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国立民族学博物館
アフリカ
2011.12.04












	アフリカ		出典:ウィキペディア(以下、字部分すべて)

	アフリカ(阿弗利加、英: Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六
	大州の一つ。地理的には地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する。赤道を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の大陸でもあり、それに
	伴って多様な気候領域がある。面積は3,020万平方キロメートルで、地球表面の6%、陸地全体の20.4%を占めるが、人口は約10億人で、世界
	人口比では14.72%を占めるに過ぎない。2011年3月現在、島嶼を含めて54の独立国がある。経済成長率は2010年に約5.0%、2011年予測は5.5%
	である。
	アフリカ、特に東アフリカは人類の発祥の地と言われ、エチオピアからは20万年前のホモ・サピエンスの化石が発見されている。サハラ砂
	漠以南のアフリカは、かつてヨーロッパ諸国から「暗黒の大陸」と未開の地のように呼ばれたが、ヨーロッパに知られていなかった(ある
	いはその存在を認めようとしなかった)だけで、実際には古代から文明があった。
	アフリカの地理的区分ではサハラ砂漠が大きな境界となり、この北側を「ホワイトアフリカ」、南側を「ブラックアフリカ」あるいは「サ
	ブサハラ」と呼び分ける場合もある。また、北アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカ、西アフリカに分ける区分もある。
	単語「アフリカ」の語源は、現在のチュニジアに当るカルタゴ近郊の北部アフリカに居住していたセム系部族を指す「Afri」(アフリ)と
	推測される。この言葉はフェニキア語の「afar」(「dust」の意)に結びつけられがちだが、1981年にはベルベル語の「洞窟に住む人々」
	を指す「ifri」が転じたものという仮説が提示された。これら「afar」[8]「ifri」「Afri」は現在のアルジェリアおよびリビアに住むベ
	ルベル人のことである。ローマ時代、カルタゴがアフリカ属州になると、 ラテン語で「アフリカ人の土地」を表す「Africa terra」
	(「-ca」は形容詞化接尾辞女性形)から「Africa」という語形が生じた。
 











	<アフリカの形成>

	中生代初期、アフリカは他の大陸と同じく超大陸パンゲアを形成した。その状況下で、獣脚類や竜脚形亜目また原始的な鳥盤類が、三畳紀
	終わり頃まで繁殖していた。これらの化石はアフリカのいたるところで発見され、特に南部で顕著に見られる。三畳紀とジュラ紀を分ける
	地球規模の絶滅を示す発掘は、アフリカではあまり行われていない。
	初期ジュラ紀の地層は三畳紀後期と重なって分布し、南部で多く露頭する。しかし化石層は南部では少なく、北に行くほどその数は優勢に
	なってゆく。ジュラ紀には、アフリカでは竜脚下目や鳥脚目などの恐竜が広い範囲で隆盛を極めた。中期の研究はあまり進んでいない。
	後期は遅れているが、数少ない例外に当るタンザニアのテンダグル層(en)では、北アメリカ西部で見つかったモリソン層(en)の古生物学的
	様相(en)と非常に近似したところが見られた。
	1億6千−1億5千年前の中生代中頃、ゴンドワナ大陸には後のインド亜大陸とマダガスカルが繋がっていた。そのため、マダガスカルからは
	アベリサウルス(en)やティタノサウルス上科(en)の化石が発見される。その後、白亜紀初期にインドとマダガスカルは分離を始め、後期に
	はこの2つの陸塊も分離して現在に至る。中生代、マダガスカルとアフリカ大陸の相対的な位置には変化が無かった。その一方でパンゲア
	大陸そのものの変化は進行し、白亜紀後期の始まり頃には南アメリカがアフリカから分離し、南大西洋が形成された。この出来事は海流の
	変動を呼び、地球規模の気候形成に影響を与えた。
	この白亜紀には、アロサウルス類(en)や最大の肉食恐竜として知られているものを含むスピノサウルス類(en)などが繁栄していた。ティタ
	ノサウルス属(en)は当時の生態系の重要な草食動物であった。アフリカでは、発掘された白亜紀の遺物は多いがジュラ紀のそれは少なく、
	今後の調査が待たれる。






