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明日香村埋蔵文化財展示室 2009.9.03 奈良県明日香村



	
	奈良県明日香村が発掘した埋蔵文化財の展示室。旧飛鳥小学校の学舎を利用しており、明日香村文化財課が併設されている。
	これまでの発掘の数々が展示、紹介されているが、残念なことに Weekdayしか開館していない。つまり我々が主として明日香
	を訪れる土曜・日曜には開いていないのである。これまで何度もこの側を通ったが、閉まっている展示室を見てはがゆい思い
	をしたものだ。しかし、公務員である明日香村の職員に、毎週休日出勤を強いる訳にはいかないのだろう。というわけで、本
	日は午後から会社を休んでここへやってきた。
	主な展示内容は明日香村内から出土した遺物、キトラ古墳石室模型の展示などである。旧小学校の建物を利用しているから、
	ちょっとレトロな雰囲気を味わえ、懐かしい思いがする。


	<明日香村埋蔵文化財展示室>

	◆主な展示内容  
	1)明日香村内出土遺物展示
	2)キトラ古墳石室模型展示
	その他、村の文化財課で発掘している最新情報のスペースも...
	◆利用案内  
	・利用時間: 平日の午前9時から午後5時まで 
	・休日: 土、日、祝日、年末年始 
	・入場料 : 無料	
	 *特別展示等の場合は上記の限りではありません。 
	◆交通の案内   
	・近鉄橿原神宮前駅東口から...	飛鳥駅岡寺前行きバスで飛鳥下車 東側。 
	◆お問い合わせ  
	明日香村教育委員会 文化財課
	〒634-0103	奈良県高市郡明日香村大字飛鳥112 (甘樫丘東100m) 	TEL:0744-54-5600 / FAX:0744-54-5602 







上の写真、かって小学校だった敷地。写真の右手奥に、下の漏刻遺跡(左)がある。そこからみた展示室(右)。







ここで学んだ児童達はどこへ行ったのだろう。ふるさとに思いを馳せて遠くへ行ったか、それとも。



	
	観光客や考古学ファンに、明日香村の文化財をわかりやすく紹介する明日香村埋蔵文化財展示室・・・。と案内にあるが、土日
	は開館していないのが、なんともはや。観光客は土日しか来ないとおもうが。まぁ、しかし無料だし、頼めば「飛鳥京観光協会」
	のボランティアガイドさんも説明してくれるそうなので、飛鳥時代の理解にはおおいに役立つ。

	ここには、主として明日香村教育委員会が発掘した文化財が展示されている。主なものとして明日香村内出土遺物やキトラ古墳
	の石室模型も展示してある。











	
	小墾田の宮跡とされる場所が、明日香村の豊浦に残っている。県道124号線が豊浦の集落に入るあたりの左手、田圃の中に
	一本の木がそびえている。小墾田の宮跡伝承地の目印とされている木で、その根元は「古宮土壇(ふるのみやどだん)」と呼
	ばれている盛り土で高くなっている。1970年と1973年に行われた発掘調査では、川原石を組んで作った溝や、小池を
	持つ庭園、石敷き、掘立柱建物跡などが出土した。当初これらは、小墾田の宮を構成する宮殿遺構の一部と考えられた。 
	しかし、飛鳥川右岸の雷丘東方遺跡で「小治田宮」とか「小治宮」と墨書された土器が見つかった。そのため、最近ではこの
	遺跡が小墾田の宮跡である可能性が強くなってきた。そうであれば、古宮土壇で発掘された遺構は何だったかが問題になる。
	地理的に豊浦の宮に隣接し、出土瓦も豊浦寺のそれに共通することから、最近では蘇我氏の邸宅跡と見なされるようになって
	きている。 
	小墾田宮は、推古天皇が25年間過ごした宮である。書紀の記述からもうかがえるとおり、小墾田宮はそれなりの規模であっ
	た可能性が高い。豊浦宮に継ぐ、推古天皇の二番目の宮として造営された。日本書紀によれば、豊浦宮で即位した推古天皇は、
	603年(推古11)10月4日に、11年を過ごした豊浦の宮から小墾田の宮へ遷った。推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に
	移った後に、豊浦寺を建立したとされている。
	推古天皇は、崇峻天皇暗殺という大事件の直後にあわただしく即位したものとおもわれ、おそらく豊浦にあった蘇我家の邸宅
	の一画を仮宮として即位したものと思われる。それから小墾田宮へ移って、25年を過ごした。

