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明日香村民俗資料館・眞神荘 2011.2.6 奈良県明日香村



	
	錦織さんと、飛鳥京の苑地遺構に関わる発掘調査(第五次)現地説明会を見学した。その後飛鳥駅へ向かって歩いたが、途中この
	資料館に寄った。亀石遺構の前、万葉文化館のとなりにある。今まで飛鳥には何十回と来ているが、ここには入った事がない。
	そもそも私は「民俗資料館」にはあまり興味がないのだ。何が展示してあるが大体想像がつくし、民俗学にもあまり興味は無い。
	だがこの日は、時間的にも余裕があったし、錦織さんも入った事がないというので、では見ていこうかという事になった。
	「飛鳥好き」を自認するなら、少なくとも一度は見ておかねばなるまいとも思った。



	
 	明日香民俗資料館・眞神荘

	この建物は、明日香村の庄屋だった田島家の旧宅を解体・移築して、資料館として使用している。建築されたのは18世紀初頭の
	元禄・宝永の頃だと言うから、約300年前の、江戸時代前期である。赤穂浪士が討ち入り、大岡越前守が江戸奉行となり、近松
	門左衛門が死んだ頃で、将軍は徳川吉宗であった。まったく、TVドラマの中でしかイメージ出来ない時代の建物なのだ。恐れ入
	るしかない。よくまぁ残っていたものである。江戸時代の明日香の暮らしを知るには絶好の場所である。

	入り口には、萱葺き屋根の大和棟農家が移築されており、江戸時代の生活様式を目にすることができる。館内では養蚕、染色など
	に用いられた道具類をはじめ、スライドやパネルなどで、明日香村の歴史や伝統行事を紹介して、大和の奇祭や信仰生活様式など
	を窺い知る事が出来る。

	開館時間	午前9時〜午後5時(入館受付は午後4時30分まで)
	休館日		毎週水曜日(祝祭日、振替休日の場合はその翌日)年末年始
	交通のご案内	近鉄橿原神宮前駅東口から飛鳥駅・岡寺前行きバス、万葉文化館西口下車
			JR・近鉄桜井駅南口から石舞台行きバス、万葉文化館下車
	問い合わせ	明日香民俗資料館 TEL:0744-54-4577 (財)明日香村観光開発公社







感慨深そうに民家の造りを眺める錦織さん。



子供の頃はどこでもこんな家だったし、いまでもあるよね、こういう家。農村の家の造りなんて、江戸時代からそう変わっていないかも。



	
	私の実家も福岡県の山間の村で庄屋だったが、同じような座敷の造りだった。我が家はもっと一回り広いが、同じように襖を取っ
	払って「中の間」とひと続きの部屋になって、宴会や集会に利用されていた。生前の祖母から、「嫁入って来た頃は、秋になると、
	この一つになった大広間で、年貢米を届けに来た二百人くらいの小作の人を饗宴する飯炊きに、朝から晩まで追われていた。」と
	いつも聞かされていた。その頃に生まれたかった。



もともとは5つ繋ぎだったという「かまど」。



私の実家も、私が小学校低学年の頃まで4つ繋ぎの「かまど」が現役だった。これで炊いた飯はうまかったなぁ。



	
	本日の飛鳥座神社の「おんだ祭り」に合わせて、今日、このかまどで餅米を炊いて、上の石臼で餅をついたらしい。「朝来れば食
	べられたのにねぇ」と受付のオバサン。綺麗に掃除し終わった後に我々はきたのだ。



玄関口から庭への入口。





これも、この前(私が子供時代くらい)まで、どの家にもあった。勿論我が家にもあったが、いまどこへ行ったのだろう。



上も明日香村の旧家を移築したもの。古代ガラスの復元実験時に使われている。中にその道具や資料があった。



	
	明日香村	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆。

	明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部に位置する村。中央集権律令国家の誕生の地である事から飛鳥時代の宮殿や史跡が多く
	発掘されている事で知られ、「日本の心の故郷」とも紹介される。
	まわりを丘や山に囲まれた小さな盆地に位置する。 隣接している自治体は、橿原市、桜井市、高市郡高取町、吉野郡吉野町である。

