Music: Twilight

鳥獣戯画展 
京都国立博物館  2014年11月3日(祝)with wife




		
		京都博物館へwifeと鳥獣戯画展を見に行った。wifeは京都へ行くときは和服が多いので、この日も和服だったが別段気にも
		留めなかった。ところが、ところがである。館内へ入って羽織を脱ぐと、帯がなんと鳥獣戯画のデザインなのである。
		「こんな帯どないしたん?」「ん、昔買うてたんよ」。そうか、これを着てここへ来たかったのだ。館内でめざとく見つけ
		た女性からも「あらー、いいですねぇ」と声を掛けられて悦に入っていた。
		
		特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」  平成館 特別展示室   2015年4月28日(火) 〜 2015年6月7日(日) 

		誰もが一度は目にしたことのある、日本で最も有名な絵巻、国宝・鳥獣戯画。墨線のみで動物や人物たちを躍動的に描いた、
		日本絵画史上屈指の作品です。全巻の修理を終え、その魅力を一新した鳥獣戯画の全貌を紹介します。国宝の甲・乙・丙・
		丁4巻とともに、この4巻から分かれ、国内外に所蔵される断簡5幅も集結。現存する全ての鳥獣戯画をご覧頂けます。
		また、鳥獣戯画の伝来した京都・高山寺は、鎌倉時代のはじめに明恵上人によって再興され、今なお多くの文化財が伝わり
		ます。本展覧会では、高山寺ゆかりの至宝とともに明恵上人の信仰と深く関わる美術作品を、かつてない規模で展観します。

		※会期中、一部作品、および場面の展示替を行います。「鳥獣戯画」については全4巻の前半部分が前期、後半部分が後期
		 に展示されます。 前期=4月28日(火)〜5月17日(日)  後期=5月19日(火)〜6月7日(日)
		
		上は、東京・上野の国立博物館・平成館での案内である。京都国立博物館での展示は、2014.10.7(火)〜 2014.11.24(月
		・祝)で終了している。東京での展示も京都と同じく、前期・後期の2回に分けて行われるので注意されたい。つまり2回
		見に行かねば鳥獣戯画の全巻は見れないと言うことだ。また例によって、長時間の行列も覚悟しなければならないが、自分
		が生きている内に、もう2度と本物の「鳥獣戯画4巻」の公開は無いかも知れないと思えば、やはり自分の目で見ておきた
		いと思うのは人情かもしれない。














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明治古都館の廻りを行列が取り囲む。あちこちにウサギや蛙の切り抜きが置いてある。館内の喫茶店も満員だ。





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明治古都館の東隅が行列の最後尾である。ここから1時間ほど並んで入館。明日香の発掘調査説明会に比べれば、軽い軽い。



くねくね曲がった行列の最後にはテント道があって、そこには前期で掲示された丙巻、丁巻の鳥獣戯画が描かれていた。







入館するとすぐ撮影コーナーがあり、みんなそれと知らず通り過ぎていたのか、
我々が写しているとたちまち人だかりが出来て人気コーナーになった。









− 高山寺 −




	
	デュークエイセスが唄う「女ひとり」に、「京都ぉ〜、とがのお、こうざんじぃー」とあるのがここである。京都の北西、市内の
	喧騒から離れた栂尾(とがのお)の地にある緑豊かな自然に囲まれたこの古刹は、奈良時代に創建されたと伝わり、京都市内から
	相当山深く入って行った山腹にある。どういう経緯か、鳥獣戯画4巻はここに伝わる。

	およそ義務教育を受けた人で知らない人は居ないと思われる、誰もが一度は目にしたことのある、日本で最も有名な絵巻「国宝・
	鳥獣人物戯画」。手塚治虫氏をして、「もう千年も前に我々のやることを全てやられてしまっている」と言わしめた、日本最古の
	漫画でもある。平安時代・12世紀に製作されたと思われ、彩色は用いず墨線のみで動物や人物たちを躍動的に描いた、日本絵画
	史上屈指の名作である。
	今回130年ぶりという大補修が行われ、それを記念して東京と京都でこの絵巻の展示会が行われた。東京はまだだが、京都では
	いち早く展示が終了したので、その模様を紹介しよう。また、鳥獣戯画の伝来した京都・高山寺は、鎌倉時代のはじめに明恵上人
	によって再興され、今なお多くの文化財が伝わる。本展覧会では、高山寺ゆかりの至宝とともに、明恵上人の信仰と深く関わる美
	術作品も、かつてない規模で展観されている。