	田んぼの真中に一本の木が立っている。「古宮遺跡」ともいう。豊浦寺跡とは300mくらいの距離である。かっては「古宮
	土壇」と呼ばれたここの周辺が、小墾田宮の推定地となっていた。7世紀初め頃の石敷き、柱跡などがこの一帯から出土した
	からであるが、後段ウィキペディア(Wikipedia)の解説にもあるように、雷丘近辺の「雷丘東方遺跡」で「小治田」と墨書
	された土器破片が見つかったことで、小墾田宮はここではないらしいということになった。




	小墾田宮		 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	小墾田宮(おはりだのみや)は古代日本、推古朝の宮殿。「小治田宮」とも書く。日本書紀によると 603年(推古11年)、
	豊浦宮で即位した推古女帝は、新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。その後女帝崩御までの間に、蘇我氏、
	聖徳太子らを中心として、冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた。
	日本書紀の記述からこの宮の構造は、南に「南門」を構えその北に諸大夫の勤務する「庁」が並ぶ「朝庭」が広がり、そのさ
	らに北の大門を入ると女帝の住まう「大殿」が営まれていたことが推定される。これは後代の宮城において、朝堂院と大極殿
	および内裏に発展するものの原型と思われる。

	小墾田宮の所在地については奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)に「古宮」という小字名があることから、以前より有力
	地とされていた。1970年(昭和45)〜 1973年(昭和48)の発掘調査では宮殿跡は見つからなかったが、掘立柱建物群、庭園
	などの遺構が見つかった。だが、1987年(昭和62)には明日香村雷(いかずち)近辺の「雷丘東方遺跡」で「小治田」と墨書
	された土器破片が見つかったことで、こちらが俄然有力な候補地として注目されるようになっている。







	
	丘の東南部分が四ツ角交差点になっており、その交差点から南下する道路脇に雷丘東方遺跡がある。奈良国立文化財研究所は
	この地で数次の発掘調査を実施してきたが、1987年、この遺跡から「小治田宮」とか「小治宮」とかいう文字が書かれた墨
	書土器を発見した。遺跡は「雷丘東方遺跡」と名付けられ、さらに、この遺跡の井戸枠を、年輪年代測定法で調べたところ、
	758年ごろに伐採された「ヒノキ材」であることが分かった。

	推古天皇の小墾田宮は七世紀初めの造営であるが、八世紀頃まで存続していたことが分かっている。「続日本紀」によると、
	760年(天平宝字4)、淳仁天皇が「小治田宮」に行幸しており、井戸や周辺の建物跡は、この時に整備された仮宮であると
	推測されている。こうした発掘調査の結果を踏まえて、最近では雷丘東方遺跡が小墾田の宮の跡地である可能性が高いとする説
	が有力になっている。 

	『日本書紀』には、608年(推古16)に来朝した隋使・裴世清(はいせいせい)の一行を小墾田の宮で謁見したと書かれて
	いる。610年(推古18)には、来朝した新羅使節との謁見についての記事もある。してみると、小墾田の宮は役所としての
	機能の他に、迎賓館的な要素も備えたちゃんとした宮殿だった可能性もある。







	
	雷丘(いかづちのおか)	

