横浜市は、現在人口330万を数える大都市である。東京近郊にあって異国情緒を醸し出す雰囲気と、港ヨコハマに象徴される ハイカラなイメージとが相まって、現在も人口は増加中である。 この横浜に19995年1月、はじめて歴史博物館が創設された。近世に入ってからは国際的にも知られる大都市となった横浜だ が、それ以前は関東地方の一寒村にすぎない。我が国開港の第一号となってからは、急ピッチで開発が進み、海側はもはや 古代を窺い知るすべも無いほど開発されつくしている。しかし山側はそうでもない。急増する人口に対応するため丘陵や山 が切り崩されだしたのはつい最近の事である。 そんな中「大塚・歳勝土遺跡」が出現した。横浜市は、これを機に横浜の歴史を集大成した博物館を設立したのである。単 なる展示ではなく、子供達が学べるような学習コーナーやホールも備えている。 屋上からは歩道橋を経由して「大塚・歳勝土遺跡」へ行けるようになっている。
市域で一番古い遺跡は、旭区の矢指谷(やさしやと)遺跡、都筑区の北川(きたがわ)貝塚である。約 20,000年前の地層か ら出現している。20,000年前は氷期のまっただ中で、気温は今より7,8度低く海面も現在より100m程低下していた。東京湾も 陸地であり、横浜にも海はなかった。 三河湾や大阪湾もなく瀬戸内海も勿論出現していない。北海道はサハリン、大陸とつ ながっていたようであるが、 玄界灘はわずかに大陸との間に海峡があった。そのような時代、この横浜にも人々は住み着き 生活していたのである。ナウマン象やオオツノジカの骨などが発見されている。
縄文末期、九州に稲作文化が伝播した頃東北地方ではまだ縄文文化が続いていた。後に亀ケ岡文化と呼ばれる文化がおおい に発達していたのだ。この頃の遺跡は横浜市域にはほとんどない。他の地域と同様に人々はより有利な土地を求めて移動し、 或いは耐えられないほどの寒気と環境変異により死に絶え、殆ど無人の地域になっていた。それが突然、約2000年前頃から あちこちにムラが出現する。 「大塚・歳勝土遺跡」もそういうムラの一つである。どこかからやって来た人々は、携えてきた稲作文化を基に、低地や河 口に水田を作り出した。荒れ野は耕され、丘陵は宅地となり環濠がそれを守る。日本中に広まった「弥生文化」の到来であ る。環濠は西日本の弥生遺跡には多く付随しているが、この「大塚・歳勝土遺跡」はそのタイプのムラとしては東限に位置 している。
古墳時代の日本列島は、驚くほど均一化している。古墳の様式、埋葬方法、石室の形式、古墳から出土する副葬品、等々、 いづれも似通った様式を保持しているのだ。地域によっては「渡来系」の影響がかなり濃く出ている所もあるが、殆ど似通 っている。横浜でも須恵器が出土するが、初期には近畿地方からもたらされた。後期には横浜でも須恵器の生産遺跡が出現 するが、多くは近畿からの土器のようである。大和朝廷につながる何らかの勢力が、東へ驀進してきた可能性を示唆してい る。