	<先史時代>

	ほとんどの古人類学者は、人類はアフリカで生まれたという説を採っている。アフリカは大陸移動や地殻変動から、大規模な気候変動を繰
	り返していた。人類の発生は約4000万年前に遡る東部での隆起帯が形成され、乾燥化が進展したことが要因にあると考えられる。「イース
	トサイド説」では、豊かなコンゴ盆地の森林から一部のサルが乾燥したサバンナへ分かれ、進化が始まったという。
	南アフリカのヨハネスブルグ北部などが人類が初めて住んだ場所と考えられる。20世紀中頃には、人類学者たちは既に700万年以上古
	い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。化石は、いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、放射年代測定から紀元前390−300
	万年頃に生きたと考えられるアウストラロピテクス・アファレンシスや紀元前230−140万年頃のパラントロプス・ボイセイ(en)、紀元前190
	−60万年頃のホモ・エルガステルが人類へ進化したと推察される。先史時代、他の大陸と同様にアフリカに住む人類は、国家を持たず、現
	代のコイコイ人やサン人のように狩猟採集社会の集団をつくって生活していた。
	アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するという循環を繰り返していた。20000年前頃には拡大を
	していたサハラ砂漠は、12000年前頃には縮小に転じ、森林地帯の広がりとともにチャド湖など湖水の面積も大きくなった。この北部アフリ
	カの「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈また牛の牧畜なども行っていた。
	しかし 5000年前頃から乾燥化が急速に始まり、沙漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人類は熱帯性気候の西や南、ナイル川流域などに移
	住した。










	アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリ
	カがコプト教のエチオピアとイスラム教のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特なアニミズムの伝統が濃厚に残っ
	てきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。
 
	ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがインド洋航路を発見した150年後に制作された。海岸線は正確だが、内陸部、特に河川の流路に関す
	る情報が極端に不足していたことが分かる。例えばナイル川が南部アフリカに達しており、ニジェール川の流路は全く異なっている。
	最古の史料が残っているのはファラオによる支配が始まったナイル川流域の古代エジプト王国であり、紀元前3300年頃の文字記録が発見さ
	れている[23]。これは世界最古の文明の一つで、紀元前2900年頃、メネス王が上下エジプトを統一して以来、古王国時代に築かれたピラミ
	ッドによって世界的に知られている。紀元前1000年頃には製鉄技術が北アフリカにも伝播し、急速に広がってブラックアフリカ北部まで鉄
	器が使われるようになった。
	一方、チュニジアでも紀元前800年頃にフェニキアの植民都市としてカルタゴが築かれ、経済大国となった。紀元前146年にカルタゴは共和
	制ローマに滅ぼされ、ローマ支配下のアフリカ属州となった。5世紀、ローマ帝国が弱体化し、ゲルマン民族の大移動の時代に、チュニジ
	アでは、ヴァンダル族が、429年、カルタゴの故地にヴァンダル王国を建設したが、地中海世界の再統一に燃える東ローマ帝国によって534
	年に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝国の北アフリカ支配も長くはなく636年、パレスチナのヤルムク河畔で、日ののぼる勢いのイスラム
	帝国(正統カリフ)に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカはウマイヤ朝時代にイスラム勢力の支配下に入った。アッバース朝時代に
	勢力争いで、ハールーン=アッラシードに敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、フェズにイドリース朝を開いた。
	9世紀以降、アッバース朝カリフは、800年にチュニジアのアグラブ朝、868年にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラ
	ワイフが貢納を条件にエジプト総督を世襲して事実上エジプト独自のイスラム王朝となったトゥルーン朝、トゥルーン朝滅亡後、やはりエ
	ジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えるとともに大幅な自治を認め、イフシード朝の建国(935年)を許すなど分裂
	向を強めた。




	<西アフリカ・北アフリカ>」

	西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる土偶と製鉄技術をもったノク文化がナイジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、
	アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響をあたえた。ナイジェリアでは、9-10世紀のイボ=ウクゥ文化、10-13世紀のイフェ文化、14-18
	世紀のベニン王国が繁栄し、優れた青銅製品で知られている。また西アフリカでは、紀元前500年頃に金属加工技術が到達したが、さらなる
	拡大は紀元後になった。エジプトやヌビア、エチオピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの青銅器が西アフリカで発掘されてい
	る。
	これは当時からサハラ交易が行われていた事を示す。この交易を背景に繁栄したのがセネガル川上流とニジェール川上流に4世紀にさかのぼ
	るといわれるガーナ王国であり、11世紀後半まで岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。
	その後、交易路の東漸に伴って、マリ帝国がニジェール川上流のニアニを首都とし湾曲部のトンブクトゥを版図に含んで13-15世紀前半まで
	繁栄、ソンガイ帝国が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部を中心にナイジェリア北部のハウサ諸国を従え、マリ帝国を屈
	服させてその版図の大部分を奪い、ほぼ西スーダンを統一する広大な版図を誇った。
 