	雷丘は、奈良県高市郡明日香村の「甘樫丘」の直ぐ北に「飛鳥川」を挟んで、全体を竹藪で覆われた小さな丘である。丘の中央
	を東西に道路が通じ、西へ行って飛鳥川を渡った所、向原寺の北に「小墾田宮跡」があり、また、「雷丘」の東側には「雷丘東
	方遺跡」があって、奈良時代の建物跡が発掘され、井戸跡から「小治田宮」と墨書された土器が出土している。なお、「雷丘」
	は、第21代雄略天皇の部下、少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が、461年(雄略天皇6年)7月天皇と皇后の同衾中に雷
	が鳴り、そこへ栖軽が参入し、慌てふためいた天皇が、テレ隠しに雷を捕らえて来る様に命じて、雷を捕まえた丘である。
	古代日本の主に仏教に関する説話を集めた『日本霊異記』は、上中下の三巻、百十六話から構成されていて、その上巻第一話に
	「雷を捕らえた話」と題した説話が掲載されている。

	雄略天皇に親しく仕えた小子部栖軽が、天皇が皇后と大極殿で寝ている時に、気づかずに入ってしまった。天皇は恥ずかしがっ
	て止めてしまった。ちょうどその時に雷鳴がしたので、天皇は栖軽に「雷」をお招きしてくるように命じた。栖軽は馬にのり、
	阿倍の山田村(現在の奈良県櫻井市山田)を通り、軽(かる)の諸越(もろこし)の分かれ道で、天皇が呼んでいる旨のことを
	雷に対して呼びかけた。そして、帰路の途中で、豊浦寺と飯岡との中間に雷が落ちていた。これを見て、神官を呼んで雷を輿に
	入れ宮殿に運んだ。天皇に差しのべたとき、雷が光りを放ち明るく輝いたのを見て、天皇は恐れ、雷が落ちていた所へ返させた。
	その場所を、今の雷の丘と呼んでいる。 
	そのあとで栖軽が死んだ時、天皇は忠信ぶりをしのび、雷の落ちた場所に栖軽の墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した
	碑文の柱を立てた。雷はこれを恨み怒って、雷を落とした。ところが柱の裂け目に挟まれて捕らえられた。これを聞き、天皇は
	雷を許してやり放免した。天皇は新たに碑文の柱を立てさせ、その碑文には、「生きても、死んでからも雷を捕らえた栖軽の墓」
	と書かせた。これが、雷の丘と名付けたいわれの起こりである。 「参考文献 日本霊異記:平凡社」

	柿本人麻呂の、万葉集で“雷丘”を詠んだ歌は有名であるが、万葉集には、雷丘を詠んだ歌はこの一首だけである。

	大(おほ)君(きみ)は 神にしませば 天(あま)雲(くも)の 雷(いかづち)の上(うへ)に 廬(いほ)らせるかも  巻3−235





	
	牽牛子塚古墳は明日香村大字越に所在する終末期古墳で、別名「御前塚」「あさがお塚古墳」と呼ばれている。昭和53年には環境
	整備事業の一環として発掘調査が実施された。