	恥ずかしながら小生は、鳥獣戯画が甲乙丙丁の4巻からなるとは今まで知らなかったし、人物も描かれていて「鳥獣人物戯画」と
	いう名前なのも知らなかった。蛙と兎が相撲を取っている部分しか無いのかと思っていた。




	
	現在、この4巻の巻物は東京国立博物館(上野)と京都国立博物館(東山)に分けて寄託されている。それにしても、この巻物が
	甲乙丙丁の4巻に別れていたなんて全然知らんかった。また、昔は「鳥獣戯画」だけで間に「人物」なんて入って無かったような
	気がするが・・。







	
	現存する鳥獣戯画は、そのまま見ていっても物語が連続していないように見える。兎や蛙が相撲をとっているかと思えばいきなり
	坊さんがお経を上げていたりする。そもそも

	

	

	糊がはがれても、責任感の強い人がいれば元あった通りに修復できるが、しばらく放っておくと順番が判らなくなる。バラバラに
	なって前後関係が判らなくなってしまうのである。おそらく鳥獣戯画はその憂き目にあったのだろうと思われる。


また巻物が規則的に継ぎ紙されていることから。火災に遭って巻物の一部分だけが燃えたのだろうとも推測出来た。







	謎はまだまだある。そもそも誰が何のために描いたのかという問題である。我々は鳥羽僧正がこれを描いたと授業で教わったが、
	しかしそれは全く根拠の無い説らしい。

	
	
	覚猷 出典:ウィキペディア

	覚猷(かくゆう、天喜元年(1053年) - 保延 6年9月15日(1140年10月27日))は、平安時代後期の天台僧。鳥羽僧正(とばそう
	じょう)と世に呼ばれ、日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、鳥獣人物戯画などの作者に擬せられ
	ている。そのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされることもある。

	覚猷は、1053年に源隆国の第九子として出生。若年時に出家し、園城寺にて天台仏教・密教を修めながら、画技にも長じるように
	なった。長らく園城寺法輪院に住し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自らの画術研鑽にも努めた。四天
	王寺別当、法成寺別当、園城寺長吏など大寺社の要職を歴任する間、1132年には僧正へ、1134年には大僧正へ任じられた。
	1138年、47世天台座主となったが3日で退任し、厚い帰依を寄せていた鳥羽上皇が住む鳥羽離宮の証金剛院へ移り、同離宮の護持
	僧となった。以後、鳥羽僧正と呼ばれた。保延6年(1140年)9月15日、覚猷は90歳近い高齢で死去した。その際、弟子から遺産分
	与に関する遺言を求められ、「遺産の処分は腕力で決めるべし」と遺したと伝えられている。

	覚猷の画は、ユーモアと風刺精神に富んでおり、戯画と呼ばれる。嗚呼絵(おこえ)と呼ばれることもある。遺言の逸話が示すよ
	うに、覚猷自身、笑いのセンスに長けた人物のようであり、『宇治拾遺物語』にも覚猷のいたずら好きで無邪気な人柄が描かれて
	いる。『古今著聞集』では、弟子である侍法師の絵を道理に合わないと非難するが、侍法師は「おそくづの絵」(春画)は誇張し
	なければ面白くないという例を出して反論し、覚猷は逆にやり込められてしまったという逸話が載っている。また、覚猷は仏教界
	の要職を歴任しながら、当時の仏教界と政治のあり方に批判的な眼を持っていたともされている。遺産分与に関する遺言の逸話に
	関して、松山文雄は「これは貴族や僧侶の権謀衛策やこびへつらいの生活にたいする風刺ともとれ、強いものがとるという、権力
	の横行にたいするあてつけともとれて、おもしろい逸話です」と記しており、その風刺精神は当時の自身を取り巻く世情と密接に
	関係していたことが予想される。
	
	国宝『鳥獣人物戯画』(鳥獣戯画)、『放屁合戦』、『陽物くらべ』などが伝鳥羽僧正作とされている。いずれも一見単純な明る
	い笑いの画のようでありながら、深い批判精神を含む作品群であり、鳥羽僧正の作に擬せられている。実のところ、美術史学上、
	覚猷をこれらの絵画の作者とする確証はないとされているが、これらの絵画は覚猷の画風をよく表しているともいわれている。


	