	一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの隊商による交易に利害のあった北アフリカ西部、マグリブにもベルベル人によって11世
	紀中葉-12世紀中葉にムラービト朝、12世紀中葉-13世紀頃にムワッヒド朝、13-15世紀にマリーン朝という強力なイスラム王朝が建てられた。
	特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。ソンガイ帝国は、1590年に、16世紀中葉にモロッコで興った強力なサアド朝
	(サーディ朝)に攻め滅ぼされた。イフリーキヤと呼ばれたチュニジアも、909年にアグラブ朝を倒して、ファーティマ朝が興ると、926年
	には西隣のイドリース朝を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、イフシード朝を滅ぼすと、北アフリカの統一を完成し、新首都カイロ
	に遷都(973年)して、カリフを称した。西カリフ国と呼ばれたイベリア半島の後ウマイヤ朝に比して、中カリフ国と呼ばれた。エジプトで
	はその後対十字軍戦争で活躍したサラディンによるアイユーブ朝、アイユーブ朝のもとで実力をつけたバフリーヤなどのマムルークの力に
	よって建国されたマムルーク朝が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立したハフス朝があり、これらの強力
	な王朝のもとで優れたイスラム建築が多数建設され、町並みが世界遺産に登録されているものも数多い。しかし、1517年にマムルーク朝、
	1574年にハフス朝がオスマン帝国によって併合される。
 
	モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国はマグリブと呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、
	東方)に対して西方、すなわち、時と場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴史的に西ス
	ーダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常は西アフリカに区分される。
 



	<東アフリカ・南アフリカ>

	東アフリカの北部にあたるエチオピアでは、4世紀にコプト教を国教としたアクスム王国が、ギリシャ、ローマ帝国、そして東ローマ帝国と
	の交流をもち、紅海貿易で繁栄した。11世紀頃にザグウェ朝が興り、世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群が造られた。沿岸部では、
	イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、モガディシオ、キルワ、マリンディなどの港湾都市が繁栄した。交易路は、モザンビーク南
	部の港町ソファラからジンバブエのザンベジ川流域、リンポポ川流域にまで及び14-15世紀にショナ人によるモノモタパ王国が金や象牙の輸
	出で繁栄した。モノモタパ王国の首都と目されるグレート・ジンバブエ遺跡からは、中国(宋、元、明代)の青花などの陶磁器、インドの
	綿製品、インドネシアの数珠玉、ペルシャの壺などの出土がみられ、当時の交易が盛んであったことを物語っている。モノモタパ王国が衰
	退すると、ロズウィ王国が19世紀半ばまでジンバブエの地を支配した。




















	<奴隷貿易>

	長い間アフリカは、奴隷制度に蝕まれてきた。7世紀から20世紀に至るまでアラブ世界への奴隷貿易は継続して行われ、1800万人がサハラ
	交易やインド洋貿易で取引された。大航海時代を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易路が形成
	されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた。15世紀から19世紀までの500年にはアメリカ州向けの奴隷貿易が行われ700-1200万
	人が新世界の奴隷として輸出された。
	1820年代、西アフリカは大西洋航路の奴隷貿易が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られた。ヨーロッパや新世界における奴隷制度廃止運
	動の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸部でのイギリス海軍駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。1808年から
	1860年の間に、イギリスの西アフリカ小艦隊は約1600隻の奴隷船を拿捕し、15万人のアフリカ人を解放した。
	また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「ラゴスの略奪王 (the usurping King of Lagos)」
	攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はアフリカ50カ国以上の国々で締結された。この動きに、国力があったアシャンティ王国、ダホ
	メ王国、オヨ王国は順応する動きを取り、アシャンティやダホメはパーム油やカカオ、ランバー材や金など、現在の主力でもある商品輸出
	という「合法的な通商」へ転換した。しかしオヨ王国は適応できず、内戦の末に崩壊した。














アフリカの地図 1890年 (クリックで拡大)

	<アフリカ分割>
	19世紀後半には、アメリカ開放奴隷が建国したリベリアと第一次エチオピア戦争で独立を維持したエチオピアを除いて、ヨーロッパ諸国に
	よるアフリカ分割が行われ、西アフリカの小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の民族紛
	争の原因ともなった。
 
	<脱植民地化>
	ヨーロッパ列強の帝国主義は第二次世界大戦以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸国の独立への機運が高まった。1951年にはリビア
	がイタリアから、1956年にはチュニジアとモロッコがフランスから独立を果たした。翌年にはガーナが続き、サブサハラ初の脱植民地を成
	した。
	1960年のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生したが、独裁政治の発生や内戦などの問題を抱え
	つつ今日に至っている。なお、政治的統合をして、新植民地主義への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し
	1963年5月に発足したアフリカ統一機構(OAU)が、2002年7月9日には発展解消してアフリカ連合が成立した。これは、個々の国を超えた枠
	でのアフリカ政治の中心的役割を担い、今日でも紛争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目指している。


アフリカの地図 現在 (クリックで拡大)


	<アフリカの国>

	・北アフリカ
	 アルジェリア (アルジェ) アラビア語、フランス語
	 エジプト (カイロ) アラビア語
	 スーダン (ハルツーム) アラビア語、英語
	 チュニジア (チュニス) アラビア語、フランス語
	 モロッコ (ラバト) アラビア語、フランス語、スペイン語
	 リビア (トリポリ) アラビア語
	 南スーダン(ジュバ) 英語
 