	墳丘は対角長18.5m高さ約4mの八角形墳で、版築によって築かれている。埋葬施設は二上山の凝灰角礫岩の巨石を刳り貫
	いた、横口式石槨で、中央に間仕切り壁を有してる。両側には長さ約2mの墓室があり、壁面には漆喰が塗布されている。床面
	には長さ約1.95m、幅約80cmの棺台が削り出されている。閉塞石については内扉と外扉の2石からなり、内扉は凝灰岩
	製で高さ約1.12m、厚さ約62cm、幅1.47mを測る。内扉の四隅には方形の孔が穿たれており、扉飾金具が装着され
	ていたものと考えられる。外扉については安山岩系の石材を用いており、幅2.69m、厚さ約63cm、高さ2.4mあり、
	現地で斜めに倒れた状態で残っている。
	飛鳥の刳り貫き横口式石槨墳については、益田岩船や鬼の俎・雪隠古墳があり、牽牛子塚古墳と益田岩船は巨石を刳り貫いたタ
	イプで、鬼の俎・雪隠古墳(石宝殿古墳(寝屋川市))では床石と蓋石が別々に構成されている。この二つのタイプの前後関係
	については石宝殿古墳に羨道が存在することから、羨道を持つタイプから持たないタイプへと変化していったものと考えられる。
	また1石の巨石を刳り貫いたタイプよりも、床石と蓋石が別々に造られたタイプの方が先行すると考えられる。
	更に使用されている石材については、鬼の俎・雪隠古墳や益田岩船では硬質の石英閃緑岩が、牽牛子塚古墳では軟質の凝灰岩が
	使用されている。他の飛鳥地域の古墳をみると、6世紀から7世紀中頃にかけて硬質の花崗岩等が使用され、7世紀後半以降に
	なると軟質の二上山系凝灰岩へと変化していく。
	このように考えると、飛鳥の刳り貫き式石槨墳は、鬼の俎・雪隠古墳から益田岩船、そして牽牛子塚古墳の順に築かれていった
	と考えることができる。出土遺物については夾紵棺片や七宝亀甲形座金具、ガラス玉等があり、夾紵棺の一部や閉塞石の内扉は
	明日香村埋蔵文化財展示室で常設展示されている。築造年代については出土遺物等から7世紀後半頃と考えられる。葬者につい
	ては古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考える説が有力である。【明日香村HPより】 































































	
	飛鳥時代という時代分けは、1900年前後に建築史・美術史で初めて用いられたもので、その提唱者は関野貞と岡倉天心であっ
	た。関野は、飛鳥時代を朝鮮の芸術が影響を与えた時代と規定し、推古朝から大化改新ごろまでとした。岡倉は、仏教伝来
	(552年説)から平城遷都(710年)まで、主として飛鳥地方に都があった時代を飛鳥時代としたが、「正確なる時代区分」とし
	ては、仏教伝来から天智天皇即位( 667年)までに限定した。関野は唐の影響を受けた「寧楽時代」(白鳳・天平時代)に対
	して、また岡倉は「天平時代」に対して、それぞれ先行する時代を飛鳥時代と考えたのである。現在、日本史では、岡倉が広
	く用いたような意味で、推古朝ごろから平城遷都までをこの名で呼ぶことがある。しかし意味が確定しないこともあって、む
	しろ7世紀前半とか、天武朝とか、世紀や天皇の名前を使うことが多い。美術・建築・考古の分野では、現在においても、関
	野説のような意味でこの分け方を使っていることが多い。 

	飛鳥に住んでいた渡来人「東漢氏」(あずまのあやし)を掌握していた豪族蘇我氏が有力になると、飛鳥はにわかに政治・経
	済の中心地となっていった。新しく受け入れられた仏教文化は、この地にはじめて開花した。天皇の宮、豪族の館・邸宅、大
	寺院などが建ち並び、日本の古代国家は、飛鳥を中心に形作られて行く。
	飛鳥地方には、古く4,5世紀に応神(おうじん)天皇や允恭(いんぎょう)天皇の宮があったと伝えられる。6世紀前半に
	は顕宗・宣化天皇の宮がつくられたようだ。しかし飛鳥に次々と宮が作られるようになったのは、推古天皇の豊浦ノ宮(とゆ
	らのみや/とようらのみや)からである。
	宮は、初め天皇の住まいが主で、同時に政治の場を兼ねていた。天皇の代が代わるごとに移され、一代の間に2,3回移るこ
	ともあった。国家体制が整備されるに従って、中国の制度に習い天皇の住まいの他に多くの役所が宮の中に建てられるように
	なり、やがて宮の周囲を市街が取り囲み「京」と呼ばれるようになる。
	593年、推古天皇が飛鳥豊浦ノ宮にて即位し、以来約100年間、歴代の天皇は宮を飛鳥の地に集中的に営み、飛鳥は政治
	の中心地となり、大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。この宮の時代に飛鳥寺が完成する。仏教が盛ん
	になり、各豪族が競って寺院を建立する。
	つまり飛鳥時代とは、先立つ古墳時代の後を受けて、これらの「寺院」と「宮都」が形成されるようになった時代と言える。
	そしてそれは、「寧所にいとまあらず」という戦乱と混乱の古墳時代に終わりを告げて、中央集権を基盤とした「大和朝廷」
	がその権力構造を盤石のものとしてゆく時代であるとも言えよう。