	1956年(昭和31年)7月3日 - 旧高市郡阪合村、高市村、飛鳥村の3村が合併して「明日香村」になる。1972年(昭和47年)3月21日 
	- 高松塚古墳から彩色壁画が発見される。日本で唯一全域が古都保存法対象地域の自治体である。また、村全体の世界遺産登録に向
	けた計画が具体化している。明日香村特別措置法によって村内全域が歴史的風土保存の対象となっている。遺跡・景観保全のためや
	むを得ないが、この厳しい開発規制のため人口は減少している。
















今日がこのおんだ祭りの日である。後で見に行くとしよう。





湯(水)を入れる小さな臼が横にくっついている、一木の木臼。











これがもともとあった田島家の「かまど」。本来は5つあった。











古墳の中からも発見されている(日本では二例)火熨斗(ひのし)。いったい、いつ頃まで使っていたものだろう。







	
	ここには「眞神荘」という別名がついている。眞神(真神)とは、川原寺・飛鳥寺あたりからこのあたり一帯を指す地名の古名である。
	上の「萬葉集」の「大口真神原」の歌、
	大口の真神の原に降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに
	に出てくる、「大口真神原」という地名がそれにあたる。今日では「大口の」という言葉は真神にかかる枕詞になっているが、元々は
	「大口真神原」と2つがくっついた地名のようだ。
	国語辞典( NET大辞泉など)を見ると、大口も真神も「狼」の事だと書いてある。なぜ大口や真神が狼なのだろうか。それは「大和國
	風土記」に書かれていたという、
	是はむかし明日香の地に老狼在ておほく人を食ふ。土民畏れて大口の神といふ。名其住処号大口真神原と云々。見風土記。日本紀にも
	狼を貴神といへり。「枕詞燭明抄」『萬葉集古註釈1巻』 
	に由来しているのだろう。
	しかし日本書紀には「真神原」という地名は出現するが、「大口真神原」という地名は「風土記」(*1)以外には現れない。しかも
	この「大和國風土記」というのは残存しておらず、引用されて風土記の文章がいまも残っている「風土記逸文」にもない。「老狼在て」
	の文章は、上記の「枕詞燭明抄」に、訓読みの「風土記断片」として残っているだけなのだ。この「大口真神原」の由来譚があるので、
	真神原には昔「狼」が居たとされているのである。はなはだ心許ない由緒ではある。

	<*1> 完形で残存するのは「出雲国風土記」のみ。「播磨国」「豊後国」「肥前国」「常陸国」の4カ国の風土記は、一部残存。











すぐ隣は、近代的な展示設備をそなえた「万葉文化館」。館内に、飛鳥時代の「飛鳥工房跡」の遺跡も保存されている。






飛鳥座神社 おんだ祭り


	
	錦織さんと、飛鳥京の苑地遺構に関わる発掘調査(第五次)現地説明会に参加して、この「おんだ祭」に遭遇した。おんだ祭とは、
	正式には「御田植神事」といい、露骨なまでに「夫婦和合」を表した儀式があることで有名である。「飛鳥坐神社」(あすかにい
	ますじんじゃ)へは以前にも例会で訪れたが、今日この祭りをやっているとはしらなかった。参道には屋台が立ち並び、沿道、鳥
	居をくぐった石段にも観光客・カメラマン達がひしめいてエラい混雑である。普段はまったく静かな一帯だが、この日ばかりはた
	くさんの観光客で賑わっていた。
	稲作にまつわる諸処の祭りと違って、この祭りはまさしく奇祭である。徹底して「和合」、つまりSEXに終始している。石段を
	登って行った境内にも「夫婦和合石」とか「陰陽石」とかが並んでいたし、お土産グッズにも「ちんぽ鈴」などというものがある。
	三河の「てんてこ祭」、尾張の「田県祭」、大和江包の「網かけ祭」とともに、西日本における【四大性神事】とされている。