	
	Net内には以下の様な解説もあった。

	天台宗の高僧で、公家の醍醐源氏・源隆国の九男で第四十七代天台座主。(ただし三日のみ)
	厚い帰依を寄せていた鳥羽上皇が住む鳥羽離宮の証金剛院へ移り、同離宮の護持僧となったので一般に鳥羽僧正と呼ばれる。いた
	ずら好きで無邪気な人柄であったといい、年老いて死ぬ時の遺言も、「遺産の処分は腕力で決めるべし」というものであったとい
	う。画技にすぐれ、扇絵、密教図像など真面目な絵を描く一方、「おこ絵」(おこ=バカ)と称する滑稽風刺画も好んで描いたと
	いう。鳥獣人物戯画は長らく鳥羽僧正作とされてきたが、明らかに複数の人物の作風が入り混じっており、鎌倉前期あたりに何者
	かがコレクションしたものを一括で鳥獣人物戯画とし高山寺に奉納したと考えられており、それが鳥羽僧正の人となりと作風から、
	鳥羽僧正作であるとされてきた物であるといわれている。したがって、鳥獣人物戯画のほとんどもしくは総てが鳥羽僧正作ではな
	いとされる。

	
	
	覚猷が描いたという「おこ絵」の放屁合戦

	

	また山田風太郎著『人間臨終図巻 下巻』(徳間書店)には、

	鳥羽僧正(とばそうじょう) (1053 - 1140) 87歳で死亡
	高層の地位にありながら、日本の風刺漫画の祖ともいうべき「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうぎが)」を描いた鳥羽僧正は、ほかに
	も女体の不動明王や、便所で尻をふいている不動明王を描くなどという奇行があったが、死するにあたって弟子たちが、師僧の遺
	産をいかに分配すべきか遺言したまえ、と再三要求したのに対し、硯(すずり)と紙を持って来い、といい遺言状を書いた。それ
	には、「処分は腕力に依るべし」と、あった。 
	とある。

	

	甲・乙・丙・丁4巻は異なる時代、異なる人物によって描かれたとみられ、その内容もだいぶ異なる。絵を描いた人物も、図像や
	仏画を描く絵仏師だったとする説、宮廷絵所の絵師だったとする説があるが、具体的には明らかになっていない。また、絵中に詞
	書もなく、いったい何を目的として描かれたのか、いつの時代に、どこから高山寺へと伝えられたのかも分かっていない。

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	


	現在「鳥獣戯画」と呼ばれる絵巻物は、高山寺に伝わる国宝の他に、甲・乙・丙・丁4巻から分かれ、国内外に所蔵される断簡と
	いわれる絵画もいくつか存在する。

	

	断簡(だんかん)は現在、東京国立博物館所蔵断簡、益田家旧蔵断簡、実業家・茶人である益田孝が収集していた高松家旧蔵断簡
	(ブルックリン美術館蔵)、MIHO MUSEUM所蔵断簡など、国内外に甲巻の断簡が4幅、丁巻の断簡が1幅確認されており、獣戯画
	が今日に伝わる過程で、いくつかの場面が分かれ、掛軸に仕立て直されて伝来している。どの場面がもともとどこから分かれてし
	まったのかなど、これらの断簡も鳥獣戯画成立の謎を解く重要な要素となる。

	
	鳥獣人物戯画 甲巻 断簡 平安時代・12世紀 東京国立博物館蔵

	もとは鳥獣戯画 甲巻 第十六紙(上記、甲巻後期展示場面)の前に位置していたとみられる場面。画面左手の黒点は第十六紙に描か
	れた萩の花の一部と考えられる。


	
	鳥獣人物戯画 断簡 平安時代・12世紀 ミホ・ミュージアム蔵


	また、「模本」と呼ばれる「鳥獣戯画」の模写も伝わっており、住吉家伝来模本、江戸幕府の御用絵師だった家系に伝わっていた
	「兎猿遊戯中巻」、長尾家旧蔵模本(ホノルル美術館蔵:この模本にのみ見られる特徴として、サルの顔だけ朱塗りが施されてい
	る。)、京都国立博物館所蔵模本(狩野探幽によって模写。長尾家旧蔵模本から更に模したものとされる)等が著名である。


	

	
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	結局のところ、「分からないことだらけ。謎多き絵巻」という事のようである。








さぁそれでは、全巻の修理を終え、その魅力を一新した鳥獣戯画の全貌をじっくりとご覧下さい。









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展覧会公式ホームページ「鳥獣人物戯画 web絵巻」では、甲・乙・丙・丁の全場面が公開されている。





見終わったらすっかり日暮れていた。春の京都の夕暮れは艶めかしいが、初冬のそれは薄ら寒いだけだ。しかし夜景はBeautiful!








−東京展のご案内−







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