Sound: Only a Northern song



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	日曜日、滋賀県野洲の銅鐸博物館にいった。正式には「野洲町立歴史民俗資料館」というのだが、あんまり銅鐸ばかりある
	ので通称「銅鐸博物館」と呼ばれている。カラリと晴れたいい天気の日曜日だった。下左は野洲駅内。ヘタなしゃれのお出
	迎え。








	
	最初の展示室に入ると銅鐸の原型が飾ってある。銅鐸はそもそもこのような(下右)家畜の首に付けたり、棹の先につけて
	音をならす青銅器として、中国で4000−3500年前に作られたものである。約2500年ほど前に日本にも伝わったものと推定さ
	れるが、日本では当時まだ家畜は居ず、だんだんとカネだけが大きく豪華になり、祭祀の道具として製作され続け、ついに
	はこの博物館で見る事ができるような超大型の銅鐸まで製作する事になった。しかしその銅鐸も、おそらくは新しい勢力に
	押され弥生時代初期後半には忽然と姿を消す。
	今日発見され続けている銅鐸は、一つとして整理された状態のものはない。みな地中から隠されたような状態で発掘される。
	これは、銅鐸信奉集団がやみくもに新勢力から隠した事を窺わせる。









<銅鐸以前の野洲地方>







<銅鐸の模様>

 



<ずらり並んだ銅鐸群>

 

 



 





<銅鐸の鋳型と、レプリカ銅鐸の製作>



 



 

製作に失敗した銅鐸と成功した銅鐸。右の銅鐸の前に並んでいるのが用いられた材料。
 

 


館内のビデオで製作の手順を解説して、その上の模型が自動的に動いて銅鐸ができあがるまでを再現する。





<大岩山古墳から発見された日本最大の銅鐸>

 


	明治14年(1881)滋賀県野洲町大岩山に遊びに来ていた14歳と16歳の少年が大中小3個の銅鐸を発見した。翌日、その話を聞
	いて駆けつけた大人達によりさらに11個が見つかり、計14個の銅鐸が発見される。この銅鐸の中には総長 134.7cmという、
	我が国で最大長の「袈裟襷紋銅鐸」が含まれていた。銅鐸は直ちに滋賀県令から博物局長に届けられ、東京帝室博物館(現
	東京国立博物館)で詳細に調査された。
	その後地元の強い要望もあり、2個を東京に残して後は全て地元へ返還されたが全てが散逸し、現在地元には1個も現存して
	いない。
	この博物館の銅鐸もレプリカである。2個は東京国立博物館にあり、訪問すればいつでも現物を実見できる。残り12個の内10
	個については、梅原末治、佐原真氏らの研究により 所在が判明している。しかし国内外の美術館、大学、寺院、個人等に散
	在しており、一般人が気楽に見学できるのは上野の国立博物館のみである。滋賀県人は、目先の欲望に負けて、世界に誇る、
	日本一の冠たる貴重な文化財を失ってしまったのである。残る2個の銅鐸は現在も行方不明である。(私は秘かに、1個は和
	歌山の道成寺にある銅鐸がそうではないかと睨んでいるのだが、歴史倶楽部の和歌山出身の平さんはその話をすると「いや、
	あれは和歌山にもとからあるものだ。」と怒る。)
	その後時代を経て昭和 37年、小篠原地先(こしのはらちさき)の東海道新幹線の土取工事現場から、計10個の銅鐸が発見さ
	れる。明治の銅鐸が散逸してしまった事を知っていた当時の滋賀県文化財課の 水野正好(現奈良大学学長)は、直ちに知事
	に掛け合い保存センターを琵琶湖畔に設け、中央と掛け合ってこれを全て滋賀県に残す事に成功した。 そのおかげで、この
	時の10個の銅鐸は今も滋賀県蔵としてこの博物館にある。

下の書き物は、明治14年の発見時に草津警察署に届け出た「御届書」。

明治時代の発見時には、銅鐸を「唐金古器物」と呼んでいた事がわかる。





 

 

  



 



埋めたとき(弥生時代)と、明治の発掘当時の想像図。
 



神妙に展示物を眺める服部さんと平さん。「一個一億、一個一億」と考えてる?

 

 




 

 


邪馬台国大研究・ホームページ/博物館めぐり/ 野洲銅鐸博物館