いわゆる飛鳥時代の宮

NO
宮の名前
移った年
住んだ天皇
宮の場所
豊浦(とゆら)宮 592 推古 飛鳥
小墾田(おはりだ)宮 603 推古 飛鳥
飛鳥岡本宮 630 欽明 飛鳥
田中宮 636 欽明 飛鳥
厩坂(うまやさか)宮 640 欽明 飛鳥
百済(くだら)宮 640 欽明 飛鳥
飛鳥板蓋(いたぶき)宮 643 皇極 飛鳥
難波長柄豊崎(ながらとよさき)宮 645 孝徳 難波
飛鳥板蓋宮 655 斉明 飛鳥
10 飛鳥川原宮 655 斉明 飛鳥
11 後(のちの)飛鳥岡本宮 656 斉明 飛鳥
12 朝倉橘広庭宮 661 斉明 福岡県朝倉市(私の故郷)
13 近江大津宮 667 天智 近江
14 嶋宮 672 天武 飛鳥
15 飛鳥岡本宮 672 天武 飛鳥
16 飛鳥浄御原(きよみがはら)宮 672 天武 飛鳥
17 藤原宮 694 持統
文武
元明
飛鳥
18 平城宮 710 元明 奈良






























	
	上のようにに、石垣状遺構を復元してある。このような石段が、この山の斜面に何段にも連なっていた。日本書紀の「斉明天
	皇2年(656)是歳条」には、有名な田身嶺の周垣と両槻宮および「狂心の渠」と石垣のことは、以下のように記されている。
	
	時に、事を興すことを好ゐたまひ、すなわち水工をして渠(みぞ)を穿(ほ)らしめ、
	香具山の西より石上山に至る。
	舟二百隻を以(も)ちて、石上山の石を載(つ)みて、流れの順に宮の東の山に控引(ひ)き、
	石をかさねて垣(かきね)とす。時の人謗(そし)りて曰く、
	「狂心の渠。損費(そこないついや)すこと、功夫(こうふ)三万余。造垣(かきねづくり)功夫七万余。
	宮材(みやのき)爛(ただ)れたり。山椒(やまのすゑ)埋(うず)もれたり」といふ。
	また謗りて曰く、「石の山丘を作り、作る随(まにま)に自ずから破(こわ)れなむ。」といふ。
	
	ここに言う「宮の東の山」は、岡本宮が明日香村岡の板蓋宮伝承地と呼ばれたところにあったから、その東すなわち酒船石の
	ある丘とその付近の丘陵と考えられる。平成四年に酒船石のある丘の中腹から、砂岩の切石を四段に積んだ石垣が数十メート
	ルにわたって発掘され、この推定が裏付けられた。想像通り、酒船石の丘が「石を累ねて垣」としたという「宮の東の山」で
	あったといえる。「宮の東の山」における石垣の用途については、「頂に酒船石を置く丘を美化する修師的な施設とみるべき
	で、換言すれば立体的な庭園を飾る設備である」(直木孝次郎)、というのが一般的。酒船石の丘の北の麓から出土した亀形
	右・小判形石の水槽、石敷広場等は、この酒船石から流れ出てくる水を受け取っていたのである。





































	
	明日香村		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	明日香村(あすかむら)奈良県高市郡

	・面積 24.08km2	 総人口 5,944人(推計人口、2009年8月1日) 人口密度 247人/km2 
	・隣接自治体 橿原市、桜井市、高取町、吉野町 
	・村の木 ツキ 	村の花 タチバナ 	 
	・明日香村役場 	所在地 〒634-0111 奈良県高市郡明日香村大字岡55番地明日香村役場 	電話番号 0744-54-2001 	