	鳥居へ近づくと、なにやら嬌声とともに「バシン、バシン」という乾いた音が聞こえてくる。見ると、牛面や翁や天狗の面をつけ
	た男が手に竹の棒を持ち、そこらじゅうにいる人々の尻を手当たり次第に叩いている。逃げ惑う子供達や、若いカップル。竹の先
	端はササラ状になっていて、音は凄いがさほど痛いわけでもなさそうだ。しかし、叩かれた人によれば「めちゃくちゃ痛かった」
	と言っていた。だが、叩かれた人々は一様にうれしそうで、叩かれるためにこの祭りに来ているような感じである。実はこれには
	「悪魔よけ」の意味もあり、尻を叩かれた人は身体についた厄が落とされ、1年間無病息災となる。そしてこの祭りの騒ぎが大き
	ければ大きいほどに村には豊作が訪れるのだという。
	
	毎年2月の第1日曜日午後2時より、当社の例祭「おんだ祭」が斎行されます。
	お祭りに先立ち、午前11時頃より、地元青年団が扮する天狗・翁・牛らが厄除け神事として、ササラ(竹の先を細かく裂いた棒)
	を持ち、参拝者のお尻を叩きながら、境内を暴れ周ります。
	<第壱部>
	第壱部では、五穀豊穣を願い、御田植神事が執り行われます。天狗、翁、牛が、昔ながらの道具を使い、田植えをします。途中、牛
	が怠けた素振りをしたり、笑いを誘います。 
	<第弐部>
	天狗、お多福が仲睦まじく肩を寄せ合い登場します。御神前において昔ながらの形式で結婚式を執り行い、その後、夫婦和合の儀式
	が面白おかしく演じられます。ここで使用される、幻の紙と呼ばれる「福の紙」は参拝者に撒かれます。数少ないこの紙を手に入れ
	られた方はよほどの幸運者で、その方の家は益々繁栄すると言い伝えられています。
	(飛鳥坐神社ホームページより)






	この神社は創建時期などは不明点だが、「日本書紀」の時代からその存在がほぼ確認できる。衰退期を挟みながらも、江戸時代には
	高取藩主となった植村家政より、城の鬼門に当たる土地にあったことから篤く信仰された。国のまほろばと称される大和・奈良県の
	なかでも、とりわけ古代の息吹を残す地が明日香村である。橿原神宮や飛鳥寺、酒船石などといった名所旧跡が集中し、年間を通じ
	て観光客も多いが、普段ここを訪れる人はそういない。



天狗とお多福、おんだ祭りの主役である。これから石段を登って、舞台での儀式に臨むようだ。







二人の仲人役の翁。






	おんだ祭の舞台となる「神楽殿」と「西良殿」前はこの人混み。ベストポジションは拝殿前のやや小高いところだが、2,3時間前
	には陣取っておかないといい写真は撮れないようだ。




今から夫婦和合の儀式がはじまるようだが、あまりの人混みに「もう帰ろうか?」と境内を後にした。どういう祭りか大体想像できる。



夫婦和合の儀式へ向かうお多福と天狗。それを先導する仲人役の翁。
	
	毎日JP [関西再度STORY]  <その55> 夫婦和合の「おんだ祭」2011年2月16日 城島徹

	奈良県明日香村の飛鳥坐(あすかにいます)神社の「おんだ祭」に出かけた。古代のおおらかな性信仰を伝える民俗学的に貴重な
	祭りだ。奈良支局に勤務していた1980年代初頭、取材に出かけて仰天した。あけすけな夫婦合体の所作が舞台上で披露されていた
	からだ。いざ、爆笑の境内へ――。

