江戸東京博物館は、運営主体が(財)東京都歴史文化財団である。東京都墨田区横網にあり、JR総武線の両国駅西口か らでて徒歩3分ほどのところにある。相撲の両国国技館と隣り合わせに、コンクリートむき出しのどデカイ建物が建って いる。地上7階、地下1階の、昔風に言えば鉄筋コンクリート構造である。国技館との調和を考えて、高床式の構造にな っているそうだが、これはとても東京下町にあるべき建築物ではない。設計者の菊竹清訓は、その著書などにおける主張 では、日本建築の魂や和風景観との調和などを説いているが、作り出した建造物は彼の目指すものとはだいぶかけ離れて いるのではないかという気がする。高床式と言うことで、床の部分は巨大な吹き抜けである。エスカレーターを上ってい って降りたところはいきなり6階だ。
私は、歴史年表の中では江戸時代と言うのはさほど興味が無い。まったく無いわけではないのだが、江戸時代になると、 人の気持ちや考えはもう現代人とさほど変わらず、記録も沢山残っていて、新しい発見や知識も限られている。 侍達の記録や日記を読むと、宮仕えの苦労や、上司・同僚との付き合いなど、現代のサラリーマンと同じような境遇での 苦労が身につまされる。士農工商の身分制度を除けば、人々の心象世界は現代とさほど変わらないと言ってよい。 それに対して、記録も何も無い、発掘によって次々に新事実が出現する古代史のほうが、江戸時代と比較すると数倍おも しろい。2000年前の日本人は一体何を考えていたのか? 人々の生活はどんな様相を呈していたのか。 しかし魏志倭人伝を読む限りでは、この時代の人々の心理も、あまり我々と代わりが無いような気もするのではあるが。 1000年、2000年では、人間の脳の構造はまったく進化していないのかもしれない。
この江戸東京博物館ができたときも、「まぁた無駄な金を使うて。」くらいにしか思っていなかった。今でも少しはその 気持ちが無いわけではない。しかし建物の外観を見るにつけ、こんな建物の中に一体何があるんやろうという興味はあっ た。いつか機会があれば一回は見に行きたいとは思っていたし、3年間の東京生活でも、この両国界隈にはあまり行った 事が無かったので、今回「国分寺友の会」の例会に誘われて江戸へ降るチャンスができて幸いだった。
東京には多数の文化施設が存在するが、この「江戸東京博物館」は、見方によっては東京を歴史的に包括した郷土資料館 である。その名の通り、江戸のみならず東京の都市形成の経過も展示されている。まさしく東京という一地方のヒストリ ー資料館なのだ。この巨大な建築の最高部は62.2mで、往時の江戸城天守閣とほぼ同一だそうだ。敷地面積は東京ドーム の2倍以上あり、博物館としてはいかにも巨大な規模である。江戸幕府最盛期の巨大な権力構造を今に示すかのように、 廻りの景観を威圧している。
この江戸東京博物館は、「失われつつある江戸の歴史遺産を守るとともに、東京の歴史と文化に関わる資料を収集、保存、 展示し、東京の歴史と文化を振り返ることによって未来の東京を考えるため」に設立された博物館である。 常設展示のほか、年に4,5回の企画展示や催し物なども開催されている。常設展示室は江戸、東京、通史の各ゾーンに 分かれ、絵図、浮世絵などの資料や、日本橋(旧日本橋)や長屋の大型模型、可動模型などの展示物が設置されており、 城下町としての江戸、武士や庶民の日常生活、火消し、食生活、文化などを窺い知ることができる。東京ゾーンでは明治 維新、文明開化、東京大空襲などの展示がある。また図書室(7階)、映像ホール(1階)やライブラリー(B1階)などの 学習施設なども設置されている。