	明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部に位置する村。中央集権律令国家の誕生の地である事から飛鳥時代の宮殿や史跡が
	多く発掘されている事で知られ、「日本の心の故郷」とも紹介される。日本で唯一全域が古都保存法対象地域の自治体である。
	また、村全体の世界遺産登録に向けた計画が具体化している。

	<地理>
	河川: 飛鳥川 	まわりを丘や山に囲まれた小さな盆地にある。

	<年表>
	・1956年(昭和31年)7月3日 - 旧高市郡阪合村、高市村、飛鳥村の3村が合併して「明日香村」になる。 
	・1972年(昭和47年)3月21日 - 高松塚古墳から彩色壁画が発見される。 

	<明日香法>
	松下幸之助がひいきにしていた大阪の鍼灸師・御井敬三が、明日香村の遺跡の保存を訴え、松下から佐藤栄作首相へと伝えられ
	たことから、法制化へと進んだ。これとは別に三木睦子らによる保存運動もあった。1980年(昭和 55)5月「明日香村における
	歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法(明日香法)」、略して「明日香村特別措置法」といい、二つの柱
	からなっている、
	一つは、村内全域が歴史的風土保存の対象となっている。駅前の一部以外を除いてほとんどが風致地区であり、建築には厳しい
	制限がかけられている。
	二つは、住民の生活安定を目的としている。

	<村の全域を歴史的風土保存地区>
	・第一種地区は、石舞台古墳、高松塚古墳、岡寺、伝飛鳥板葺宮跡(飛鳥京跡)、甘樫丘を中心とする地域。現状変更が厳しく
	 規制されている。 
	・第二種地区は、第一種地区以外の地域で、著しい現状変更については抑制されるものの、そうでない場合は許可される。

	<明日香村の整備計画と整備基金> 
	整備計画は、明日香村の歴史的風土の維持・保存と同時に、生活環境を整え村を発展させていくため、道路・下水道・公園・教
	育施設・農業環境などの整備をはかる。遺跡・景観保全のためやむを得ないが、この厳しい開発規制のため人口は減少している。

	<施設>
	・奈良文化財研究所飛鳥資料館(奥山) 
	・奈良県立万葉文化館(飛鳥) 
	・犬養万葉記念館 
	・埋蔵文化財展示室 
	・民俗資料館 
	・国営飛鳥歴史公園館 
	・高松塚壁画館 
	・飛鳥藍染織館 

	<教育>
	・明日香村立明日香小学校 
	・明日香村立聖徳中学校 - 校舎など敷地の大部分は、隣接する橿原市五条野町に属する。 
	・奈良県立明日香養護学校 

	<姉妹都市・提携都市>
	・海外		 扶余郡(韓国 忠清南道) 1972年11月28日姉妹都市提携 

	<交通>
	・鉄道路線	中心となる駅:飛鳥駅(近畿日本鉄道 吉野線) 
			観光にバスを使う場合、2つ北の橿原神宮前駅(近畿日本鉄道南大阪線・橿原線)の方が本数が多く便利である。 
			桜井駅(近鉄大阪線・JR桜井線)からも一部、バスの便がある。 
	<道路>
	一般国道 	村内を走る一般国道:国道169号 
	県道 		村内を走る県道:奈良県道15号桜井明日香吉野線、奈良県道155号多武峯見瀬線 

	<名所・旧跡>
	・亀石高松塚古墳 
	・高松塚壁画館 
	・飛鳥寺 
	・石舞台古墳 
	・キトラ古墳 
	・鬼の爼・鬼の雪隠 
	・橘寺 
	・岡寺(龍蓋寺、西国三十三箇所7番札所) 
	・飛鳥坐神社 
	・見瀬丸山古墳 
	・伝飛鳥板蓋宮跡 
	・欽明天皇陵 
	・酒船石
	・亀石 
	・奈良県立万葉文化館 
	・猿石 
	・甘樫丘 
	・国営飛鳥歴史公園 

	<名誉村民>
	・犬養孝
	・松下幸之助 
	・網干善教 


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