	・西アフリカ
	 ガーナ (アクラ) 英語
	 カーボベルデ (プライア) ポルトガル語
	 ガンビア (バンジュール) 英語
	 ギニア (コナクリ) フランス語
	 ギニアビサウ (ビサウ) ポルトガル語
	 コートジボワール (ヤムスクロ)、(アビジャン) フランス語
	 シエラレオネ (フリータウン) 英語
	 セネガル (ダカール) フランス語
	 トーゴ (ロメ) フランス語
	 ナイジェリア (アブジャ) 英語
	 ニジェール (ニアメ) フランス語
	 ブルキナファソ (ワガドゥグー) フランス語
	 ベナン (ポルトノボ) フランス語
	 マリ (バマコ) フランス語
	 モーリタニア (ヌアクショット)アラビア語、フランス語
	 リベリア (モンロビア) 英語
 
	・中部アフリカ
	 ガボン (リーブルヴィル) フランス語
	 カメルーン (ヤウンデ) フランス語、英語
	 コンゴ共和国 (ブラザヴィル) フランス語
	 コンゴ民主共和国 (キンシャサ) フランス語
	 サントメ・プリンシペ (サントメ) ポルトガル語
	 赤道ギニア (マラボ) スペイン語、フランス語、ポルトガル語
	 チャド (ンジャメナ) フランス語
	 中央アフリカ (バンギ) フランス語
	 ブルンジ (ブジュンブラ) フランス語
	 ルワンダ (キガリ) フランス語
 
	・東アフリカ
	 ウガンダ (カンパラ) 英語、スワヒリ語
	 エチオピア (アディスアベバ)アムハラ語
	 エリトリア (アスマラ) ティグリニャ語、アラビア語
	 ケニア (ナイロビ) 英語、スワヒリ語
	 ジブチ (ジブチ市) フランス語
	 セーシェル (ヴィクトリア) 英語、フランス語
	 ソマリア (モガディシュ)ソマリ語、アラビア語
	 タンザニア (ダルエスサラームおよびドドマ) 英語、スワヒリ語
 
	・南部アフリカ
	 アンゴラ (ルアンダ) ポルトガル語
	 コモロ (モロニ) フランス語
	 ザンビア (ルサカ) 英語
	 ジンバブエ (ハラレ) 英語
	 スワジランド (ムババーネ) 英語
	 ナミビア (ウィントフック) 英語、アフリカーンス語
	 ボツワナ (ハボローネ) 英語
	 マダガスカル (アンタナナリボ) フランス語
	 マラウイ (リロングウェ) 英語
	 南アフリカ共和国 (プレトリア)、(ケープタウン)、(ブルームフォンテーン) 英語、アフリカーンス語他
	 モーリシャス (ポートルイス) 英語、フランス語
	 モザンビーク (マプト) ポルトガル語
	 レソト (マセル) 英語
 
	・独立国以外の地域
	 (イギリス領)
	 セントヘレナ(アセンション島、トリスタン・ダ・クーニャ諸島を含む)
	 イギリス領インド洋地域 (チャゴス諸島、ディエゴガルシア)
	(フランス領)
	 マヨット Mayotte (海外領土)
	 レユニオン Reunion (海外県)(グロリオソ島 Glorioso Is.、トロメリン島 Tromelin Is.、ファン・デ・ノヴァ島 Juan de Nova Is.
	 などを含む)
	(スペイン領)
	 カナリア諸島 Islas Canarias (自治州)
	 セウタ (飛地)
	 メリリャ (飛地)
 	(その他)
	 ソマリランド(ハルゲイサ)
	 西サハラ(アイウン)
	 南カメルーン(バメンダ)
	(消滅した国)
	 ビアフラ共和国
	 オレンジ自由国
	 トランスヴァール共和国
	 ナタール共和国


	<日本とのかかわり>

	平成15年9月29日、小泉純一郎総理大臣は第3回アフリカ開発会議における基調演説においてアフリカの重債務貧困国等に対する総額約30億
	ドルの円借款債権の放棄を実施することを発表した。日本の国民からは金利の低減・免除ではなくなぜ債権自体を放棄するのか大きな批判
	が起こった。主に欧米が「アフリカ救済」を前面に出し債権放棄を要求し圧力に屈する形で放棄に至ったため、声の大きい欧米にすぐに迎
	合し国益を全く考えていないとの指摘が出された。アフリカ諸国への債権放棄を主張する中心国の一つのイギリスは 1,000万ドルしか債権
	を保有していないことが明らかになった。(いつでも西洋人はズルイねぇ。人のいい日本人は全く翻弄されている。)


 邪馬台国大研究/博物館めぐり/みんぱく