この博物館は、模型だらけである。その緻密さには驚く。かつての「江戸の中心」は「日本橋」だった。エスカレーターを 降りて展示室へ入ってくると、眼下に原寸大建物のジオラマ群を見る。ここから階下へ降りていくような順路になっている のだが、それにはまずこの日本橋を渡るところから始まる。すべてはまず「お江戸日本橋」から始まるのだ。橋脚は欅(け やき)、床板は檜(ひのき)を使い、原寸大(長さは半分)に再現した橋を渡ると「あちら側」=「江戸の世界」という仕 掛けになっているのである。 日本橋は周知の如く五街道の起点であるが、それ以外にもさまざまな都市機能が集中していた場所でもあった。昔は物資の 輸送は主に「舟」であった。それこそ日本中から集まってきたものを陸地におろしてさばくというのが、この日本橋界隈だ った。魚河岸あり問屋があり、大店が軒をつらねるという活気に満ちた雰囲気は、やがて出版、美術などをも生み出してい く、というように、商売の中心だけでなく、情報・文化の発信地でもあったのだ。そしてそれを求めてさらに人が集まった。 当時の庶民がここから富士山や江戸城を眺めている錦絵は、日本橋が江戸の中心、つまりは日本の中心だったことを示して いる。
大阪もそうだが、江戸の庶民もこよなく水辺を愛し水辺に遊び、生活全体が水に近かった。上水は多摩川の水だったし、至 る所に橋が架かっていた。それが今では、川も運河も殆どが埋め立てられ、残ったかつての「江戸の中心」は高速道路に遮 られ往時の活気を想像するのも難しい。発展の行き着く先は悔悟である。
「東照大権現像」 寛永18年(1641)2月17日 狩野探幽/筆 徳川記念財団蔵 3代将軍徳川家光が、夢に見た家康(これを霊夢という)を、幕府お抱え絵師の狩野探幽に描かせたもののひとつ。徳川家 の人々にとって、家康は死後も憧憬の的であり続けた。
あいさつ 江戸時代260年余の天下泰平の基となったのは、家康公の進められた文教政策でした。彼は「書籍を刊行し世に伝へん は仁政の第一也」と述べて、多くの書籍を刊行しましたが、この精神は幕末まで歴代将軍に引き継がれ、江戸時代の日本は 世界最高の識字率を誇る文教国となり、之が明治以降の近代日本の急速な発展の基礎となりました。 今日、世界の多くの発展途上国が直面している困難の最大のものは、正にこの教育問題ですが、日本は400年前から引き 続き全ての層の国民の教育問題に取り組んで来た稀有な国と言えます。 その文教政策の中心に居た歴代将軍の学問の内容、何を如何に学んで来たのか。歴代各将軍の夫々の性格、特徴と併せて、 今回の特別展示で御覧頂き、先人の学問、教育への情熱の一端を感じ取って頂ければ幸いに思います。 平成18年(2006)2月 コ 川 記 念 財 団 理事長 コ川恒孝
今年は、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長8年(1603)から数えて403年目である。400年を記念した3年前から、 この博物館では将軍家に伝来した貴重な資料を中心とした展覧会や催しを開催している。現在の特集展示は、「徳川将軍家 の学問」である。歴代の将軍達はどういう教育を受けていたのか。学問とどう接していたのか。2世紀半の泰平の時代、儒 学を基礎とした徳川将軍家の学問の一端を紹介する特集展示「徳川将軍家の学問。紅葉山文庫と昌平坂学問所を中心にその あたりの資料が展示・解説されている。 T.歴代将軍の学問 東照大権現像(霊夢)コ川記念財団蔵、 重要文化財『吾妻鏡』国立公文書館蔵 『貞観政要』『孔子家語』(伏見版)東洋文庫蔵、 重要文化財 駿河版銅活字 印刷博物館蔵 『大蔵一覧集』(駿河版)鴻巣市・勝願寺蔵、 『群書治要』(駿河版)静岡県立中央図書館 ほか U.紅葉山文庫 『崔舎人玉堂類藁』(宋版)『道蔵経』(明版)宮内庁書陵部、 徳川吉宗像 徳川記念財団蔵 『普救類方』『元亨療馬集』御書物方留牒(享保八年書物方日記)国立公文書館蔵 「右文故事」コ川恒孝氏蔵、 江戸図屏風(複製)江戸東京博物館 ほか V.湯島聖堂(昌平坂学問所) 史記評林』林羅山跋文 永青文庫蔵、 羅山随筆 慶應義塾大学斯道文庫蔵 湯島聖堂創建当初の釈奠の画 孔子画像 斯文会蔵 湯島聖堂伝来釈奠器 剣 越前康継(徳川綱吉献納)東京国立博物館蔵 歴聖大儒像 筑波大学附属図書館蔵 ほか W.西欧文明研究 歴代将軍譜/テイチング著 東洋文庫蔵 露字ニテ地名記入ノ日本図(皇朝輿地全図)『厚生新編』『民族誌学会年報』1862年版『万国旗章図鑑』 『官版独逸単語篇』静岡県立中央図書館蔵 官版バタビヤ新聞 印刷博物館蔵、 『西国立志編』『自由之理』江戸東京博物館蔵 ほか