	   ◇   ◇   ◇

	初任地の奈良は歴史好きな人にとってはウキウキするような観光地だ。とりわけ明日香村は興味深い名所があり、日本史にうとい
	私も旅行気分でよく出かけた。高松塚古墳、石舞台古墳や酒船石、亀石、猿石などミステリアスな史跡が多く、小高い甘樫丘(あ
	まかしのおか)に上って、香具山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の大和三山を眺めたりしたもの
	だ。
	そうした明日香村の一角にある飛鳥坐神社はこれまた不思議な場所だった。なにしろ境内を歩くと、棒状の男根を模した立石が並
	んでいる。「なんだ、こりゃ?」。モノがモノだけに、あまり派手な宣伝はされていなかった名所だ。その神社で毎年2月の第1
	日曜に、五穀豊穣(ほうじょう)、子孫繁栄を祈って行われるのが「おんだ祭」だ。その由来は定かではないが、遠い昔から農民
	たちによって継承されてきたらしい。
	真冬ながら、風のない晴天。近鉄橿原神宮前駅でレンタサイクルに乗って東へ向かう。こんもりと盛り上がった甘樫丘のふもとに
	流れる飛鳥川を渡り、日本最古の水時計の跡とされる水落遺跡を横目に進むと、参道の先、小高い丘のふもとに飛鳥坐神社の鳥居
	が見えてくる。行楽客の声、笛や太鼓のお囃子(はやし)が聞こえてきた。

	   ◇   ◇   ◇

	リアルな舞台解説は控えるが、祭の流れはこんな感じだ。

	《天狗と翁の面をかぶった地元の青年が先の細かく割れた青竹を振りかざし、近くの田んぼを舞台に子どもたちを追い回し、続々
	と集まる見物人の目を楽しませた後、いよいよ本番。午後2時すぎ、太鼓を合図にチョンマゲのてんぐ、翁面の農夫、黒牛の縫い
	ぐるみをスッポリかぶった牛男が拝殿に登場、アマチュアカメラマンを前に農耕の所作をしたほか、神官が種まきの所作を行い第
	一部は終了》

	《しばし休憩の後、社務所から天狗とお多福面を付けた女装の男性が人ごみをかき分け登場。ユーモアとお色気の中、婚礼の式が
	行われ、盛んに夫婦円満な情景を客にアピール。最後に、この夫婦が懐中から「ふくの紙」を出し、群衆に向かって投げ始めると
	祭りもクライマックス。この紙を手に入れると、子宝が得られると伝えられているだけあって真剣な表情で飛んで来る紙に手を伸
	ばす女性の姿も見られた》

	《収穫に対する切実な祈りを込めたこのような奇祭は西日本にも三河の「てんてこ祭」、尾張の「田県祭」、大和江包の「網かけ
	祭」といくつかあるが、おんだ祭は所作がストレートなことで知られる》

	   ◇   ◇   ◇

	実はこれ、私が取材して書いた1982年2月9日付奈良版記事の再掲だ。あまり表現がリアルだと、紙面の品位が落ちるのではない
	かと、表現に苦労した記憶がある。それにしても、あれから29年。まったく同じ舞台が再現されたのである。

	境内を埋め尽くした見物客を見渡すと、さすがにデジカメ普及の時代。あちこちで年配の女性たちがカメラを構えている。これは
	80年代初頭にはなかった光景だ。
	若い神職が生真面目に「夫婦和合の所作でございます」などとマイクで解説するのは妙におかしかったが、舞台上では生々しい所
	作が続いた。特に、お多福が仰向けになって、天狗を迎える「種付け」の所作はなんと説明していいのやら。その後、境内で投げ
	られる「ふくの紙」をつかもうと手を伸ばす人々の興奮ぶりのすごいこと。少子化が深刻な現代ニッポン。子宝願望を刺激する
	「激励の祭典」はこうしてクライマックスを迎えた。









	民俗学者・国学者であり、「死者の書」の著述で知られる折口信夫は、飛鳥坐神社の宮司の家に養子に入ったこともあり、そのこと
	を終生誇りに思っていたそうである。








沿道の畑に植えてあった花キャベツ。帰りもブラブラと二人で「橿原神宮駅」まで30分歩いた。



	
	「橿原神宮駅」で錦織さんと別れて、急行が出たばっかりだったので特急に乗った。500円を社内で払うつもりだったのだが、
	改札に来ないので、そのまま次の駅まで乗っていったらそこで準急が待っていたので、それに乗り換えて阿部野橋まで戻って来た。
	ラッキー!


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