菩薩に対する信仰をあらわしたもので、板状の表面に仏の象徴である梵字を示し、人々のさまざまな思い
		を込めた経文や願文が刻まれている。
		
		【国東塔】(上右の左:国東塔:岩戸寺:重要文化財:複製)
		宝珠に火炎をめぐらせ、壺型の塔身を蓮華座の上に乗せた宝塔で、その名前は、国東半島に数多く所在することに由来している。
		納経や生前供養、墓標などの目的で造られたものであるが、岩戸寺の国東塔は弘安六年(1283)の紀年銘を持ち、鎌倉後期の元寇の
		時期に、国家的祈願を目的に製作された事がわかる。


 




宇佐八幡信仰




【参考資料】  大分県立歴史博物館「総合案内」 平成12年7月1日発行


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