我が国に新聞が発生したのは幕末のことである。新聞と言っても、今日の新聞とは内容、体裁とも異なり、海外NEWSや 外字紙の翻訳、型は半紙5,6枚を二つに折って綴じた冊子型の出版物だが、新しい(珍しい)ニュースの伝播を目的 とした点で、新聞の先駆といってよいだろう。この種の新聞は、江戸時代のいわゆる”瓦版”とは、全く無関係に成立 している。 我が国最初の新聞は、普通、文久二年(1862)正月〜二月に発行された「官板バタヒヤ新聞」(1〜23巻)といわれ ているが、これはオランダ政府が「和蘭陀風雪書」にかえて献上したバタヒヤの新聞(ヤバッシュ・クーラント)を幕 府の蕃書調所(後、洋書調所)で翻訳、万屋兵四郎に発売させたものである。
中村正直は明治元年イギリスより帰国、直ちに外国書の翻訳を始め、明治4年2月にはJohn Stuart Millの「自由の理」、 同7月にはSamuel Smilesの「西国立志編」を出版した。
<江戸市中の上水> 取水口以降は、石管や木管を用いて江戸市中を地中配管で送水した。主要幹線は密閉管で送水し、枝管の途中に水量調 節口や砂溜まりをかねた点検口を設けた。末管の枝管により各所の井戸に地中で配水された。配水管が地中深くならな い工夫や、水量に偏りのない工夫が随所に見られる。 大勢の努力と工夫により、「水道の水で産湯を使い」という江戸っ子の科白が生まれたのである。とは言え、水道の水 は多摩川の水そのままだったから、夏にはぬるく冬には冷たくなっていたものと思われる。掘り抜き井戸の技術が普及 しても、水質の悪い下町では水道に頼らざるを得なかった。
江戸時代の水道料金は「水銀(みずぎん)」という。武家は石高に応じて、商家は敷地の間口の大きさに応じて支払う 義務があった。長屋は戸数に応じて家持(長屋の持ち主。大家と同一の場合もある。)が負担した。水銀徴収は大家の 主な仕事の一つだった。
「江戸」も、知りだすとなかなかおもしろい。芸術、芸能、文化、庶民の生活。長屋暮らしの無名の職人たちが黙々と仕事を して生み出した「ものづくり」の文化。人間の営みって、ほんまにおもろい。
これは両国橋・橋詰めの模型。個々の人物がストーリーを持っているという手の込んだもので、人形の数、な、なんと1500体 だそうな。1500もの人物模型の迫力! 個々の人物がストーリーを持ちそれらが一体になってこちらに迫ってくる姿には 圧倒される。大江戸の賑わいはこうであったのかと思いを馳せるのは楽しい。江戸という時代を動かしたのは、まさに庶民の 爆発的なエネルギーであった。庶民も水辺をこよなく愛したのだ。
<江戸東京博物館> ・運営主体 (財)東京都歴史文化財団 ・所在地 〒135-01 東京都墨田区横網1-4-1 電話 03-3626-9974 ・交通 JR総武線両国駅西口下車徒歩3分 ・開館時間 午前10時〜午後6時(木・金は午後8時) ・休館日 月曜日・年末年始 ・観覧料 大人600円(20名以上の団体480円)、高校生以下300円(同240円) ・敷地面積 29,293平方メートル(8,800坪) ・建築面積 17,562平方メートル(5,300坪) ・延床面積 48,512.95平方メートル(14,700坪)
こうやってみてくると、江戸時代もなかなかおもしろい。現代の我々の考え方や生活とあまり変わらないところがその おもしろさの原因だろうか。初めて知った、江戸時代の上水道の構造には驚かされた。幕府の職制や大名と将軍との関 係など、現代サラリーマン社会とも相通じる部分もあって、なかなか興味はつきない。